人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2017年12月7日・8日/アルフレッド・ヒッチコック(1899-1980)のほぼ全作品(4)

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 ヒッチコックサイレント映画時代の作品も今回の2作『シャンパーニュ』『マンクスマン(マン島の人々)』が最終回になりました。それぞれどういう性格の作品か(どのような意図の企画だったか)は、この2作についてはポスターに如実に表れているので、感想文よりポスターの方がよほど参考になると思います。第2作『山鷲』'26はプリントが現存しないので(イギリス映画協会の「the most wanted "Missing Presumed Lost" film in the world」に認定されて現在も捜索されています)今回までの8作が今でも観ることができるヒッチコックの純粋な全サイレント映画になります。『シャンパーニュ』『マンクスマン(マン島の人々)』の2作ともヒッチコックが「あれは最低」「最後のサイレント作品という以外取り柄はないな」とこき下ろしている作品ですが(『映画術』)、作者自身に不満があっても案外面白い出来になっているのはこれまでも見てきた通りですので作者の自己評価とは必ずしも当てにならないものです。次の監督第10作『恐喝(ゆすり)』'29は映画のトーキー化の過渡期の製作でしたので上映館の設備環境を考慮してかサイレント版とトーキー版の両方が作られましたが、トーキーの一般化以降はトーキー版が決定版とされ、またヒッチコック自身がトーキー作品を意図して製作したのは前述の発言や作品にトーキーならではの特殊な音声効果を使用していることからも明らかです。イギリス映画協会は歴史的価値からサイレント版『恐喝(ゆすり)』も2012年にデジタル・リマスターして復原・公開しましたが、現行映像ソフトではサイレント版はリリースされておらず、この2017年2月にヒッチコックのサイレント作品の特集上映「ヒッチコック9」で公開されたきりですので、次回でトーキー版をご紹介するのにとどめました。なお、今回も『ヒッチコック/トリュフォー 映画術』(晶文社刊、山田宏一蓮實重彦訳)からの発言は例によって多少表現を変えて引用させていただきました。

●12月7日(木)
シャンパーニュ』Champagne (英ブリティッシュ・インターナショナル・ピクチャーズ'28)*86min, B/W, Silent; 日本未公開(特集上映、テレビ放映、映像ソフト発売)

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○製作=ジョン・マックスウェル/原案=ウォルター・C・マイクロフト/脚色=エリオット・スタナード/撮影=ジョン・J・コックス
○あらすじ アメリカのシャンペン業者の大富豪令嬢ベティ(ベティ・バルフォア)はパリへ向かう恋人の青年(ジャン・ブラダン)が乗った客船を自家用飛行機で追いかけて合流し新聞記事を賑わせ、父マーク(ゴードン・ハーカー)の怒りを買う。船酔いで船上パーティーが中止になる中、ベティは自分を注視する中年紳士(フェルディナンド・フォン・アルテン)に気づく。ベティの父から「お前の恋人は金目当てだ」と電報が届き、ベティにからかわれた青年は怒りだす。青年は船上結婚式を手配するが、今度はベティが「何であなたが手配するのよ!」と怒り出す。結局そのままパリに着いたベティは毎日自宅パーティーに明け暮らし、ようやく訪ねてきた青年を呆れさせる。そこにベティの父が現れ、事業の倒産を告げる。青年はいたたまれずに他の客と去ったので、ベティの父はほら、やっぱり金目当てさと言う。翌日からベティと父の場末のアパート生活が始まる。ベティは宝石を売りに出かけるがスリに盗まれ、落胆する父に「パパが数百万ドル失っても私は責めなかったのに!」と怒り出す。ベティは父娘の面倒をみると申し出る青年に反発し、反対を押し切って仕事に着くことにし、モデル募集の応募手違いから船上キャバレーの花売り娘になる。ベティはそこでも謎の中年紳士と出会い、水商売の危険を忠告され、助けが要る時は相談しなさいと言われるが不安になり、青年が現れてホッとする。恋人の青年もベティの仕事に驚愕し、ベティの父親を連れて戻ってくる。父はベティに享楽生活を諫めるために破産と嘘をついたのだ、と明かし、ベティは父と青年の両方に激怒してアメリカに帰国するという中年紳士の名刺の船室を訪ねる。中年紳士はベティを閉じ込めるが、そこに恋人の青年が現れる。部屋は青年の船室だった。中年紳士はベティの父親と戻ってきて、父は紳士を旧友でベティの監視役を頼んでいたと明かす。隠れて聞いていた青年は怒って現れ紳士につかみかかるが、父マークは青年と紳士を握手させてベティを青年に預け、紳士と船室を出ていく。青年は「船上結婚式を手配してきたよ」と言い、ベティはまたもや「何であなたが手配するのよ!」と怒り出す。

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 当時アメリカ娯楽映画の流行には「フラッパー」と呼ばれる都会の若い女の子の恋愛遊戯を描いた作品がありました。いつの時代にもそういう映画の流行が周期的にありますが、1910年代半ばの流行は「ヴァンプ」(ヴァンパイアの略)と呼ばれたどぎつい悪女でしたので、1920年代後半のフラッパーはもっといたずらっぽい雰囲気で、設定が普通のOLにせよ水商売にせよ大金持ちの令嬢にせよ親しみやすいイメージの女の子が映画のヒロインになり、ヴァンプ映画が破滅的ならフラッパー映画は普通に享楽的なもので、クララ・ボウルイーズ・ブルックスといった女優に代表されるフラッパー映画は庶民的な感覚のヒロイン映画としては映画史上初めてのものだったのです。合衆国ではフラッパー映画の流行直後に経済大恐慌が起こりますから、こういう流行はバブル経済の末期に起こるという見方もあります。本作はヒッチコック版のフラッパー映画で、アメリカのフラッパー映画の流行にそのまま乗ったものでしょう。原案はイギリスの批評家・ジャーナリストだそうですから、映画会社が流行の企画に沿った原案を依頼し自社の専属監督に撮らせた、ヒッチコック以外の監督に行ってもいいような娯楽映画企画だったと思われます。
 ヒッチコックが「次何撮ったっけ。『シャンパーニュ』?あれは最低」と片づけようとし、トリュフォーが「いや、面白い映画でしたよ」とフォローして次々と印象に残った場面を上げている(『映画術』)作品ですが、トリュフォーが指摘しているシャンペン・グラス越しのショットは確かに印象に残るものの映像効果を越えて映画の内容を豊かにしているとは言えません。またトリュフォーが上げる船上レストランの調理場の不潔な料理が綺麗に盛りつけられて豪華な客席に供されるシークエンスや、荒波に揺れる船上で乗客たちがよろめいて歩く中(ここまではわかりやすいですが)酔っ払いだけがまっすぐ歩いているギャグはヒッチコック自身が唯一本作で気に入った演出に上げていますが、今回流して1度観て、あらすじを起こすためにもう1度観て、どちらも印象に残りませんでした。映画監督が面白がる細部の演出と観客の観る全体像のズレを感じさせます。場末のアパートに移ったヒロイン父娘が、料理などしたことのない娘の料理に音を上げる(父は「腹が空いてない」と隠れて街の高級レストランに食べに行く)場面などは主要人物に関わりますから画面に集中しますが、主要人物と関わりない細部の演出は映画の作り手側には面白くても観客にはあまり伝わってこないのです。シャンペン・グラス越しの映像もこじつければシャンペン一杯のような他愛ない人生の喜怒哀楽、と言えなくもないでしょうが、そこまで意味づけしないと映像効果が生きてこないのでは深読みを観客に強制しすぎでしょう。
 本作のヒロインは魅力のない女優ではないですし、父親役のゴードン・ハーカーは『リング』『農夫の妻』に続いていい性格俳優ですが、ヒッチコックの成功した映画が大半サスペンス映画であるような、登場人物の運命に手に汗握るような要素があまりにも乏しいのが本作を余興のようなコメディ映画に終わらせている要因でしょう。ヒッチコックの普通のドラマ映画でも、これまで取り上げたサイレント作品なら『ふしだらな女』や『農夫の妻』には登場人物の運命に観客を引きつけ、観終えた後「映画観たなあ」と満足感を与えてくれる十分な内容がありました。その点本作の登場人物などどうなってもいいような性格、描き方しかされていないので、些末な演出にしか見所がない映画になっている。そこがヒッチコックのヨーロッパの方に顔を向けたイギリス人的気取りというか、アメリカ映画なら一流監督でなくても必ず心がけるのが登場人物本位の演出です。そうした人物本位でない映画を手がけるなら、もっと徹底してドイツ映画やソヴィエト映画のように映画を見世物化するか、フランス映画やイタリア映画のように図式化を徹底するか、北欧映画のように耽美性や神秘性に走るかで、作者自身が「最低の代物」と認めているものにあれこれ要求するのは酷ですが初めから期待しないで観ればこれはごく普通のコメディ映画で、なあんだ大したことないなあ、と観ている間だけ楽しんでさっさと忘れてもいいような軽い作品です。ベティ・バルフォア(1903-1977)はイギリスのメアリー・ピックフォードとしてサイレントの'20年代にイギリスで絶大な人気を誇った女優で、ピックフォードの代名詞「Sweetheart of America」に対して「Britain's Queen of Happiness」と呼ばれていたそうです。ちなみにドイツ上映版も作られたそうですから、一種のアイドル映画みたいなものじゃないでしょうか。

●12月8日(金)
『マンクスマン(マン島の人々)』The Manxman (英ブリティッシュ・インターナショナル・ピクチャーズ'29)*80min, B/W, Silent; 日本未公開(特集上映、テレビ放映、映像ソフト発売)

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○製作=ジョン・マックスウェル/原作(小説)=サー・ホール・ケイン/脚色=エリオット・スタナード/撮影=ジャック・コックス
○あらすじ マン島に住む青年、漁師のピート(カール・ブリッソン)と弁護士のフィル(マルカム・キーン)は幼なじみの親友で、二人ともマン島フェリー社社長で島の宿屋の経営者シーザー(ランドン・アイアトン)の娘、ケイト(アニー・オンドラ)に憧れていた。ピートはケイトと交際を始め、ケイトの父に信用の篤いフィルを通して求婚するが、貧乏を理由に門前払いされる。奮起したピートはアフリカ航路の船員になって財をなすと宣言し、ケイトと結婚の約束をしてフィルに後を託して出稼ぎに旅立つ。ケイトとフィルはピートの不在に次第に惹かれあっていき、身分の低い女は出世の妨げになるとフィルの母(クレア・グリート)に交友を反対されるが、遂に男女の関係になる。そこにピートの客死の報が届く。フィルは罪悪感に囚われるがケイトはむしろその報に安堵する。フィルは次期の島の主席判事に着任が決まり、ケイトはフィルとの生活の計画を始める。だがピートの客死は誤報で、アフリカで財をなしたピートからの電報が届き、帰国したピートをケイトとフィルは関係を秘密にしたまま迎える。ピートは嬉々としてケイトの父に結婚の了解を取りつけ、ケイトと挙式する。そしてピートの留守中ケイトに呼び出されたフィルはケイトの妊娠を知らされる。帰宅したピートはフィルの姿に一瞬驚くが、ケイトの妊娠を知って喜ぶ。赤ん坊が生まれて間もなく「結婚前から愛している男がいて、今も彼を愛している」と置き手紙を残してケイトは家出し、ピートはフィルを呼んで赤ん坊を抱き泣き崩れる。ケイトはフィルの事務所を訪ねて決断を迫り、赤ん坊を連れていくためにピートの家に戻る。あなたの子供ではない、と言うケイトにピートは狂乱し、厳として赤ん坊を渡さず、絶望したケイトは海へ身を投げる。翌日、フィルの主席判事着任最初の日、自殺未遂の罪状でケイトが被告席に立つ。フィルはケイトに無罪を言い渡し帰宅を許可してピートは喜ぶが、ケイトはピートの元には帰らない、と拒絶する。その様子を見てケイトの父が裏切り者はあいつだ、とフィルを傍聴席から告発する。フィルはケイトとの関係を認めて懺悔し、その場で裁判官の地位を辞職する。港でケイトはピートから赤ん坊を渡され、島民の罵声を浴びながらフィルとケイトは島を去る。

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 ポスターに注目。このポスターが語るのは、原作準拠で主演俳優を押し出した真面目な文芸映画ということです。「最後のサイレント映画という以外取り柄はないな。忘れた。あまりに高名な通俗小説が原作なので、原作を尊重した映画という制約があった」(『映画術』)とヒッチコックが語る通り、日本では専門家しか(専門家すら?)読まないような作品ですが、本作は1916年にアメリカの監督ジョージ・ローン・タッカー(グリフィスより年上、1872-1921)がイギリスに渡って撮りイギリスで大ヒット、翌年アメリカ公開されてアメリカでもヒット(当時イギリスとアメリカ両方でヒットした映画はめったになかったそうです)の同原作、同名映画のリメイクになるそうです。タッカーはマフィアによる移民の人身売買を描いた第1長編『暗黒街の大掃蕩』'13が唯一完全に残っている作品で、最大のヒット作『ミラクルマン』'21すら'30年代のオムニバス映画に使われた僅かなシーンしかなく、タッカー版『マンクスマン』'16のオリジナル・プリントもMGMのフィルム倉庫の大火事で(当時のフィルムは自然発火の危険の高い可燃性でした)1967年に焼失してしまいました。まだ古典映画の保存運動が本格的ではなく、保管用プリントが作られていなかったのです。8年間に長編10作、監督キャリアで短編は50作以上ある映画創成期の伝説的監督にしてこの有り様ですから、サイレント時代の映画がトーキーの出現で簡単に廃棄されてしまった惨状がうかがえます。
 タッカー版をヒッチコックが参考視聴していないわけはないと思いますが、『映画術』ではその言及はなく、トリュフォーも「シリアスな映画」でヒロインが妊娠を告げるシーンを字幕なしに処理しているのを「トーキーを予告している」と言及している程度で実質1/3ページしか割いていません(『シャンパーニュ』の半分)。またしてもトリュフォーの読みすぎで、これは台詞字幕にするのが当時のイギリス映画の倫理基準でははばかられた、というべきでしょう。リアクションで理解できる台詞まで台詞字幕にはしない、というのはサイレント映画の常識です。それよりも主役のふたり(クレジット上は主演は漁師役のカール・ブリッソンですが、映画の内容は明らかにブリッソンの不在に密通するマルカム・キーンとアニー・オンドラが主役なので以下主人公はキーンとします)がついに人目につかない所でデートするようになる、熱いキスを交わしているカップルを見かける、動揺が隠せず何となく水車小屋に入る、暗がりにふたりが寄り添う、水車の碾き臼がゆっくりと回るカット、という30年後の『北北西へ針路を取れ』'59のエンディング(寝台車の中で抱擁する主人公とヒロイン→列車がトンネルに突入するラスト・カット)のような「やっちゃったか」とハッとするセックスの暗示にヒッチコックらしいスケベ心があります。婚約者が金持ちになって帰還するや手の平をかえして結婚を認めたヒロインの父が自宅で開いた結婚式で「結婚の誓いは神聖なものだ。これを破れば神はゆっくりと碾き臼を回す」と広間のでかい碾き臼を回し、参列者みんなが重い表情になり特にヒロインと秘密の恋人が蒼ざめる、とちゃんと伏線になっており、最後に主人公たちを告発するのもこの嫌な父親です。
 構えとしては『ふしだらな女』と同じメロドラマで、主人公たちの秘密がいつまでバレずにいられるか、というのが単純ながらサスペンスの要素になっています。「ヒッチコック映画とは言えないな」とヒッチコックは言い、トリュフォーも本作には突っ込まずに「あなたにとってサイレント映画とは何ですか?」と総括してしまいますが、ヒッチコックは「映画の純粋な形式だと思う」と答えています。そこからまた本作の話に戻ってもよさそうなものですが、「ぱっとしない出来だった」と本人が言う作品である以上に本作はヒッチコックトリュフォー両者にあまり良い印象のない、偽善的な勧善懲悪劇だったのでしょう。原作小説(1894年刊)は知りませんが『秘文字』1850の通俗版みたいなものだとは想像がつきます。主人公の裁判官は「私は神と人とに罪を犯しました。余生をその償いに捧げます」と懺悔しますがそれこそ偽善的なヒロインの父親に言われる筋合いはなく、結婚後の姦通ならまだしも主人公とヒロインの恋愛など世間的にはよくある事情です。それを隠してヒロインが実は生きていた婚約者と結婚したのがまずいので、19世紀のイギリスの偽善的な倫理観をそのまま映画化せざるを得なかったのが偽善的モラルなどどこ吹く風のヒッチコックトリュフォーには嫌な感じのシリアス映画になってしまったゆえんでしょう。小説『マンクスマン』が(ヒッチコックの言う通りなら)通俗小説で『秘文字』が通俗小説でないのはその一線です。しかし技法的には主題への緊密な集中とその持続、ムードを保ちながら起伏に富んだ構成と適切な映像で描いた手腕で本作は見応えある佳作となっており、現代でこそ各種の著名な国際競技が名物の観光名所化する前の、古く複雑な歴史を持つ(イギリス領でもアイルランド領でもない、固有のマン島語すらある特異な文化の)マン島ロケを交えている点でも部分的にはドキュメンタリー的な価値すらある映画です。サイレント時代の掉尾を飾ると言えるだけの完成度はあり、原作小説『マンクスマン』が『秘文字』のマン島版リメイクなら『秘文字』の映画化作品は、コリン・ムーア主演の'34年作品からヴェンダース監督の'73年版、メグ・フォスター主演版('79)、デミ・ムーア主演版('95)、エマ・ストーン主演版(2010)まですべてヒッチコック版『マンクスマン』のリメイクとも言えるでしょう。ヒロインのアニー・オンドラは次作のトーキー第1作『恐喝(ゆすり)』'29でも主演を張ります。欠点といえばヒロインが主人公を愛しているようには主人公がヒロインを愛しているとは見えないところでしょうか。しかしまあ、それも原作準拠なのでしょう。
(なおカメラマンのジャック・コックスはジョン・J・コックスと同一人物と思われます。)