人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2017年12月25日・26日/アルフレッド・ヒッチコック(1899-1980)のほぼ全作品(13)

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 ヒッチコック作品は第38作『私は告白する』'53まで日本ではパブリック・ドメイン作品になっており、そのうち21作は、前回ご紹介した通りワンコイン以下の価格の激安DVDで国内盤が出ています。ファーストトレーディング社からは「ヒッチコック劇場 作品集 全21巻」のセット、または単品分売で、1.『恐喝 (ゆすり)』'29 / 2.『暗殺者の家』'34 / 3.『三十九夜』'35 / 4.『間諜最後の日』'35 / 5.『サボタージュ』'36 / 6.『第3逃亡者』'37 / 7.『バルカン超特急』'38 / 8.『レベッカ』'40 / 9.『海外特派員』'40 / 10.『断崖』'41/ 11.『逃走迷路』'42 / 12.『疑惑の影』'42 / 13.『救命艇』'44 / 14.『白い恐怖』'45 / 15.『汚名』'46 / 16.『パラダイン夫人の恋』'47 / 17.『ロープ』'48 / 18.『山羊座のもとに』'49 / 19.『舞台恐怖症』'50 / 20.『見知らぬ乗客』'51 / 21.『私は告白する』'53の21作が各400円で、また書籍扱い(書店流通)でパブリック・ドメイン作品の古典映画の廉価盤シリーズ発売をしているコスミック出版からはヒッチコック作品集は2巻出ており、上記21作のうち『パラダイン夫人の恋』を除く20作が『ヒッチコック サスペンス傑作集』『ヒッチコック ミステリー劇場』に各10枚組・2,000円で発売されています。その他にも監督デビュー作『快楽の園』以外は日本版DVD化がされており、IVC社からのリリースで上記と重ならないものを上げると『下宿人』'26、『リング』'27、『ふしだらな女』'27、『農夫の妻』'28、『マンクスマン(マン島の人々)』'28、『ジュノーと孔雀』'30、『殺人!』'30、『リッチ・アンド・ストレンジ(おかしな成金夫婦)』'32、『第十七番』'32、『巌窟の野獣』'38、『スミス夫妻』'41が当初3,500円、現在は各巻1,800円で再発売されています。IVC社は古典映画を品切れ廃盤にせず頑張っている偉いメーカーなのですが、惜しむらくは良いマスターを使っていないことが多く、同じ作品ならファーストトレーディング社やコスミック出版の方が良好なマスターを使っているほどで、ヒッチコックの初期作品でとびきり良いプリントで観られるものは英Carlton社によるデジタル・リマスター版を原盤にした『ダウンヒル(下り坂)』'27(パイオニアLDC、エムスリイエンタテインメントの2社より発売)、また2005年の仏Studio Canal社によるデジタル・リマスター版から『ヒッチコック・クラシック・セレクション』として全4巻でユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパンが発売した(1)『リッチ・アンド・ストレンジ(おかしな成金夫婦)』・『スキン・ゲーム』'31・『第十七番』、(2)『ヒッチコックのゆすり』・『殺人!』、(3)『農夫の妻』・『マンクスマン(マン島の人々)』、(4)『シャンパーニュ』'28・『リング』は現状望み得る最高画質・音質(サイレント作品は適切な音楽つき)で決定版と言ってよく、できれば『快楽の園』を含むパブリック・ドメインの全作品がStudio Canal社版、またはCarlton社版並みの丁寧なリマスター版で再発されてほしいものです。というのは、と前置きをして本文に入ることにします。なお、今回も『ヒッチコック/トリュフォー 映画術』(晶文社刊、山田宏一蓮實重彦訳)からの発言は例によって多少表現を変えて引用させていただきました。

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●12月25日(月)
『スミス夫妻』Mr. & Mrs. Smith (米RKO'41)*95min, B/W; 日本公開昭和64年(1989年)2月11日

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○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より) ふとしたことから結婚が無効であることが判明した一夫婦の騒動を描くコメディ映画で、今回が日本初公開に当る。製作総指揮はハリー・E・エディングトン、監督はアルフレッド・ヒッチコック、脚本はノーマン・クラスナ、撮影はハリー・ストラドリング、音楽はロイ・ウェッブが担当。出演はキャロル・ロンバードロバート・モンゴメリーほか。
○あらすじ(同上) アン(キャロル・ロン・バード)とデイヴィッド(ロバート・モンゴメリー)のスミス夫妻は結婚3年目、これまで喧嘩は数多く繰り広げてきたが、2人の愛は変わらなかった。ところがある日、弁護士事務所に出向いたデイヴィッドは、ハリー・ディーバーという老役人の訪問をうけ2人の結婚は役所の手続きのミスで無効であると知らされる。その足でハリーは、アンを訪ね同じことを告げる。夫から思い出の店"ママ・ルーシー"で夕食をとろうとの連絡をうけた彼女は、再びのプロポーズを期待するのだった。ところがその"ママ・ルーシー"は昔とは正反対のさびれようで、なかなか話を切り出さないデイヴィッドに不安と憤懣の念を抱いたアンは、夫を家から追い出してしまう。デイヴィッドは翌日からアンを追い回すが、彼女の決意は固く、どうしても妻の気持ちを自分に向けることができない。それどころかアンは、デイヴィッドの相棒で昔から自分に好意を寄せてくれているジェフ(ジーン・レイモンド)と結婚すると言い出した。デイヴィッドはアンとジェフの結婚を阻止すべくさまざまな妨害作戦を展開し、スキー場での大芝居でついに彼は妻の心を取り戻すことに成功するのだった。

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 まず国内盤DVDのひどい画質に唖然。激安DVDでも原盤マスターの良好で画質の良い『レベッカ』『海外特派員』と続けて日本では1社からしかDVD発売されていない本作を観ると、まるで昔の学園祭の16mmプリント上映かそれ以下の画質にがっくりきます。黒味は潰れているし白味はハレーションを起こしているしで、オリジナル・ネガやファーストジェネレーション・プリントが無理でもせめてもうちょっとマシなプリントから起こせなかったのか。そもそも1989年に日本初劇場公開(観たのはその時以来)された作品なのだから、その時にニュープリントが起こされているわけで、DVD化の際にも本国から良好な正規マスターを取り寄せるのは可能であるはず。その手間と版権料を惜しんで海外版パブリック・ドメインVHSテープをマスターにしたとおぼしいソフト(ビデオテープからのコピー並みの画質)でしかDVD化されていないとはどういうことか。3~4年前に出て入手困難になっていますが、台湾のメディアディスク株式会社(言佳株式会社)から日本・中国・英語圏輸出用に日本語・中国語・英語字幕つきで廉価盤の「超高画質名作映画シリーズ」というのが100本ほど発売されており、サイレント作品の新規音楽がひどい等の欠点はありましたが日本語字幕はちゃんとしていて、何より良好なマスターの使用とデジタル・リマスターによる高画質の復原が抜群でした。ヒッチコック作品もパブリック・ドメイン化しているトーキー作品はほぼ網羅されており、しまった品切れ廃盤になる前に『巌窟の野獣』と『スミス夫妻』は買っておくべきだった、と今さらながら後悔。『巌窟~』は輸入盤の米Delta社版(リージョンフリー、日本語・中国語・スペイン語字幕つき)も画質良好だからまだしもですが、『スミス夫妻』の日本語字幕つきの画質良好なソフトは入手困難になっている台湾版しかないようなのです。しかも本作はトーキーだし、台詞がわからないと面白さもわからないからせめて難聴者用英語字幕でもついていないときつい。本当にどうにかしてくれよ、という感じです。英語圏の観客には本作は受けているかというとやはりそうでもなさそうなので、ヒアリングできたら面白い作品かというとまた別の問題ですが、少なくとも画質が悪くてもいいということにはならないでしょう。
 ヒッチコックのハリウッド進出第3作の本作はクラーク・ゲイブル夫人の大スター女優、キャロル・ロンバード(1908-1942、全米映画協会1999年選・映画スター史上ベスト50で女優部門第23位)の依頼でヒッチコックに白羽の矢が立ったもので、渡米直前にヒッチコックがインタビューでロンバードを絶賛していたことからロンバードがRKO社に勧めた企画になるそうです。「スクリューボール・コメディの女王」と呼ばれたロンバードは戦時中の'42年1月、銃後支援キャンペーンのために巡業中に飛行機の墜落事故で亡くなったために日本では人気が伝わらなかった女優ですが、ホークスの『特急二十世紀』'34やスクリューボール・コメディの代表的傑作と名高い『襤褸と宝石』'36(グレゴリー・ラ・カーヴァ監督)、ジョン・クロムウェルホームドラマ『貴方なしでは』'39などで'30年代後半を代表する人気女優でした。『スミス夫妻』の次の主演作がエルンスト・ルビッチの戦争コメディの大傑作『生きるべきか死ぬべきか』'42が遺作でロンバード急逝後の公開になり、『特急二十世紀』『襤褸と宝石』と並んでアメリカ国立フィルム登録簿に永久保存作品選定された代表作になっています。明朗快活なロンバードの魅力は『スミス夫妻』でも輝いています。またスミス氏役はテレビシリーズ「奥様は魔女」のエリザベス・モンゴメリーのお父さんのロバート・モンゴメリーで、俳優以外にも異色の監督作『湖中の女』'46、『桃色の馬に乗れ』'47などで知られ、『湖中の女』はレイモンド・チャンドラーの同名ハードボイルド小説の映画化ですが、長編映画全編を小説通りに主人公(モンゴメリー自身)の一人称ショットで描いた特異な作品です(モンゴメリーは鏡に向かった時しか映らず、格闘シーンではカメラに向かってパンチが飛んできます)。モンゴメリーの相談相手になる親友役で達者な性格俳優ジャック・カーソンがいい味を出しており、撮影のハリー・ストラドリングは『巌窟の野獣』で組んだ名手で(日本版DVDではひどいことになっていますが)、脚本のノーマン・クラスナー(フリッツ・ラングの犯罪コメディ『真人間』'38も書いていました)はコメディのヴェテラン脚本家でロンバードとRKOの指名でしょう。ヒッチコックは「脚本通りに撮っただけだ」そうです(『映画術』)。
 本当にそれだけという感じなのです。ヒッチコックが脚本にアイディアを加えてひとひねりした様子がほとんどない。ヒッチコックにはこれまでも『農夫の妻』『シャンパーニュ』『リッチ・アンド・ストレンジ(おかしな成金夫婦)』などのコメディ作品の佳作がありましたし、田舎コメディの『農夫~』はともかく『シャンパーニュ』と『リッチ~』は『スミス夫妻』に近い性格の作品でした。しかしそれらのイギリス映画では自分のセンスで料理していたのに、いざハリウッドでコメディ作品を撮るとなるとヒッチコックは自己流の工夫をさし控えたとしか思えない、そういう作品になっています。ヒッチコックらしい主観ショットや窓越し、距離のあるマイム(無言)の演出などはありますが、それも『スミス夫妻』ではヒッチコックでなくてもそうしただろう、そもそも脚本の通りだろうとしか思えない程度にしか見かけられない。投げやりというわけではないのでしょうが、アメリカ流のコメディのセンスには自信がないので無難な仕事で済ませた観が強いのです。『レベッカ』や『海外特派員』にも、特に後者にはヒッチコックらしいユーモアのセンスや具体的なギャグがありましたが、それはサスペンス映画の中のスパイスに差し挟んだのでヒッチコックもさじ加減のコツに自信があったのでしょう。ところがコメディ映画そのものを撮るとなると話は別で、フランク・キャプラハワード・ホークスのように地でアメリカ流コメディを撮れる強みがヒッチコックにはなく、結果、監督が特にヒッチコックでなくてもいいような、脚本家クラスナーと主演女優ロンバードの映画でいいや(「ロンバードとの友情の思い出」とヒッチコック自身が言っています)と割り切った作品になってしまったように思えます。ルビッチ、キャプラ、レオ・マッケリープレストン・スタージェススクリューボール・コメディの4大監督と言われますし、ジョージ・キューカーハワード・ホークススクリューボール・コメディの傑作がある。ヒッチコックの才能はこうした監督たちに劣るものではなかったが、生え抜きのハリウッド映画監督ではなかったということです。それにヒッチコックはハリウッド進出2年目でアメリカ映画はまだ3作目だったから失敗するわけにはいかない。そうすると無難な仕事で済ませたヒッチコックの判断が正しかったのか、ヒッチコックの師のラングは器用な人ではなかったのでアメリカ作品第3作の『真人間』はコメディですがラングらしい作品だったのを思うと(ラングには唯一のフランス映画『リリオム』'34でメロドラマ仕立てのコメディに成功していますが)ヒッチコックの器用さが本作をかえって平凡な作品に収めてしまったようです。才能があったらあったで向き不向きがあり、仕事である以上不向きな依頼もこなす。充実した前後作に挟まれているためやっつけ仕事のような本作ですが、主演俳優チャールズ・ロートンとの才能が激突したヒッチコック不満の『巌窟の野獣』より面白みが少ないのも仕方のないことでしょうか。

●12月26日(火)
『断崖』Suspicion (米RKO'41)*99min, B/W; 日本公開昭和22年(1947年)2月11日

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○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より) 原作はアントニー・バークリーとして知られた英国探偵作家が、 フランシス・アイルズの名で発表した推理小説「犯行以前」より、「極楽特急」「陽気な中尉さん」「メリイ・ウイドウ(1934)」のサムソン・ラファエルソン、「幻の女」「アンクル・ハリイの奇妙な事件」の製作者であり「ダーク・ウオータース」の脚色者たるジョーン・ハリソン女史、監督ヒッチコックの妻であり彼の「孤独の女」等を脚色した英国の女流作家アルマ・レヴィルの三人が脚色し「レベッカ」「疑惑の影」「白い恐怖」「汚名」等のアルフレッド・ヒッチコック監督作品。撮影は「女だけの都」を撮ったのちアメリカに渡り、「ドリアン・グレイの肖像」で1945年アカデミイ撮影賞を受けたハリー・ストラドリング、音楽は「リリオム」「激怒」「スケフィシトン氏」のフランツ・ワックスマンが当たった。主演は「コンドル(1939)」「この虫10万ドル」「愛のアルバム」等のケーリー・グラント、「ガンガ・ディン」「レベッカ」「コンスタント・ニンフ」「ジェーン・エア」等のジョーン・フォンテーンで、彼女はこの映画で1941年度アカデミー主演女優賞を得た。助演には「大国の鍵」のサー・セドリック・ハードウィック、「小麦は緑」のナイジェル・ブルース、「肉体と幻想」のディム・メイ・ホイッティ、「フールス・フォア・スキャンダル」の英国女優イサベル・ジーンス、「救命艇」のヘザー・エンジェル、英国の作家であり舞台演出家でもあるオリオール・リイ等が顔をそろえている。
○あらすじ(同上) 英国社交界の人気者ジョニイ・アイガース(ケイリー・グラント)は学生時代から詐欺常習者だったが、さすがに相思の娘リーナ・マクレイドロウ(ジョーン・フォンテーン)とかけ落ちするときは真剣だった。リーナはジョニイが無一文であることを知り、熱心に仕事をもつことを勧め、その結果彼は従弟の財産を管理するが、やがてリーナは彼が従弟の財産を使いこんでいることを知り非常な衝撃を受ける。続いて彼は友人のビーキー(ナイジェル・ブルース)を唆かし土地に投資させるが、彼女はジョニイがビーキーの金を自由にした上で彼を殺すのではないかと憶測する。ジョニイはパリへ出発するビーキーを見送ってロンドンに行くが、ビーキーはパリで死亡する。リーナはジョニイを疑っていたが、帰宅した彼の口振りから彼女の恐ろしい疑惑はいよいよ深まるばかりだった。やがてリーナは彼が保険金ほしさに自分を殺そうとしていると信じ始める。そして彼が友人の女流推理作家イソベル(オリオール・リイ)から劇毒薬の秘密を探り出そうとしているのをみて、ますますその疑念を深める。その夜、彼女はジョニイの勧める一杯のミルクを飲む気になれず、翌朝母親を訪ねるのだといってジョニイから逃れようとするが、彼はリーナを自動車で送ろうといいはる。車が危険な個所に近づいたとき、彼の乱暴な運転にたまりかねた彼女は車から飛び降り逃れようとするが、ついにジョニイに追いつかれてしまう。しかしそこで彼女がジョニイから聞いたのは意外な告白だった。彼はビーキーとパリへ同行したのではなく、使いこんだ金の穴うめに金策に奔走していたが思うようにゆかなかったので、自殺の決意をして毒薬の秘密を探っているのだった。リーナの驚愕と悔恨は激しかった。彼女は疑惑の影が再び二人の愛情をむしばむことのないような生活をやり直そうと熱心にジョニイを説得し、ついに彼の心を動かしたのだった。

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 つい先日エリック・ロメールの『モード家の一夜』'69の感想文で「圧倒的なのはクライマックスの、室内で静かに語りあっていた主人公と女子大生のヒロインのバスト・ショットから突然雪山の丘のロングにカット・インし、主人公がもがく女子大生を抱きしめ捨て身のプロポーズを挑む場面へのすごい飛躍(モンタージュ)」と書きましたが、何だ『断崖』にあったじゃないか、と目を見張りました。心理スリラーの傑作の本作と恋愛映画の『モード家~』では頭の中で別分類になっていたからですが、『断崖』も恋愛映画には違いありませんからロメールも編集した後で気づいたはずです(ロメールは1957年刊のフランス初のヒッチコック論をクロード・シャブロルと書いた共著者です)。『断崖』では映画が始まって15分目あたりにありますが、テーブルに就いて談笑しているケーリー・グラントとジョーン・フォンテーンがいきなりカットが変わって野原でグラントがもがくフォンテーンを抱きしめているショットに切り替わります。談笑しているシーンが完結しておらず場面の移動を示すつなぎのシーンもなく同一シークエンス内で突然飛躍するため、ヌーヴェル・ヴァーグ以降のジャンプ・カット(しかも極端なやつ)の先取りのような効果が表れていますが、これはトーキー以降ではあざとすぎて使われなくなっていたグリフィス=ドイツ表現主義映画、グリフィス=アベル・ガンス、グリフィス=エイゼンシュテイン的なサイレント映画時代のモンタージュ技法をトーキーで無理矢理応用したらどうなるか、という手法でもあるわけです。サイレントの場合は映像内容の解説や多義性、重層化として効果があったものが、トーキーでは時制の断絶や飛躍として働くことがわかった。サイレントのモンタージュは垂直的だったのに対してトーキーのモンタージュは本来水平的に認識されるので、水平的な流れを切断するようなモンタージュはトーキーではタブーだったのをあえてやってのけたのが『断崖』のこのモンタージュで、これほど極端ではないにせよヒッチコックはトーキー以降でも唐突なカットつなぎで鮮やかな手並みを見せてきました。『三十九夜』でロバート・ドーナットがスパイ組織の黒幕に気づいた途端に撃たれて倒れる//笑い声とともに「命拾いしたね」と本に食い込んだ銃弾が取り出されるショット、といった具合で、前のショットは主人公側の視点//後のショットは相手側の視点、と急激な切り換えにもなっています。稀に似た手法を使った映画はあっても(溝口健二ジャン・グレミヨンあたりが思い浮かびます)、これを'30年代から方法的にやっていた映画監督はヒッチコック以外いないのは確かでしょう。(※註)
 本作は名高い傑作で、全編隙のない緊張感が持続し、演出の妙や俳優たちの名演(『レベッカ』でアカデミー賞主演女優賞にノミネートされていたフォンテーンは本作で受賞を果たします)も上げればきりがありませんが、「キネマ旬報」誌でたった3本しかベストテン入りしていないヒッチコックのその3本のひとつでもあります。『疑惑の影』'46年度3位、『断崖』'47年度1位、『鳥』'63年度4位というのがその3作ですが、戦時中の作品のため次々作『疑惑の影』'43の方が日本公開は先になり、『疑惑~』の3位の好評を受けて翌年公開の本作が1位になった、という事情もあるでしょう。本作と『疑惑の影』はどちらが1位でもおかしくないような傑作ですが、'40年代(『レベッカ』や『汚名』もあるのに)や傑作連発の'50年代の他の名作群がベストテン入りせずいきなり『鳥』だけが高評価、'60年代作品は不調だったとはいえ晩年の傑作『フレンジー』'71や『ファミリー・プロット』'76もベストテン外とは不思議なもので、アカデミー賞監督賞も『レベッカ』『救命艇』『白い恐怖』『裏窓』『サイコ』の5回ノミネートされていながら(この5作というのも少し変ですが)1度も受賞していません。ノーベル賞がまず国家別に選ばれるようにアカデミー賞は映画会社とプロデューサーから選ばれるのでラングやヒッチコックのように独立プロ契約からフリーになった外国出身監督には不利であり、純粋なハリウッド監督のホークスでさえ早くから独立プロを設立していたため賞レースには上がらなかった、外国出身監督でも早くから映画会社専属だったマイケル・カーティスウィリアム・ディターレの方がかえって有利だった事情もあります。映画会社の権力中枢に実力で食い込んだジョン・フォードウィリアム・ワイラーなどは例外中の例外で、日本の映画雑誌・ジャズ雑誌は広告の載る(つまりスポンサーの)会社の作品は優遇する分そうでないのは無視する慣習ですからヒッチコックも例外ではなかった、と言うことです。しかし歴史はヒッチコックには公平だったので、大半の歴代アカデミー賞受賞作や映画雑誌ベストテン入選作よりもヒッチコックの作品は今でも観られている。古びない要素や単刀直入な明快さがヒッチコックの強みで、本作『断崖』はそうした作風のいちばん良い例でしょう。
 歴史が公平な例、たとえばフリッツ・ラングだったらどうなるかというと、ラングとヒッチコックは影響関係では師弟と言えますがヒッチコックがイギリス人気風で快刀乱麻・一刀両断ですっきりしたカタルシスのある明快な映画を作る監督なのに、師匠のラングはドイツ的にジメッとしていてくどくどしく、喜怒哀楽が激しいくせに無理矢理辻褄合わせして観客を放り出すような喰えない巨匠で根は単純なのですが手口は混沌、まるで気質が正反対です。ラングの映画で気ままに演技できたのはサイレント時代では常連俳優ルドルフ・クライン=ロッゲと、アメリカ時代ではエドワード・G・ロビンソンくらいではないでしょうか。もしラングに『断崖』の低予算映画化企画が回ってきていたら(あり得ない話ではありません)低予算ゆえにグラントとフォンテインの起用はまず無理だったでしょうしラングはプロデューサーに適当にキャスティングを任せたでしょうが、ヒッチコックが結末を大きく変えたようにラングなら原作通りのイギリスではなく設定を現代アメリカに変更、夫がついに事故死にみせかけて妻を殺そうとするも失敗に終わり無惨に自滅する、と徹底的に勧善懲悪のふりをして後味の悪い結末にしたのは想像に難くありません。ヒッチコック自身が、遊び人で道徳感のまったくない男が詐欺と金目当ての犯罪を重ねたあげく妻に保険をかけて殺害するまでの顛末を妻からの視点で描いた、原作通りの映画にしたかった、そのためのラストシーンのアイディアもあったと発言していますが、ケーリー・グラントのようなスターを殺人者にするのはハリウッドの不文律だから結末を変えた、それでもラッシュを観たRKOの担当者にグラントの悪事を暗示するシーンを削られ55分(!)に短縮されたが何とか説得して元に戻したそうで、「ジェームズ・スチュアートなら?」とトリフォーに訊かれ「ジェームズ・スチュアートは犯罪者などやらんよ」と答えています(『映画術』)。『海外特派員』のゲーリー・クーパーの出演拒否といい、スター俳優になるほどスリラー映画のキャスティングに制約が生じた例で、逆に『海外特派員』ではイギリス映画界からの大物俳優がスパイ組織の黒幕を演じていますから演劇界とのつながりが深いイギリス映画俳優とハリウッド・スターは同じ映画俳優でも相当意識が違っていたのがわかります。ヒロインが夫を犯罪常習者と確信するのが映画中盤の55分目、有名な「毒入りミルク」の場面が映画の終わりから10分前で、ラストの5分間でこれまでの疑惑の全容が明らかになるのですが、鮮やかなどんでん返しでありながら肩すかしの観は否めません。ただ他の終わり方では疑惑が疑惑のまま残ってしまうし、肩すかしでも意外性があるならその方がいいとも言えるのでマイナス点ではありませんが、映画の技巧がすべてヒロインの疑惑に観客を誘導するためのものだったので拍子抜けには違いないわけです。ラングなら原作通りにした上でヒロインは助かり夫は自業自得の惨死でめでたしめでたしのハッピーバッドエンドにしただろう、というのは『断崖』の結末の処理ではあっけなさすぎるからで、その替わりさりげなくヒロインの疑惑を積み重ねていく精妙さは短気なラングにはできなかったでしょうからヒッチコックの『断崖』はラングなら絶対作れなかった作品になっている。ラングが作れば『M』'31や『激怒』'36、『飾窓の女』'44のように陰惨で笑えないシニカルな味の犯罪ドラマになるのがオチで、そうした下降指向がラングの映画を重くしている。本来あまり楽しい話ではない『断崖』が爽やかな後味を残すのはヒッチコックとラングを分けた明暗を示唆しているようで、ハリウッド映画の倫理基準の制約を受けながらルールの中で十分に表現し尽くす工夫が『レベッカ』や『海外特派員』以上に働いていることで『断崖』は見かけよりずっと大きい位置をヒッチコックの作品歴で占めるものでしょう。'40年代の傑作『疑惑の影』'43、『汚名』'46の原点は『レベッカ』『海外特派員』ではなく本作にあり、その意味でハリウッドでの映画製作方針(犯罪サスペンス/スリラー路線への専念も含む)がヒッチコックの中で固まった作品になったのもこの『断崖』だと思えるのです。

(※註)ヒッチコック以外に探せばコメディとミュージカルにはこの手法はギャグとして、また省略法として使われていた例が'30年代のトーキー作品にも見られます。山中貞雄の『丹下左膳余話・百萬両の壺』'35は丹下左膳役者の大河内傳次郎を起用して丹下左膳のパロディ映画を作った傑作コメディですが、女房のお藤に頼まれ事をされるたびに潰れた声で「嫌でい、嫌でい」とだだをこねる。次のカットではお藤に頼まれた通りのことをまんざらでもない様子でやっている左膳のシーンになるという場面が何度かあり、アメリカ映画のコメディからの巧みな摂取ですが左膳とお藤のそれぞれの性格と夫婦関係をずばりと描いた見事な一例です。またコメディ映画とサスペンス映画は緩急の妙で観客の意表を突く呼吸に共通点もありますが、ヒッチコックの手法は通常のそれとは一線を画した、もっと映画の性格自体を左右するほど徹底したものと見なした方がいいでしょう。