人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2017年12月9日・10日/アルフレッド・ヒッチコック(1899-1980)のほぼ全作品(5)

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 今回からようやくヒッチコックのトーキー映画時代が始まります。今日では映画は音声つき、またカラーなのが当たり前になりましたが、劇映画が定着してから20年近く映画はサイレントだったので(カラー映画もテレビの普及までは必ずしも映画には求められませんでした)、当初トーキーの開発・実用化は大変なものでした。ヒッチコックのトーキー第1作は企画段階ではパート・トーキー作品だったそうですが、ヒッチコックは完全なトーキー化を見越してサイレント版を完成させ映画会社を納得させた上で部分的に再撮影し完全なトーキーにしたそうで、結果、舞台劇の映画化作品『恐喝(ゆすり)』はイギリス初の完全トーキー映画として大ヒットになり、今日イギリス映画協会から1929年度のイギリス映画のベスト1作品として認められています。次作『ジュノーと孔雀』も舞台劇の映画化で批評も良くヒットしましたが、この2作の間にヒッチコックは数人の監督の合作によるレビュー映画『エルストリー・コーリング』Elstree Calling (英ブリティッシュ・インターナショナル・ピクチャーズ'30)に参加しており、これはイギリスのエルストリー撮影所で人気芸人たちが得意芸を披露する企画もので、「頼まれ仕事だよ。あれについては何もいうことはないな」とヒッチコックも済ましている通り複数監督の誰がどこを撮ったかもわからないような作品なので取り上げませんでした。今となってはヒッチコック参加が唯一の売りなのでVHSヴィデオ時代には日本版も出ましたが日本版DVDは出ず、輸入DVDでは入手は容易でYouTubeでも観られますが、映画会社の俳優紹介映画ですので(大島渚の初監督短編、松竹専属の新人俳優紹介映画『明日の太陽』みたいなものです)普通ヒッチコック作品には数えられていませんので、興味をお持ちの方は過大な期待はなさらずにご覧ください。なお、今回も『ヒッチコック/トリュフォー 映画術』(晶文社刊、山田宏一蓮實重彦訳)からの発言は例によって多少表現を変えて引用させていただきました。

●12月9日(土)
『恐喝(ゆすり)』Blackmail (英ブリティッシュ・インターナショナル・ピクチャーズ'29)*89min, B/W; 日本未公開(特集上映、テレビ放映、映像ソフト発売)

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○製作=ジョン・マックスウェル/原作(戯曲)=チャールズ・ベネット/脚色=アルフレッド・ヒッチコック/台詞=ベン・W・レヴィ/撮影=ジャック・コックス/美術=C・ウィルフレッド・アーノルド、ノーマン・アーノルド/音楽=キャンベル&コネリー/編集=エミール・デ・ルエル/記録=アルマ・レヴィル
○あらすじ 1929年4月26日、仲間の刑事と強盗犯逮捕を終えたロンドン警視庁の刑事フランク(ジョン・ロングデン)は恋人アリス(アニー・オンドラ、声=ジョーン・バリー)と待ちあわせて喫茶店に入るがアリスは落ちつかず、デートの予定も蹴って出ていってしまう。実は混雑した店内でアリスは見知らぬ青年に誘いのメモを渡されており、喫茶店の外でふてくされていたフランクはアリスが見知らぬ青年と連れ立っていくのにあ然とする。アリスは青年のアパートの自宅兼アトリエに誘われ、彼が画家のクリュー(シリル・リチャード)と知る。アリスはクリューのピエロの絵を面白がり、クリューに手を取られて人物画を描いて遊んでいるうちダンサーの衣装に目を留め、モデルにしてくれるかクリューに訊く。クリューは快諾し、アリスはダンサーの衣装を着るが、絵のポーズをつけられている最中にいきなり抱きしめられキスされる。アリスはクリューを跳ね退け帰るために着替え始めるがクリューはアリスの服を奪ってしまい流行歌「Miss Up-to-Date」をピアノで弾いてふざける。下着姿で取り返そうと出てきたアリスをクリューは押し倒そうとする。アリスは助けを求めて叫ぶが通りの警官には届かない。アリスは抵抗し、手を伸ばして食卓のパン切りナイフを手に取る。クリューは絶命し、アリスは茫然とし、哄笑するピエロの絵を破き、着替えてロンドンの街を一晩中歩き回る。酒場のカクテルを振る手のネオンサインがナイフを振る手に見えたり、路傍で寝るホームレスの手が殺した画家の手に見えてアリスは震える。家政婦(ハンナ・ジョーンズ)が死体を発見し、捜査が始まる。フランクもその担当班になる。フランクはアリスの片手の手袋を見つけるが、被害者の顔を見て手袋を自分のポケットに隠す。アリスは朝から訪ねてきたゴシップ好きの隣のおばさん(フィリス・モンクマン)の殺人事件のおしゃべりに落ち着かない。会話に頻繁に出てくる「ナイフ」という言葉だけがアリスの耳に響き、突然父に「ナイフを取ってくれないか」と言われて叫び声を上げナイフを床に投げ落としてしまう。フランクは雑貨店を営むアリスの家に行き、両親のホワイト氏(チャールズ・ペイトン)とホワイト夫人(サラ・オールグッド)に隠れて店内の電話ボックスでアリスに手袋を見せるが「私も用件があるんでね」と怪しい男が電話ボックスを覗いてくる。男は前科者トレイシー(ドナルド・カルスロップ)で、アリスがクリューに連れられてアパートに入るのを目撃していた、とほのめかし、「もう一つの手袋を持っていたのがあんたでついてたね」と手袋のもう片方を取り出す。男とフランクはホワイト家に居座りホワイト夫妻の不審を買うが、その頃ロンドン警視庁では家政婦の目撃証言で現場にトレイシーがうろついていたのが前科者ファイルから判明する。電話でホワイト家に連絡を受けたフランクは居間に鍵をかけて「お前の方が容疑者だ」と追い詰める。トレイシーは居直ろうとするが警官の到着に不利を悟って窓を破り逃走し、タクシー、バスとパトカーによる追跡の後で大英帝国博物館の屋根まで逃げたトレイシーは頂上のガラス屋根まで登って屋根が破れて墜落死する。一方アリスは他人が冤罪を負うならと自首を決意し「犯人を知っています」とフランクの上司の刑事部長(ハーヴェイ・ブラバン)を訪ねてフランクにつき添われるが、現場から連絡を受けた刑事部長はフランクとアリスに「お嬢さんに先を越されたのでは立つ瀬がないよ」と一笑される。アリスは部屋から哄笑するピエロの絵が運び出されるのを見る。

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 ヒッチコック初の(そしてイギリス映画初の)完全トーキー作品になった本作について、確か前回に「映画のトーキー化の過渡期の製作でしたので上映館の設備環境を考慮してかサイレント版とトーキー版の両方が作られましたが、トーキーの一般化以降はトーキー版が決定版とされ、またヒッチコック自身がトーキー作品を意図して製作したのは前述の発言(『マンクスマン(マン島の人々)』を「わたしの最後のサイレント映画」と言っています)や作品にトーキーならではの特殊な音声効果を使用していることからも明らかです」と書いたのは逃げも隠れもできませんが、男らしくもない前言撤回とはいえ今回あらすじを起こすため映像ソフトを念入りに2回観直してみたところ、むしろヒッチコックの発言は事情と逆なんじゃないかと思えてきました。ヒッチコックがトーキーにしたかった、たぶん最初からイギリス映画初の完全トーキー作品を狙っていたのは発言通りでしょうが、サイレント作品として公開することになっても違和感のない演出が意図的になされているとしか思えない節があちこちどころか全体にあるのです。今年2月にイギリス映画協会によるデジタル・リマスターのニュー・プリントで行われたヒッチコックサイレント映画全作品の東京劇場での特集上映を観る機会はありませんでしたが、本作はトーキー版でも台詞字幕を加えればそのままサイレント映画にできるでしょう。完全トーキーとしてはサイレント映画そのままの演出が多すぎ、冒頭のシークエンスはトーキー映画では不自然なほどまったく台詞や自然音がなく、字幕替わりにサイレント映画ではカレンダー、時計、メーター、掲示板や貼り紙、新聞、本、書類、手紙、メモなどの映像がよく使われますが本作でもそうです。ヒロインの耳に「ナイフ」という単語だけが強く響いてくる朝食のシーンも、サイレント映画なら台詞字幕で処理する方法に置き換えができます。むしろそういう表現はサイレント映画に多く見られるほどです。またヒッチコック発言は『映画術』では記憶違いがあり、家庭用映像ソフト普及以前ですから訂正されず世に出たのも仕方ありませんが、その後ヒロインは「父親にナイフを取ってくれと言われナイフを渡すが父の手にしたナイフを見て硬直している」のではなく言葉にならない悲鳴を上げて皿の上のナイフを皿ごとひっくり返しています。『映画術』は映画に関心のある人は必読の名著ですが、些細な記憶違いも多いので注意が必要です。
 ヒッチコックは冒頭10分をまるまる使った強盗犯逮捕をアクションから映画を始める方法として自慢していますが、これは明らかにフリッツ・ラングの悪影響が出ています。ラングの犯罪映画もいきなり連続犯罪事件のまっただ中から始まりますが、ラングの場合はこけおどしとしてもまず末端の事件を描いて、黒幕の登場となるわけです。『蜘蛛団』'19でも『ドクトル・マブゼ』'22でも『スピオーネ』'28でもそうで、ちゃんと蜘蛛団の女首領リオ・シャや地下組織の大ボスのマブゼ、悪の国際スパイ団長ハギが尾を引いている犯罪だから意味はあります。本作冒頭の強盗犯逮捕はヒロインの恋人フランクの仕事ぶりを見せるというだけであってもなくても差し支えない、当時としてはドキュメンタリー的興味があったろうというだけのもので映画を水増しするだけになっています。もっともヒッチコックの意図では、フランク刑事が恋人アリスを逮捕して冒頭とまったく同じ手順で収監し、それとは知らぬ同僚に「今夜もこれからデートかい」「いや、デートはないよ」と答える結末を想定していたそうですからそれなら一応納得はいきます。ヒロインが助かる結末になったのは、観客に見せるものとしてはそうしないとまずいだろうということだったといいます。しかし正当防衛とはいえこの設定は、原作戯曲のアイディアとしても当時はショッキングだったはずで、トリュフォーも「その後のアメリカ映画によくあるパターンのはしりですね」と素直に受けています。ヒロインの逮捕で終わらない以上冒頭の逮捕劇は無意味なこけおどしになってしまったのですが、せっかくヒッチコックがやりたかった『下宿人』から3年ぶり、7作ぶりの犯罪サスペンス映画ですからラングみたいにやってみたかったのでしょう。これにプロデューサー始め異を唱える映画会社管理職がいなかったのもトーキー映画のリアリズム基準を予測できなかったので、サイレント映画のリアリズム基準はある意味抽象度が高いので全体に首尾一貫しなくても名場面だけでつないでいける強みがあります。音声を伴うトーキーとなるとそうはいかず、場面場面が全体と対応する現実性や必然性がサイレント映画より強く求められてきます。
 しかしアリスが無警戒にも画家のアトリエに上がってからは徐々にやばい雰囲気になり、ヒッチコックが自慢しているシャンデリアの飾りの影が画家の顔に落ちて悪党のひげのように見える効果もテーマに沿っているだけあって効いていて、事件は30分目に起こります。すぐにゆすり屋が現れますが、ヒロインが画家のアパートに入る時に立っていた男ですから手袋の片方を持っているのはアリスが立ち去ってからアトリエに入り、手袋を見つけて盗んでいた(故意に片方残したのでは警察が発見すると考えるのが普通ですが、手袋の持ち主さえ判ればゆすれますから故意とも偶然ともどちらとも取れます)ということでしょう。この実に厭らしいゆすり屋の前科者トレイシー役の俳優は実に上手く、イギリスは演劇の伝統国と痛感するのも本作は隣家のゴシップおばさんやヒロインの両親(昔観た時はまさか名作『わが谷は緑なりき』'41のあのサラ・オールグッドとはわかりませんでした)、刑事部長など実に芝居が上手いことです。また本当にこれがイギリス初の完全トーキー映画ならサイレントでも成り立つにしてもトーキーにした仕上がりは同年代の作品と較べれば各段にこなれていて、アカデミー賞作品賞でトーキー初の『ブロードウェイ・メロディ』'29というアカデミー賞の汚点のような作品と同年とは思えず、少々やりすぎの箇所を気にしなければ洗練されているとすら言えます。ヒロインのアニー・オンドラは前作『マンクスマン(マン島の人々)』に継いでの出演ですが、チェコ出身のドイツ人女優で訛りが強く、本作製作当時は技術的に音声も同録だったためオンドラの演技に合わせて別の女優が台詞を読んで同時録音したそうで、苦労がしのばれます。トーキーはオンドラのように標準語の発声ができない俳優を失業させることになりますが、やりがいのある作品でヒロインを勤め、しかもサイレントとトーキーにまたがり、さらにはトーキー作品も本人の声ではないというあたり、アニー・オンドラもまた本作で記憶される女優でしょう。'30年頃はこれが流行りだったのか、オンドラもやはりドイツ出身のマレーネ・ディートリッヒのように顔を洗うとなくなってしまうような今どきの水商売のような細い眉をしています。事件まで30分、中盤30分強、前科者トレイシーの逃走が終わりから20分(墜落死が逃走から10分目)とリールの長さに合わせて10分単位で節目がくる特徴がヒッチコックにはあるようで、内容とペース配分を見ると後半いきなり展開があっけない感じもしますが、何となく釈然としない結末も含めてこれほど気を揉ませてくれる作品なら立派な成功作で、良しとすべきでしょう。ただし本作でいちばん印象に残るのがヒロインがさ迷う夜のロンドンで、不安げに夜道をふらふら歩いている姿の方が効果に凝った映像より心にに残ると言っておきたいような、才気が少々鼻につく作品でもあります。

●12月10日(日)
『ジュノーと孔雀』Juno and the Paycock (英ブリティッシュ・インターナショナル・ピクチャーズ'30)*94min, B/W; 日本未公開(特集上映、テレビ放映、映像ソフト発売)

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○製作=ジョン・マックスウェル/原作(戯曲)=ショーン・オケイシー/脚色=アルフレッド・ヒッチコック/撮影=J・J・コックス/美術=ノーマン・アーノルド/編集=エミール・デ・ルエル/記録=アルマ・レヴィル
○あらすじ アイルランド南北戦争の後のスラムでは党派の分裂を嘆き団結を呼びかける街頭演説家(バリー・フィッツジェラルド)が群集の面前でマシンガンで暗殺されるなど騒乱が治まらない。酒飲みの「船長」(実は1回の船員経験しかない)ことジャック・ボイル(エドワード・チャップマン)は仕事にも就かずたかり屋の友人ジョクサー(シドニーモーガン)とマディガン夫人(マリー・オニール)のパブで酔いどれる毎日を送っている。ジャックの家庭を支えているのは「ジュノー(豊穣の女神)」と呼ばれるボイル夫人(サラ・オールグッド)で、女神ジュノーは孔雀を従えていることからボイルは陰では「ペイコック(孔雀)」と呼ばれていた。娘のメアリー(キャスリン・オリーガン)は勤めに出ていたが職場は紛争でストライキ中で、兄のジョニー(ジョン・ローリー)はアイルランド共和国陸軍(IRA)の兵士でスパイの疑いをかけられ仲間を殺害し、自分も片腕を失いずっと自宅に隠れている。そこに公証人の青年ベンサム(ジョン・ロングデン)から親戚が逝去し遺産1,500ポンドが入ると知らせがあり、ボイル一家は有頂天になり早々とツケで自宅を改装し、家具を新調してパーティーを開く。マディガン夫人の酒場のツケも借金して払ってしまう。メアリーには婚約者ジェリー(デイヴ・モーリス)がいたが、ベンサムに誘惑されてしまう。ところが遺産は実は親戚全員への分配であり、ボイル家にはほとんど回ってこないと判明する。ボイルはふてくされて家を出ていく。家具は差し押さえられて運び出され、家の中は空っぽになる。その最中、ボイルがジョクサーに息子をかくまっていると洩らしていたため嗅ぎつけたIRAの兵士がジョニーを強制連行していく。ジェリーが訪ねてベンサムのことは忘れようとメアリーに求婚するが、メアリーが妊娠を告げると肩を落として去っていく。空っぽの部屋で母娘が悲運を嘆いていると、ジョニーの遺体の発見が知らされ遺族による確認の求めが入る。母ジュノーは娘メアリーを、神さまの下、私たち二人でやっていくしかないんだよと抱き寄せる。

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 ジョン・フォードアカデミー賞監督賞受賞作『男の敵』'35もそうですが、20世紀前半のアイルランドの政治状況ものは日本人には馴染みがなくてロシア革命もの以上に理解が難しい印象を受けます。英米人にはアイルランド人の国民性と絡めてドラマティックに理解できるようですが日本人にはそれも難しく、おおよそ3大勢力に分かれて内戦同然の武力闘争が起こっていたようですが各党派の主張もあまり大差なく見えるのに血で血を洗う闘争がくり広げられていたのが、本作でも「船長」がシカゴに出稼ぎに行った時の話がちらっと出てきますが、戦前の英米人の間ではアイルランドはギャング都市シカゴのようなイメージだったようです。ヒッチコックは本作の原作戯曲をユニークな着想、ユーモアと悲劇の混合などの点で大好きだと大いに賞賛し、『鳥』'63でもショーン・オケイシーにインスパイアされたキャラクターを出したくらいだとした上で、映画化にはまったく向いていなかった、と嘆いています。でも評判は良かったしヒットもしたんだが、というヒッチコックトリュフォーは公開当時本作を傑作と絶賛した新聞の批評を紹介し、「原作戯曲への評価で映画に対する評価とは言えませんね」「そうなんだよ」という具合に本作の話題から離れ、優れた文学作品ほど映画化に不向きな素材はないという話題に移っています。それも一応納得できる論点ですが、本作に即して語られていないのが残念です。
 本作を積極的に評価するなら、初トーキー作品『恐喝(ゆすり)』がサイレントとの折衷的な演出と映像技法に拠っていたのに対して本作ではサイレント臭はまったくなく、トーキーでなければ成り立たない撮影がされているのが上げられます。ブリティッシュ・インターナショナル映画社に移籍してからのヒッチコック作品はジョン・J・コックスまたはジャック・コックス、本作ではJ・J・コックス名義ですが同一人物でしょう、なかなかのカメラマンですが監督からの要望に忠実に応えるタイプのようで、カメラマン自身の個性を強く感じさせる映像ではありません。前作まではサイレントを前提とした製作でしたからカットも細かく割り、決めの構図は監督の演出に従い、作品ごとの基本的な撮影法もおそらくヒッチコックの指示で、わかりやすい例ならコメディ作品で引きの構図が多い『シャンパーニュ』に対して不倫メロドラマの『マンクスマン(マン島の人々)』では主要人物たちの表情の無言のクローズアップが多用される、という具合でした。今回コックスがヒッチコックに指示されたのはほとんどワンシーン・ワンカットの撮影法です。ヒッチコックはこれまではモンタージュで映像を構成していたのでカメラはパンかドリーくらいしか動かず、巧妙にカットを割っていくのが基本的文体でしたから、ワンシーン・ワンカットは本作での新しい挑戦になっています。
 そうしてできた作品はいかにも舞台劇の映画化らしい、スタジオ撮影された舞台演劇の中継みたいな映画になりました。前作『恐喝(ゆすり)』同様ヒッチコック自身の脚色ですからシナリオ段階で撮影法を考えた脚色であるはずで、基本ドンブリ(ワンシーン・ワンカット)、それに説明的な補足カットを入れるというアイディアで撮影に臨んだと思います。ちなみに冒頭3分で殺されてしまう街頭演説家役のバリー・フィッツジェラルドは舞台ではボイル船長を演じていたそうで、映画のキャストも全員アイルランド人俳優を起用したのが映画の評判が良かった理由でもあり、確かにフォードのアイルランドもののような雰囲気で俳優たちはみんなうまい役者です。しかし映画として面白いかというと困ったもので、何とも張りのない単調な画面が続きます。原作戯曲と俳優の演技を尊重するあまりめりはりの欠けた、緊張感のない映画になってしまったというところでしょう。本作の基本的にワンシーン・ワンカットの手法はジャン・ルノワールロッセリーニが成功させ、トリュフォー始めヌーヴェル・ヴァーグの映画監督の手本になったものですから、本作を例に上げてこの手法のマイナス面を指摘するのは『映画術』のトリュフォーは避けたのだと思います。それで優れた文学作品はかえって映画化に不向き、という話題にすり替えてしまっていますが、優れた文学作品だって下らない通俗文学と映画化の対象としては同じはずですから映画監督の料理次第でしょう。また、本作はベルイマンの失敗作のようなもので、失敗したって成功作の監督と同じ監督の作品であり(トリュフォーの作品だってそうです)、ヒッチコックにも本作を叩き台にして同じ徹を踏まないようにし、かつ初めてやってみたワンシーン・ワンカット撮影やローカル色のある悲喜劇のコツを永年かけて温めた作例もあるでしょう。何より一度徹底的にサイレント的演出を手離してトーキー演出に徹したのは失敗作でもそれだけの成果はあり、この時期ヒッチコックが交互に成功作と失敗作を作っていたのも失敗した分着実に前進していたからこそと言えるのです。