三好達治(1900.8-1964.4)昭和29年9月/54歳
(撮影・浜谷浩)
詩集『測量船』第一書房「今日の詩人叢書」
第二巻、昭和5年12月20日刊(外箱)
三好達治が「詩と詩論」同人を辞した後、さっそく参加したのは三好より先に「詩と詩論」を辞していた旧友の北川冬彦主宰の「詩・現實」でした。映画批評家でもあった北川を慕って同誌に参加した映画青年、千田光(1908-1935)も夭逝した詩人ですが、その作品はシュルレアリスムという枠を越えてカフカ/シュルツ/ヴィトケイヴィッチ的な東欧文学的狂気と不条理感覚すら感じさせるものです。
私の数歩前にあたつて、私は実に得体の知れぬ現象を目撃した。それが実際私に堕ちかかってゐやうとは、が私は不図この光景を嘗てこの洞穴にもまして暗い道の上で、経験したことがあるように思へる。何故なら、この道は正確なところ発掘市のような廃れた町に墜ち込んでゐる。
私が顔をあげると鳥が羽をおとして行く、軍鶏のような少年が私を追越す。私はこの少年をとりたてて気にしなかつたが、と思い乍ら私は歩いてゐた筈だ、と考えてゐる私の眼前に、突然それらの現象が一塊となつて現れたのだ。
私は鏡でも撫でるかのやうに前方を探ぐつた。未だある未だある、さうして秒間を過ぎると私は更に驚嘆すべき発作に撃れる。それはといふとこの道の先で一人の老人に遇うのだ、老人が私に道を乞う、私の親切な指尖がある一点を刺した時、老人の姿は私の指尖よりも遥か前方を行くのだ。私は未だ遇はなければならない筈だ、片眇の少年に。少年は兇器を握つてゐる。兇器の尖には人形の首とナマリの笑いが吊下つてゐるのだ。その少年は私に戯れると見せかけるのだ!戯れると見せかけるのだ!
(千田光「発作」全文・昭和5年=1930年6月「詩・現實」創刊号/昭和4年=1929年11月「映画往来」発表の「夜」を改作)
次の「足」は梶井基次郎が親友の三好達治・北川冬彦宛に同号掲載の北川「汗」に次いで千田を賞賛する書簡を残していることでも知られています(1930年9月27日)。
私の両肩には不可解な水死人の柩が、大磐石とのしかかつてゐる。柩から滴たる水は私の全身で汗にかわり、汗は全身をきりきり締めつける。火のないランプのやうな町のはずれだ。水死人の柩には私の他に、数人の亡者のやうな男が、取巻き或は担ぎ又は足を搦めてぶらさがり、何かボソボソ呟き合つては嬉しげにからから笑いを散らした。それから祭のやうな騒ぎがその間に勃つた。柩の重量が急激に私の一端にかかつて来た。私は危く身を建て直すと力いつぱい足を張つた。その時図らずも私は私の足が空間に浮きあがるのを覚えた。それと同時に私の水理のやうな秩序は失はれた。私は確に前進してゐるのだ。後退してゐるにも拘らず私の位置は矢張り前進してゐるのだ。私はこの奇怪な行動をいかに撃破すればいいか、私が突然水死人の柩を投げ出すと、堕力が死のような苦悩と共に私を転倒せしめた。起きあがると私は一散に逃げはじめた。その時頭上で燃えあがる雲が再び私を転倒せしめた。
(千田光「足」全文・昭和5年=1930年9月「詩・現實」)
短い生涯で千田が最後に残したのが「随想」として「詩・現實」の後継誌「麺麭」に寄稿した次の作品です。これが、カフカの作品すら世界的には知られていなかった昭和7年の日本の同人誌作品とは驚異的ですが事実なのです。
私の前には、死岩(デッドロック)が顔を霧の中に埋めて立つてゐる。私は知つてゐる。しかし、私が彼に手をあてるまで、私は実に雄然と対立していた。死岩をとりまく霧は、渦巻いて私の手を払ふ。私がぴたり死岩に手をあてると、サッと彼はその毅然たる姿を現した。私は彼の動かぬ姿の中から、動かぬ速力の激流を感じた。それが真向から墜落して来た。はずみをくつて私はよろよろした。高さ!高さの下で痛めたのは羽根ばかりではない。私は浮かぶことも沈むこともできなくなつた。高さは私の腕の長さではない。黙然と佇立してゐると、霧は起つて私は遠くへ流されてしまった。圏外。そこでは私に軽蔑と安堵が向うてゐた。然し死岩の前から姿を消したとて、私には眼が見える。蟻のやうに登つて行く人々の足音がきこえる。足音をきいてゐるうちに、私の身はいつのまにか、死岩に向つて歩いてゐる。私にかくまで喰ひこんでいる死岩の影から、何故逃げなければならないのか、足を固めなおすと、私は死岩に向つて颯爽と小手を翳した。あそこだ。
(千田光「死岩(デッドロック)」全文・昭和7年=1932年11月「麺麭」)
やはり「詩と詩論」周辺のモダニズム詩人で、江間章子や永瀬清子と並ぶ女流詩人だったのが左川ちか(1911-1936)でした。江間章子、永瀬清子は長命を誇った詩人でしたが、左川は数え年25歳で夭逝し、没後の昭和12年(1937年)刊行の『左川ちか詩集』(伊藤整が中心となって編集)1巻で記憶される詩人になりました。デビュー作は18歳の作品「昆虫」です。
昆虫が電流のやうな速度で繁殖した。
地殻の腫物を舐めつくした。
美麗な衣装を裏返して、都会の夜は女のやうに眠つた。
私は今殻を乾す。
鱗のやうな皮膚は金属のやうに冷たいのである。
顔半面を塗りつぶしたこの秘密をたれもしつてはゐないのだ。
夜は、盗まれた表情を自由に廻転射す痣のある女を有頂天にする。
(左川ちか「昆虫」全行・昭和5年=1930年8月「ヴアリエテ」)
左川の作品は死と破滅のイメージが色濃く、当時主流だった都会的なモダニズムの詩にあっては異色の作風の女性詩人でした。
料理人が青空を握る。四本の指跡がついて、
――次第に鶏が血をながす。ここでも太陽はつぶれてゐる。
たづねてくる青服の空の看守。
日光が駆け脚でゆくのを聞く。
彼らは生命よりながい夢を牢獄の中で守つてゐる。
刺繍の裏のやうな外の世界に触れるために一匹の蛾になつて窓に突きあたる。
死の長い巻髭が一日だけしめつけるのをやめるならば私らは奇蹟の上で跳びあがる。
死は私の殻を脱ぐ。
(左川ちか「死の髭」全行・昭和7年=1932年3月「文學(厚生閣書店版)」)
一貫して左川の詩に流れる暗さは伝記的には不幸な恋愛体験によるものとされますが、そうした告白性抜きに作品自体が自立した詩編になっているのが詩質の高さに表れています。シュルレアリスム的手法は左川の場合は直接的な感情吐露を回避する方法でもあったでしょう。
揺籃はごんごん音を立ててゐる
真白いしぶきがまひあがり霧の
やうに向ふへ引いてゆく私は胸
の羽毛を掻きむしり その上を
漂ふ 眠れるものからの帰りを
まつ 遠くの音楽をきく明るい
陸は扉を開いたやうだ 私は叫
ばうとし訴へようとし 波はあ
とから消してしまふ
私は海に捨てられた
(左川ちか「海の捨子」全行・昭和10年=1935年8月「詩法」)
萩原がその第1詩集『わがひとに與ふる哀歌』(昭和10年=1935年)を絶讃し、戦後まで長く三好達治が認めなかった詩人が伊東静雄(1906-1953)でした。伊東のデビュー作もまたモダニズム的な作品だったのは注目すべき現象です。
午前一時の深海のとりとめのない水底に坐つて、私は、後頭部に酷薄に白塩の解けゆくを感じてゐる。けれど私はあの東洋の秘呪を唱する行者ではない。胸奥に例へば驚叫する肉食禽が喉を破りつゞけてゐる。然し深海に坐する悲劇はそこにあるのではない。あゝ彼が、私の内の食肉禽が、彼の前生の人間であつたことを知り抜いてさへゐなかつたなら。
(伊東静雄「空の浴槽」全文・昭和5年=1930年5月「明暗」)
伊東は国文学専攻出身で日本の古典詩歌への造詣が深く、さらにドイツのロマン主義詩人への傾倒もあって、英米仏の近・現代詩への興味が中心だったモダニズム詩人たちとは異なる発想と文体を持つ詩人でした。また伊東の詩は、三好を筆頭に当時の新進詩人たちには詩的後退と見なされていた萩原の『氷島』を積極的に消化した文語文体によって強烈な自虐性・耽美性と難解さを秘めた作風で賛否両論を呼ぶ存在でしたが、その点では伊東ほど孤高な風格のあった若手詩人はなかったのです。
水中花(すゐちゆうくわ)と言つて夏の夜店に子供達のために売る品がある。木のうすいゝゝ削片を細く圧搾してつくつたものだ。そのまゝでは何の変哲もないのだが、一度水中に投ずればそれは赤青紫、色うつくしいさまざまの花の姿にひらいて、哀れに華やいでコツプの水のなかなどに凝としづまつてゐる。都会そだちの人のなかには瓦斯燈に照しだされたあの人工の花の印象をわすれずにゐるひともあるだらう。
今歳(ことし)水無月(みなづき)のなどかくは美しき。
軒端(のきば)を見れば息吹(いぶき)のごとく
萌えいでにける釣(つり)しのぶ。
忍ぶべき昔はなくて
何をか吾の嘆きてあらむ。
六月の夜(よ)と昼のあはひに
万象のこれは自(みづか)ら光る明るさの時刻(とき)。
遂(つ)ひ逢はざりし人の面影
一茎(いつけい)の葵の花の前に立て。
堪へがたければわれ空に投げうつ水中花。
金魚の影もそこに閃(ひらめ)きつ。
すべてのものは吾にむかひて
死ねといふ、
わが水無月のなどかくはうつくしき。
(伊東静雄「水中花」全行・昭和12年=1937年8月「日本浪漫派」)
以上、日本の現代詩の口語自由詩・口語散文詩は喪失と死、衰弱と破滅のイメージに憑かれた詩が突出しており、高村光太郎のような理想主義的詩人ですら絶唱は母の死や夫人の発病・死別の詩でもあると思うと考えさせられるものがあります。瀧口修造(1903-1979)の「絶対への接吻」(前回引用)のような徹底したシュルレアリスムの詩がかえって向日的な肯定性を湛えているのは意外でもありますが、実際フランスのシュルレアリスムは楽天的な人生観が背景になっているので瀧口の詩は正統的な西洋詩の移入とも言えます。しかし瀧口も、伊東静雄の不吉な「水中花」と同年には、次のような詩を書くようになっていたのです。3編挙げますが、いずれも優れた詩ながら向日的・肯定的で楽天的とはとても言えない作品です。
夜よ
お前の肩甲骨の中の鳩が
三色菫の夢を見るとき
何をお前は見たか?
影に打ち抜かれた壁が
ランプの唇の夢を見たとき
何をお前は見たか?
小さな食卓の
盲いた瓶たちは海鳴りがする
影は朱に染まつて倒れてゐる
そして夜の心臓のやうに透きとほつてゐる
そして卵のやうに飢えてゐる
(瀧口修造「影の通路」全行・昭和12年=1937年12月刊『妖精の距離』書き下ろし)
ランプの中の噴水、噴水の中の仔牛、仔牛の中の蝋燭、蝋燭の中の噴水、噴水の中のランプ
私は寝床の中で奇妙な昆虫の軌跡を追つてゐた
そして瞼の近くで深い記憶の淵に落ちこんだ
忘れ難い顔のやうな
真珠母の地獄の中へ
私は手をかざしさゑすればいい
小鳥は歌い出しさゑすればいい
地下には澄んだ水が流れてゐる
卵形の車輪は
遠い森の紫の小篋に眠つてゐた
夢は小石の中に隠れた
(瀧口修造「睡魔」全行・昭和12年=1937年12月刊『妖精の距離』書き下ろし)
うつくしい歯は樹がくれに歌つた
形のいい耳は雲間にあつた
玉虫色の爪は水にまじつた
抜きすてた小石
すべてが足跡のやうに
そよ風さへ
傾いた椅子の中に失はれた
麦畑の中の扉の発狂
空気のラビリンス
そこには一枚のカードもない
そこには一つのコップもない
慾望の楽器のやうに
ひとすじの奇妙な線で貫かれてゐた
それは辛うじて小鳥の表情に似てゐた
それは死の浮標のやうに
春の風に棲まるだらう
それは辛うじて小鳥の均衡に似てゐた
(瀧口修造「妖精の距離」全行・昭和12年=1937年12月刊『妖精の距離』書き下ろし)
瀧口修造が、また「詩と詩論」やその周辺の日本のモダニズム/シュルレアリスム詩人が師表したのが、1920年代初頭にヨーロッパ留学し英語・フランス語の詩集まで出していた大学教授の詩人、西脇順三郎(1894-1982)でした。西脇は留学の時に『月に吠える』を携えていったほど日本語の詩は萩原以外にはいない、という萩原朔太郎崇拝者で、萩原を知的アイロニーとウィットの詩人として尊敬し、逆に萩原に叱られた逸話まである詩人です。西脇は日本語の第1詩集『Ambarvalia』(昭和8年=1933年)の刊行後は詩作の発表を断って学究生活に専念し、戦後ようやく創作に戻って12冊の大部の詩集を発表し、88歳の長寿をまっとうした詩人です。死と破滅をいっさい詩のテーマにしなかったほとんど唯一の詩人が西脇でした(吉田一穂、岡崎清一郎もいますが)。萩原が『氷島』の悲壮感に満ちた告白的・自伝的な文語詩を書き、三好が『測量船』の甘美な抒情詩と陰鬱な散文詩を書いていた時に西脇はどういう詩を書いていたかを今回の締めくくりにします。
ダビデの職分と彼の宝石とはアドーニスと莢豆との間を通り無限の消滅に急ぐ。故に一般に東方より来りし博士達に倚りかゝりて如何に滑らかなる没食子が戯れるかを見よ!
集合的な意味に於て非常に殆ど紫なるさうして非常に正当なる延期! ヴエラスケスと猟鳥とその他すべてのもの。
魚狗の囀る有効なる時期に遥に向方にアクロポリスを眺めつゝ幼少の足を延してその爪を新鮮にせしは一個の胡桃の中でなく一個の漂布者の頭の上である。
間断なく祝福せよ楓の樹にのぼらんとする水牛を!
口蓋をたゝいて我を呼ぶ者あれば我はひそかに去らんとする。けれども又しても口中へ金貨を投ずるものあり。我はどならんとすれども我の声はあまりにアンヂエリコの訪れにすぎない。跪きたれども永遠はあまりにかまびすし。
色彩りたる破風よりクルブシを出す者あれば呼びて彼の名称を問ふ。彼はやはりシシリイの料理人であつた。
堤防を下らんとする時我が頸を吹くものがある。それは我が従僕なりき。汝すみやかに家に帰りて汝の妻を愛せよ!
何者か藤棚の下を通る者がある。そこは通路ではない。
或は窓掛の後ろより掌をかざすものあれども睡眠は薔薇色にして蔓の如きものに過ぎない。
我は我の首飾をかけて慌しくパイプに火をつけて麦の祭礼に走る。
なぜならば巌に水の上に頤を出す。詞梨勒を隠す。
筒の如き家の内面に撫子花をもちたる男!
ランプの笠に関して演説するのではない然し使節に関して記述せんとするものだ。窓に倚りかゝり音楽として休息する萎縮病者の足をアラセイトウとしてひつぱるのである。
繁殖の神よ! 夢遊病者の前に断崖をつくりたまへよ! オレアンダの花の火。
桃色の永遠に咽びて魚をつらんとする。僧正ベンボーが女の如くさゝやけばゴンドラは滑る。
忽然たるアカシアの花よ! 我はオドコロンを飲んだ。
死よさらば!
善良な継続性を有する金曜日に、水管パイプを捧げて眺望の方へ向かんとする時、橋の上より呼ぶものあれば非常に急ぎて足を全部アムブロジアの上にもち上げる。すべては頤である。人は頤の如く完全にならんとする。安息する暇もなく微笑する額を天鵞絨の中に包む。
コズメチツクは解けて眼に入りたれば直ちに従僕を呼びたり。
脳髄は塔からチキンカツレツに向つて永遠に戦慄する。やがて我が頭部を杏子をもつてたゝくものあり。花瓶の表面にうつるものがある。それは夕餐より帰りしピートロの踵。我これを憐みをもつてみんとすれどもあまりにアマラントの眼である。
来たらんか、火よ。
(西脇順三郎「馥郁タル火夫」全文・昭和2年=1927年12月「馥郁タル火夫ヨ」)
(引用詩のかな遣いは原文に従い、用字は当用漢字に改め、明らかな誤植は訂正しました。)
(※以下次回)