人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

現代詩の起源(17); 三好達治詩集『測量船』(x)

 三好達治(1900.8-1964.4)昭和29年9月/54歳
 (撮影・浜谷浩)

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 詩集『測量船』第一書房「今日の詩人叢書」
 第二巻、昭和5年(1930年)12月20日刊(外箱)

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 三好達治は生年が1900年、没年が1964年と作品発表年次の作者の年齢がわかりやすい詩人で、詩人としての同人誌デビューは大正15年(1926年)6月、第1詩集が昭和5年(1930年)12月で最後の詩集は昭和37年(1962年)3月刊の『定本三好達治全詩集』ですが、没年の昭和39年(1964年)まで作品がありますから38年間の詩歴があることになります。三好の詩が成熟期に入ったのは第5詩集『春の岬』からでしょう。今回の主旨は三好達治の作品のうち最良と思われるものを上げていくつもりですので、詩集『春の岬』をその起点としたいと思います。同詩集は『測量船』と4行詩詩集三部作の第2詩集『南窗集』(昭和7年刊)、第3詩集『閒花集』(昭和9年刊)、第4詩集『山果集』(昭和10年刊)を全編収録して新作詩集『霾』を足したもので、小学校から乗馬必修の陸軍幼年学校で学んだ三好らしい馬への慈しみの眼差しが感じられる、教科書にもよく採用される佳作があります。


 雨の中に馬がたつてゐる
 一頭二頭仔馬をまじへた馬の群が 雨の中にたつてゐる
 雨は蕭々(せうせう)と降つてゐる
 馬は草を食べてゐる
 尻尾も背中も鬣(たてがみ)も ぐつしより濡れそぼつて
 彼らは草をたべてゐる
 あるものはまた草もたべずに きよとんとしてうなじを垂れてたつてゐる
 雨は蕭々と降つている
 山は煙をあげてゐる
 中獄の頂から うすら黄ろい 重つ苦しい噴煙が濛々(もうもう)とあがつてゐる
 空いちめんの雨雲と
 やがてそれはけじめもなしにつづいてゐる
 馬は草を食べてゐる
 艸千里浜のとある丘の
 雨にあらはれた青草を 彼らはいつしんにたべてゐる
 たべてゐる
 彼らはそこにみんな静かにたつてゐる
 ぐつしよりと雨に濡れて いつまでもひとつところに 彼らは静かに集まつてゐる
 もしも百年が この一瞬の間にたつたとしても 何の不思議もないだらう
 雨が降つてゐる 雨が降つてゐる
 雨は蕭々と降つてゐる
  (「大阿蘇」全行・昭和12年=1937年6月「雜記帖」、詩集『春の岬』昭和14年=1939年4月刊所収新作詩集『霾』収録)


 文末表現「……ゐる」の単調なくり返しから悠久な時間を感じさせる効果は素晴らしく、視覚的な喚起力も抜群ですが、あえて言えば「もしも百年が この一瞬の間にたつたとしても 何の不思議もないだらう」という不要な作者のコメントが惜しまれます。馬(軍馬)への関心は次の第6詩集『艸千里』収録の、三好が昭和12年(1937年)10月、文芸記者として上海の戦地取材に派遣された際の見聞に基づいた次の散文詩ではさらに強烈に生かされており、これもまた教科書によく採り上げられる作品です。


 遠く砲声が轟いてゐる。声もなく降りつづく雨の中に、遠く微かに、重砲の声が轟いている。一発また一発、間遠な間隔をおいて、漠然とした方角から、それは十里も向ふから聞こえてくる。灰一色の空の下に、それは今朝から、いやそれは昨日からつづいてゐる。雨は十日も降つてゐる。広袤(くわうぼう)無限の平野の上に、雨は蕭々(せうせう)と降りつづいてゐる。
 ここは泥濘(ぬかるみ)の路である。たわわに稔つた水田の間を、路はまつ直ぐ走つてゐる。黄熟した稲の穂は、空しく収穫の時期を逸して、風に打たれて既に向き向きに仆(たふ)れている。見渡すかぎり路の左右にうちつづいた、その黄金色のほのかな反射の明るみは、密雲にとざされたこの日の太陽が、はや空の高みを渡り了(をは)つて吊瓶落しに落ちてゆく。午後の時刻を示してゐる。
 今ここに一頭の馬――癈馬が佇んでいる。それは癈馬、すつかり馬具を取除かれて路の上に抛(はふ)り出された列外馬である。それは蹄を泥に没してきよとんとそこに立つてゐる。それは今うな垂れた馬首を南の方へ向けてゐる。恐らくそれは北の方から、今朝(それとも昨日……)この路の上を一群の仲間と共に南に向かつて進軍を続けてきたものであらう。さうしてここで、その重い軛(くびき)から解き放たれて、
 ――とうとうこいつも駄目になつた、いいから棄てて行け。
 そんな言葉と一緒に、今彼の立つてゐるその泥濘の上に、すっかり裸にされた上で抛り出されたものであらう。そうして間もなく、その時まで彼もまたその一員だつたその一隊の軍隊は、再び南の方へと進軍を起して、やがて遠く彼の視界を越えて地平に没し去つたのであらう。
 激しい掛け声も、容赦ない柏車も鞭打ちも、ついに彼を励まし促し立てることの出来なくなつた時、彼はここに棄てられたのである。彼にも休息が与へられた。そうして最後に休息の与へられたその位置に、彼はいつまでも南を向いて立つてゐる、立ちつくしてゐる。尻尾一つ動かさうとするでもなく、ただぐつたりと頭を垂れて。
 見給へ、その高く聳(そび)えた腰骨を、露わな助骨を、無慙な鞍傷(あんしやう)を。膝のあたりを縛つた繃帯(ほうたい)にも既に黝(くろ)ずんだ血糊がにじんでゐるではないか。
 たまたまそこへ一台の自動車が通りかかつた。自動車はしきりに警笛の音をたてた。彼はそれにも無関心で、車の行手に立ち塞がつたまま、ただその視線の落ちたところの路面をじつと見つめてゐた。車はしずかに彼をよけて通りすぎなければならなかつた。
 広漠とした平野の中の、彼はさうしていつまでも立ちつくしてゐた。勿論彼のためには飢えを満すべき一束の枯草も、風雨を避くべき厩舎もない。それらのものが今彼に与へられたところで、もはやそれが何にならう、彼には既に食慾もなく、いたわるべき感覚もなくなつてゐたに違ひない。
 それは既に馬ではなかつた。ドラクロアの「病馬」よりも一層怪奇な姿をした、ぐつしより雨に濡れたこの生き物は。この泥まみれの生き物は、生あるものの一切の意志を喪いつくして、そうしてこのことによつて、影の影なるものの一種森厳な、神秘的な姿で、そこに淋しく佇んでゐた。それは既に馬ではなかつた。その覚束ない脚の上にわずかに自らを支えてゐる、この憐れな、孤独な、平野の中の点景物は。
 折からまた、二十人ばかりの小部隊が彼の傍らを過ぎていつた。兵士達は彼の上に軍帽のかげから憐憫の一瞥を投げ、何か短い言葉を口の中で呟いて、そうしてそのまま彼を見捨てて、もう一度彼の姿をふりかへらうともせず、蕭然と雨の中を進んでいつた。
 雨は声もなく降りつづいてゐる。小止みもなく、雨は十日も降つている。
 やがて時が来るだろう、その傷ついた膝を、その虔(つつ)ましい困憊(こんばい)しきった両膝を泥の上に跪(ひざま)づいて、さうして彼がその労苦から彼自身をとり戻して、最後の憩いに就く時が、やがて間もなく来るだらう。
 遠く重砲の音、近く流弾の声。
  (「列外馬」全行・初版収録題名「癈馬」のち改題、初出誌不詳、詩集『艸千里』昭和14年=1939年7月刊収録)


 この「列外馬」(「癈馬」から改題したのは成功でしょう)も「それは既に馬ではなかつた。ドラクロアの「病馬」よりも一層怪奇な姿をした、ぐつしより雨に濡れたこの生き物は。」で始まる連が説明的で不要ですが、「大阿蘇」の「もしも百年が~」同様、詩を読み慣れない読者にもわかりやすくするためのサーヴィスみたいなものでしょう。三好の詩作に戦争の影が射してきたのも詩集『艸千里』からでした。次の詩は三好の戦争詩では初期の戦没者追悼詩になり、切々とした感動的な作品ですが愛国詩としての側面もあるのは否定できません。


 ふたつなき祖国のためと
 ふたつなき命のみかは
 妻も子もうからもすてて
 いでまししかの兵ものは つゆほども
 かへる日をたのみたまはでありけらし
 はるばると海山こえて
 げに
 還る日もなくいでましし
 かのつはものは

 この日あきのかぜ蕭々と黝(あをぐろ)みふく
 ふるさとの海べのまちに
 おんたまのかへりたまふを
 よるふけてむかへまつると
 ともしびの黄なるたづさへ
 まちびとら しぐれふる闇のさなかに
 まつほどし 潮騒のこゑとほどほに
 雲はやく
 月もまたひとすぢにとびさるかたゆ 瑟々と楽の音きこゆ

 旅びとのたびのひと日を
 ゆくりなく
 われもまたひとにまじらひ
 うばたまのいま夜のうち
 楽の音はたえなんとして
 しぬびかにうたひつぎつぎつつ
 すずろかにちかづくものの
 荘厳のきはみのまへに
 こころたへ
 つつしみて
 うなじうなだれ

 国のしづめと今はなきひともうなゐの
 遠き日はこの樹のかげに 鬨(とき)つくり
 讐(あだ)うつといさみたまひて
 いくさあそびもしたまひけむ
 おい松が根に
 つらつらとものをこそおもへ

 月また雲のたえまを駆け
 さとおつる影のはだらに
 ひるがへるしろきおん旌(はた)
 われらがうたの ほめうたのいざなくもがな
 ひとひらのものいはぬぬの
 いみじくも ふるさとの夜かぜにをどる
 うへなきまひのてぶりかな

 かへらじといでましし日の
 ちかひもせめもはたされて
 なにをかあます
 のこりなく身はなげうちて
 おん骨はかへりたまひぬ

 ふたつなき祖国のためと
 ふたつなき命のみかは
 妻も子もうからもすてて
 いでまししかのつはものの
 しるしばかりの おん骨はかへりたまひぬ
  (「おんたまを故山に迎ふ」全行・昭和13年=1938年10月「文學界」・原題「英霊を故山の秋風裡に迎ふ」、詩集『艸千里』収録)


 この「おんたまを故山に迎ふ」の完成度の高さは言葉もないほどですが(題名も原題の「英霊を故山の秋風裡に迎ふ」より改題の「おんたまを故山に迎ふ」の方が格段に優れています)、三好は生前の全詩集にはこの詩を除外しています。また、詩集『艸千里』の次の第7詩集『一點鐘』(昭和16年10月刊)と戦争翼賛詩集三部作最初の詩集『捷報いたる』(昭和17年7月刊、三好生前の全詩集では全編を除外)をまたいで翼賛詩集の第2作として編まれた詩集『寒柝』の書き下ろし巻末詩「ことのねたつな」のほとんど神業的な超絶技巧は驚くべきものです。普通このような技巧には内容が伴わないものですが(しかも戦争翼賛詩です)、この詩は日本語の限界を究めた上で内容と不即不離の絶唱に成功した奇跡的作品でしょう。詩集『寒拆』は三好の長女が6歳の年の詩集であることもこの詩の背景になっているはずです。


 いとけなきなれがをゆびに
 かいならすねはつたなけれ
 そらにみつやまとことうた
 ひとふしのしらべはさやけ
 つまづきつとだえつするを
 おいらくのちちはききつち
 いはれなきなみだをおぼゆ
 かかるひのあさなあさなや
 もののふはよものいくさを
 たたかはすときとはいへど
 そらにみつやまとのくにに
 をとめらのことのねたつな
  (「ことのねたつな」全行・詩集書き下ろし、詩集『寒柝』昭和18年=1943年12月刊収録)


 詩集『寒柝』全38編から三好生前の全詩集に収められたのは6編きりで、「ことのねたつな」はのひとつですが、『寒拆』の初版に収められた「軍艦旗」もまた「おんたまを故山に迎ふ」同様三好生前の全詩集では除外された1編です。三好は一男一女の父で、子供たちはまだ小学校低学年と就学前でした。戦争詩である以前に家庭詩、家庭人である詩人の詩は日本の詩では珍しく、こうした詩は子供のなかった高村光太郎にも、家庭に無頓着だった萩原朔太郎にもなかったものであり、たまたまそれが戦時詩だったことに三好の不幸があります。


 冬の夜の電燈の下 晩餐すみし食卓に
 いまこの家の幼(をさな)らは もろ肱(ひぢ)張りて
 口々によべもうたひし歌うたひ
 よべもゑがきし幼な絵を
 今宵またゑがきてあかず遊ぶなり
 げにその子らの父とても いとけなかりし冬の夜
 かくは拙(つたな)き絵をゑがき
 石油ランプの香の下に 時の移るを忘れたり
 ああその夜頃いまははや遠き昔となりにける
 まことに夢に似たらずや
 されば心もすずろかに
 あな幼らが 覚束な 何をたよりにゑがくらん
 しきりにゴムをなすりつつかく絵を見れば
 その昔父もゑがきしいくさ艦(ぶね)
 ――水雷艇か 戦艦か
 主砲 砲塔 司令塔
 その甲板の高射砲 カタパルト はた艦載機
 父が昔の「三笠」とは さまぞかはれる
 新鋭の浮城艨艟(ふじやうもうどう)
 航空母艦
 潜水艦
 鴎むれとぶわたつみの
 万里の波にうかびたり
 されどもこれや 艢頭(しやうとう)に
 かはらぬものぞへんぽんと――
 さなり反(かへ)しの歌一首
 へんぽんと艢頭たかき軍艦旗
 父もゑがきし子らもゑがける
  (「軍艦旗」全行・初出不詳、詩集『寒柝』収録)


 次の詩集『花筐』は、三好没後に知られるようになりましたが、萩原朔太郎の次妹でかつて三好からの求婚を拒絶し、流行歌の作詞として一家をなした詩人・佐藤惣之助と結婚後に佐藤の急逝(昭和17年5月、萩原朔太郎逝去の2日後)により未亡人となった萩原アイへの再度の求婚のために、一男一女をもうけた夫人と離婚して萩原アイと同棲を始めた私生活上の事件を背景とした詩集です。驕慢な性格だったらしい萩原アイとの同棲は半年強で破綻して結婚には至らず、まだ子供たちも幼いので三好は事実上別れた夫人とは別居婚の関係で戦時下に流浪の生活を送ることになりました。詩集『花筐』のうち最後に書かれたのは次の詩で、「――この書一巻を編み了りて」と題辞があります。恋愛詩集『花筐』を必ずしも甘美とは呼べないのは萩原アイとの同棲の始まりと同月刊行にもかかわらず全編に不吉な予感が漂っているからです。


 明日は死ぬ人のやうにも思ひつめて
 わがゆきかよひし山路よ
 樫鳥一羽とぶでない
 深い空しい黄昏の渓間よ
 ああもうそこを樵夫も猟師も炭焼も
 今はかよふ時刻ではない
 深い渓間
 その渓の向ふにのつてりと横はる枯艸山
 その巓(いただき)の枯れ枯れの雑木林
 雑木林に落ちかかる仄かに鋭い三日月よ
 誰に語らふすべもない
 ああその日頃のそれはまた私の心の色だつた
 そのうらがなしい紫は……
 いつまでもいつまでもすつかり秋のふけるまで
 その路のほとりに咲いてゐた松蟲艸よ
 わづかの風にもゆれやまぬ
 よるべなげなる艸の花
 そのうらがなしい紫は……
 明日は死ぬ人のやうにも思ひつめて
 わがゆきかよひし山路よ
 ああかの黄昏の山路
  (「明日は死ぬ人のやうにも」全行・詩集書き下ろし、詩集『花筐』昭和19年=1944年6月刊収録)


 戦争翼賛詩集三部作最後の詩集『千戈永言』は敗戦の2か月前の刊行で、ここからも三好は生前の全詩集で全28編中2編しか採録していません。たった2編ですから2編ともご紹介します。ともに敗色の濃い時局に詠まれた戦争詩として悲痛な印象すらあり、『花筐』~『千戈永言』の時期の三好が私生活ではどん底の不幸に見舞われながら詩ではどれだけ無理をしていたかが伝わってくるようです。それが日本人全体の不幸とも重なっていたことに戦時下の三好(陸軍幼年学校出身という素質も好適でした)の戦争詩が読者の共感を呼ぶ、という連鎖のような現象があり、また三好と並んで戦争詩の大家になってしまった高村光太郎も、長い闘病生活の看病の末の夫人の逝去が一気に高村を解放させ、社会的コミットメントの欲求が不運にも戦争翼賛詩の需要に結びついた事情があります。次に引く三好の戦争詩2編はほとんど敗戦の予感しかないと言ってよいもので、敗戦決定前から言い訳を用意しているような悲愴な卑屈さすら感じさせます。それは詩として感銘を受けているのか、もはや詩として読むべきではないのか読者をとまどわせるようなものです。


   一

 北海波黒く
 冰霰(ひやうさん)屡(しばしば)到る
 客愁また暗澹として
 何事か呼ばんと欲し
 更にまた緘黙(かんもく)す
 嗚呼人(ひと)生を必せず
 死を必するの時
 白鴎烈風に啼く
 人事他なし
 ただ心機一瞬を尚ぶべき

   二

 心機ただ一瞬を尚ぶべし
 たまたま我は家郷をすて
 北海の浜に流寓す
 骨枯れ肉はたゆけれども
 笑ふべし
 駑馬もなほ千里を思ふ
 げにこの惨憺たる薄暮
 ただ情思貫直を快とし
 白鴎の波浪に上下するを
 望み見て自ら慰む
  (「窗下の海」全行・「文藝春秋」昭和19年5月、詩集『千戈永言』昭和20年=1945年6月刊収録)


 ……
 ……
 敵壘下咫の壕に
 肉薄し夜を徹したり
 払暁に突撃せんとす――
 かかる時四もは寂寞
 星しげき阜(つかさ)のかげに
 君が書を読む兵ありと
 君やよし詩人(うたびと)の想に富ますも
 得ておもひ知りたまふまじ
 君が書はわが行嚢に
 門出の日負ひてひめたり
 いくたびか死地に出で入り
 硝煙にくんじたれども
 ひと春はただつつがなく
 春秋をはや三たび経て
 来しかたの山もはろけし
 げにあはれ矢石(しせき)の境は
 うたかたのいのちなれこそ
 うたありてこころは張りぬ

 兵はみな遺書をしたため
 しののめの空しろければ
 敵壘に突入せんとす
 更(かう)たけし闇のさなかに
 ここかしこはや鞘ばしる
 三尺の青き稲妻
 いにしへは槊(さく)を横たへ
 詩を賦ししいくさの雅(みや)び
 いまのこのわれは唖(おふし)の
 蝉にして歌なきたぐひ
 嗚呼
 秋老いて
 風寒し
 うつそ身の戎衣ほころび
 かなた流星とぶ
 げに兵の身はかく
 束の間ののちさへ知らに
 閑を得てみじかきひまや
 なかなかに思ひはながし

 いざさらば言(げん)を寄すなり
 かへりごと待つ身にあらず
 あいなしとうとみたまはん
 はばかりもかつは忘れて
 心頭を徂徠(そらい)す感の
 ついでなきままをつづりつ
 かへりみてはぢらふひまも
 つきんとす再読もせず
 追撃の砲鳴りいでん
 突撃の時はせまれり
 乞ひまつる餐(さん)を加へよ
 さきくませ君
 はたわれもけさのいくさに
 もののふのおくれはとらじ

 幸ひに君記したまへ
 ただ一事
 (いまのこの刹那ののちは
 神ひとりしろしたまはん)
 胡地(こち)ふかく敵の壘下に
 はるばるとわが負ひて来し
 君が書のこれのひと巻
 壕に踞(きよ)し光りをつつみ
 わが膝にわが手のうへに
 つつがなく開かれたりと――

 文(ふみ)はかく筆を擱(お)きたり
 艸々の文字のはしらひ
 かぐはしきこころのあとも
 うらわかきみちの友垣(ともがき)
 君によりわが垂老(すゐらう)の
 情感も春のみづ枝(え)を
 張らんとす
 かしこし
 友や
 いくさ勝ちかへり来たまへ
 酒くみてものがたりせん
 その日はや
 来よと
 わりなく
 爐の灰にわが涙おつ
 ――おつにまかせつ
  (「涕涙行」全行・初出不詳、詩集『千戈永言』収録)


 冒頭でも述べた通り三好達治の詩歴は38年間ですが、敗戦の年1945年はちょうど19年目で、つまり三好の詩歴は敗戦までの19年間と敗戦後の19年間に2分されるわけです。1945年、三好はまだ45歳でした。64歳の年に没するまでの後半生、三好は過去の詩人として大家の地位を保ち続けますが、もっとも創作力の充実していた30代後半~40代前半を戦時下の状況に左右されていたことから最初期の『測量船』の後は4行詩詩集三部作あたりまでしか積極的な評価の対象にならなかったのです。三好の晩年の作品で絶品の名作「牛島古藤歌」は前回ご紹介しました。戦後になって、三好は昭和21年に2冊の詩集『故郷の花』(4月刊)、『砂の砦』(7月刊)を連続して発表しますが、まず戦後の三好の、詩による詩人的マニフェストと言うべき『砂の砦』の表題作をご紹介しましょう。


 私のうたは砂の砦だ
 海が来て
 やさしい波の一打ちでくづしてしまふ

 私のうたは砂の砦だ
 海が来て
 やさしい波の一打ちでくづしてしまふ

 こりずまにそれでも私は築く
 私は築く
 私のうたは砂の砦だ

 無限の海にむかつて築く
 この砦は崩れ易い
 もとより崩れ易い砦だ

 青空の下
 太陽の燃える下で
 その上私の砦は孤独だ

 援軍無用
 孤立無援の
 砂の砦だ

 私はここで指揮官だ
 私は士官で兵卒だ
 砲手だ旗手だ伝令だ

 鴎が舞ふ
 鳶が啼く
 私はここで戦つた

 私はここで戦つた
 無限の海
 無限の波

 波が来て白い腕(かひな)の
 一打ちで崩してしまふ
 私の歌は砂の砦だ

 この砦は砂の砦だ
 崩れるにはやく
 築くにはやい

 これははかない戦場だ
 波が来てさらつたあとに
 あとかたもない砂の砦だ

 私のうたは砂の砦だ――
  (「砂の砦」全行・初出不詳、詩集『砂の砦』昭和21年=1946年7月刊収録)


 この「砂の砦」はマニフェストたるゆえんで詩人が自分自身を語ることだけに始終してあまり出来のよくない詩ですが(ここにも措辞に陸軍幼年学校出身の痕跡が見られます)、詩集『砂の砦』に先立つ詩集『故郷の花』の巻末から2番目の敗戦詩「海辺暮唱」は、戦争詩集『寒拆』『千戈永言』の作品から続けて読むと決して詩的純度と完成度の高い詩ではないにもかかわらず、作品の湛えている悲しみの深さに打たれないではいられません。それは三好個人の感傷にとどまらず、人々の心にぽっかり空いた穴を詠って、依り所を失った敗戦日本の放心と没我の心情に触れているからでしょう。


 彼方に大いなる船見ゆ
 敵国の船見ゆ
 いえいえあれは雲です
 彼方に青き島見ゆ
 島二つ見ゆ
 いえいえあれは雲です

 ひと目暮れんとして
 悲しみ疲れたるわれらが心の上に
 いま大いなる天蓋(きぬがさ) 夕焼の空は赤く燃えてかかりたり
 深き憂愁と激しき労役との一日の終りに
 なべてはしばし美しき夢をもて飾られぬ
 浪のこゑしづかに語り
 艫の音きしみ
 鴉らはただ黙々とひと方に飛ぶ
 秋は既に深ければ山々はなほ緑さやかに
 寂然としてはてしなき想ひに耽れり
 万象はかく新らしき明日をむかへんとして
 なつかしき空想とゆかしき沈黙とはあまねく世界を領したり
 ああ戦ひやみぬ
 いくさ人おほく帰らず
 戦ひやぶれし国のはて
 古鐘またほろび
 かかる時鳴りもいづべき梵音の
 すゑながき清浄音をききもあへず
 雲ははやおとろへ散じ縹(はなだ)の色もあせんとす

 彼方に青き島見ゆ
 島二つ見ゆ
 いえいえあれは雲です
 彼方に大いなる船見ゆ
 敵国の船見ゆ
 いえいえあれは雲です
  (「海辺暮唱」全行・初出不詳、詩集『故郷の砂』昭和21年=1946年4月刊収録)


(引用詩のかな遣いは原文に従い、用字は当用漢字に改め、明らかな誤植は訂正しました。)
(※以下次回)