人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2018年1月18日・19日/アルフレッド・ヒッチコック(1899-1980)のほぼ全作品(23)

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 アメリカ映画でセミ・ドキュメンタリーと呼ばれる実録・実話調の劇映画が作られるようになったのはヘンリー・ハサウェイの『Gメン対間諜』'45が嚆矢で、同作のプロデューサーのルイス・デ・ロシュモントは続いてハサウェイに『マドレーヌ通り十三番地』'46を作らせ、さらにハサウェイは別のプロデューサーによるニューヨーク・ロケの『死の接吻』'47を監督します。この傾向に目をつけたのはラオール・ウォルシュの『彼奴は顔役だ!』'39の脚本をロバート・ロッセンと共作したジャーナリスト出身のプロデューサー、マーク・ヘリンジャーで、ロバート・シオドマク監督の『殺人者』'46に続いてジュールズ・ダッシン監督の『真昼の暴動』'47、『裸の町』'48を製作、特に全編ニューヨーク・ロケの刑事ドラマの後者は話題作となり以後の犯罪捜査映画に大きな影響を与えました。ダッシンはRKO映画社出身でヒッチコックのハリウッド進出第3作・第4作に当たるRKO社作品『スミス夫妻』'41、『断崖』'41でヒッチコックの助監督を勤めています。ヒッチコックセミ・ドキュメンタリーは遠い間柄に見えますが(戦争プロパガンダ短編「マダガスカルの冒険」'44は例外的でしたが)、長編劇映画で唯一実話の映画化である『間違えられた男』はその点でヒッチコックの作品歴でもひときわ異彩を放つ1作になりました。絢爛豪華な国際スパイ・アクションのテクニカラー大作『知りすぎていた男』の直後にニューヨークの下町が舞台でB/Wの渋い実話映画の小品でヒッチコック作品では唯一のヘンリー・フォンダ主演作『間違えられた男』が来るのも相当な振幅ですが、次の『めまい』は主演こそ『知りすぎていた男』に続いてジェームズ・スチュアート主演ながら舞台は一転してサンフランシスコになり、ヒッチコックの映画でも悪夢度は『サイコ』'60、『鳥』'63と並ぶ陰鬱で謎めいた作品になりました。ヒッチコックの作品でももっとも賛否両論かまびすしく、公開当時から嫌う人も多かった作品ですが評価は年々高まり、2012年8月「Sight & Sound」誌発表のイギリス映画協会による映画史ベスト50選では国際批評家投票で第1位、国際監督投票で7位に選ばれています(記事末註)。ヒッチコック映画やサスペンス映画に限らずこのブログではあらすじを飛ばして読めば感想文は映画の結末を明かさないように十分に配慮しているつもりですが、絶頂期に入った『見知らぬ乗客』以降のヒッチコック映画でも特に『間違えられた男』『めまい』から『サイコ』『鳥』『マーニー』'64までは未見のかたはあらすじをご覧にならない方がいいかもしれません。感想文にどうとでも意味の取れるような婉曲的な表現が入るのはそのためで、映画をご覧のかたには意味が通じるように書いてあるつもりです。なお、今回も『ヒッチコック/トリュフォー 映画術』(晶文社刊、山田宏一蓮實重彦訳)からの発言は例によって多少表現を変えて引用させていただきました。

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●1月18日(木)
『間違えられた男』The Wrong Man (米WB'57)*105min, B/W; 日本公開昭和32年(1957年)10月19日

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○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より) アルフレッド・ヒッチコックが「知りすぎていた男」に続いて監督したスリラー映画。原作は「悪い種子」のマクスウェル・アンダーソンが書いた、題材は1953年、ニューヨークで起こった事件に基づくノン・フィクション。アンダースンと「知りすぎていた男」のアンガス・マクフェイルが共同で脚色した。撮影は「放浪の王者(1956)」のロバート・バークス、音楽は「灰色の服を着た男」のバーナード・ハーマンが担当。主演は「戦争と平和」のヘンリー・フォンダ、「捜索者」のヴェラ・マイルズ、「戦艦シュペー号の最後」のアンソニー・クェイル
○あらすじ(同上)ニューヨークのストーク・クラブでベースを弾く貧乏楽士マニイ・バレストレロ(ヘンリイ・フォンダ)は妻のローズ(ヴェラ・マイルズ)の歯の治療代300ドルの工面のため、ある日、ローズの保険証書を抵当に金を借りようと保険会社の門をたたいた。窓口係のデナリー(ペギー・ウェバー)が、ふとマニイの顔を見て驚いた。忘れもしない、この事務所に2度も強盗に押入った男の顔とそっくり。デナリーは態よくマニイを待たしておいて警察へ急報。マニイは刑事主任バワース(ハロルド・J・ストーン)とマシューズ刑事(チャールズ・クーパー)によって第110区の警察署へ連行された。身に覚えのないことではあったが、筆跡まで強盗犯人と酷似しており、保険会社の参考人によってマニイは真犯人と断定された。その夜は留置所に、翌朝、手錠をはめられたマニイは予審裁判所で正審までの保釈金7500ドルを要求され、理解に苦しむままにロングアイランド刑務所の独房に入れられた。しかしマニイの姉オルガ(ローラ・ダヌンツィオ)の奔走で保釈金の工面に成功、マニイは一時帰宅の自由を得た。ローズはオコンナー弁護士(アンソニー・クェイル)に夫の弁護を依頼、ここから困難なマニイの無実を証明する証人探しが始まった。事件当日の記憶をたどり、2人の証人となる人間が見つかったが、不運にも2人とも既に死亡していた。ローズは絶望の余り精神が錯乱、入院の悲劇を迎えた。やがて初公判が開かれた。オコンナーは、保険会社のデナリーの記憶の不確実さを追求したが公判は、更に別の日にやり直しと決まった。ところがその夜、食料品店を襲ったダニエル(リチャード・ロビンズ)という男が捕まえられ、調べが進んで彼が保険会社事件の真犯人と判った。ダニエルはマニイと生写しであった。事件は急転解決、冤罪をそそいだマニイは朗報を伝えるため妻のローズがいる郊外の療養所へ車を飛ばした。ローズは夫の明るい顔を前にして相変らず黙り込んだまま。心に刻まれた彼女の傷は一朝にして癒えないのだ。しかしマニイは、きっと妻を立直らせると誓った。

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 本作は劇作家・ジャーナリストのマックスウェル・アンダーソンが「ライフ」誌に寄稿した実話の映画化で、アンダーソンはウォルシュの『栄光』'27とそのリメイクでジョン・フォードの『栄光何するものぞ』'52の原作者としても知られた人です。一応映画の最後に後日談が字幕で語られますが、冤罪事件の容疑者になった主人公の夫人は『映画術』'66のインタビューの時点でまだ入院中だとヒッチコックが明かしています。何ともいたたまれない話で、せめて本作が多少なりともつぐないになっていればと祈るばかりですが、事実に基づいた通りならば回復の望みがないほど精神的な崩壊が進んでしまっているのでヒッチコックの映画の中でもこれほど気の毒なヒロインはいないでしょう。この主人公の奥さんが追い詰められて精神を病んでいってしまう様態はこれまでヒッチコックの映画に描かれたどんな異常心理よりも現実的な衝撃力があり、その過程も的確に説得力を持って描かれています。作品自体はごく普通の市民生活の中で誰にでも起こり得る冤罪事件を取り上げてちゃんと劇映画らしいサスペンス映画になっていますし、主人公が冤罪を着せられるのはそれこそヒッチコック映画の原点たる『下宿人』'26以来延々続いてきた設定ですし、近くは『私は告白する』がありました。ただし『三十九夜』『第3逃亡者』『逃走迷路』と続き、『北北西へ進路を取れ』'59にいたる冒険サスペンスと本作や『私は告白する』が決定的に違うのは『三十九夜』系統の作品が事件は解決のために転々と逃走を続けることができる自由な身の上なのに対して、『私は~』や本作では生活の範囲の枠でしか解決を模索できない不自由な立場の人間に訪れた冤罪であり、ヒッチコックに限らず映画として描きづらいのはいくらでも虚構を積み上げられる前者のパターンより虚構を封じていきながら現実的に主人公を追い詰めていかなければならない後者のパターンでしょう。『私は告白する』についてヒッチコックはユーモアの欠如を失敗と嘆いていますが、本作については積極的に好きな自作ともしない代わりにユーモアのなさも含めて作品のリアリティの達成に自信を表明しています。本作がヒッチコック作品唯一の出演作になったヘンリー・フォンダはハサウェイの『丘の一本松』'36、フリッツ・ラングの『暗黒街の弾痕』'37、ウィリアム・ウェルマンの『牛泥棒』'43、フォードの『逃亡者』'47などを筆頭に善良な巻き込まれ被害者的加害者役で数々の名作に貢献してきましたから、ここでまたひとつフォンダの名作が増えたわけです。ただし本作ほど地味で渋い作品はイギリス時代の普通映画を除けば他になく、ハリウッド進出後のヒッチコック作品ではもっとも地味な映画というのが良しにつけ悪しにつけ定評になっており、そこが本作の特色でもあるでしょう。
 しかし、華麗なテクニカラー作品『ダイヤルMを廻せ!』から『裏窓』『泥棒成金』『ハリーの災難』『知りすぎていた男』と続いてきて、『私は告白する』以来のB/W作品になった本作は『ハリーの災難』同様、ヒッチコックが大きなヒットは望めなくても作りたくて作った作品ならではの観客へのサーヴィスより自分の納得のいく内容を求めた張りがあり、これは『裏窓』や『めまい』などの力作に見られる気合いと冴えとは似て異なる感触です。『私は~』がサスペンスの基礎に主人公がカトリックの神父であることを条件にしていたのが映画をやや特殊なものにしていたのと、フォンダ演じる本作の主人公がニューヨークの下町に住むイタリア系移民なのは同じ発想のようで順序が違って、『私は~』のモンゴメリー・クリフトの役はカトリック信徒になって神父になった人物ですが本作のフォンダは生まれついてのイタリア系移民でありカトリックです。設定が実話通りなのももっともで、フォンダはクラブ「ストークス」の箱バンのベーシストですがこうした白人向けクラブのバンドは当然白人向けムード音楽とダンス音楽を演る白人の中規模編成ジャズ・バンドですし、白人のジャズ・ミュージシャンはアーリア/アングロ・アメリカンはめったにおらず、白人であってもユダヤ系、イタリア系、アイリッシュ系の少数派移民たちでした。つまり白人とはいえ庶民であればほとんどアフロ・アメリカンと同等の社会的階層にいた人種です。ヒッチコックアイリッシュカトリックのイギリス人でしたからイタリア系カトリックアメリカ人が被差別階級であることは鋭敏で、保釈されたフォンダが夫人のヴェラ・マイルズと犯行当日のアリバイになる旅行先の、夫婦だけで営業している小さなホテルもイタリア系の夫婦ですし、その保釈も親族を大切にするイタリア人らしくカンパが集まります。フォンダの親兄弟には全員イタリア系俳優がキャスティングされています。フォンダが逮捕される時にあまりに従順に見えますがイタリア系というだけでも不利な状況がわかっているからで、独房へ収監される際には持ち物やネクタイは取り上げられてしまいますが「ロザリオだけは持っていていい」と言われます。日本だったら絶対駄目でしょう。フォンダの弁護を引き受ける弁護士役のアンソニー・クェイルアイリッシュ系の名前のオコナーなのもおそらく事実通りなのだろうと思われます。
 演出においても語り口でもヒッチコックらしい巧みさがあるので実話映画という断り書き(アヴァン・タイトルでヒッチコック自身が逆光のシルエットで登場し、「これからご覧になる映画は実話です」と前口上を述べています)ではなく、「現実に起こり得るフィクションです」というものでも本作の迫力は変わらなかったでしょうが、むしろ実話を強調したあたりにヒッチコックの照れと開き直りを感じます。本作は珍しくヒッチコックが人間(個人、そして家庭)と社会(法と連帯、人間不信)についての関心によって本心から作ることを望んだ映画であり、誰もがドラマの山場に夫人の精神疾患の発症を上げ、また演出では独房へ収監された主人公のアップが旋回するショット、裁判再審を迎えた主人公が母の言いつけを思い出して一心に神に祈り、その主人公の面もちに路地を歩いてくる主人公に瓜二つの真犯人の顔がオーヴァーラップするクライマックス、そして主人公が真犯人の面通しに立ち会い無罪を告げられる短い警察署の廊下の場面での証人たちとの無言の再会と真犯人との対面、もはや夫すら識別できない病状の入院中の妻を見舞うラストシーンを上げると思います。どの演出にもヒッチコックの真情がこもっているとともに実話映画に終わらせずドラマティックな映画的効果を図っている作為の二重性が見られ、照れとも開き直りとも言うのはこれがロベルト・ロッセリーニ、あるいはロベール・ブレッソンのようなヨーロッパの映画監督なら徹頭徹尾観客を突き放したような演出を通すだろう、と思われるからです。また、ハリウッドでもこんな地味な映画の企画はインディペンデントの映画会社製作ならともかくウォルシュやフォード、ハワード・ホークスウィリアム・ワイラーが撮るとは思えないですし、仮にこうしたハリウッドの巨匠たちが撮るとすればもっと構成自体が実話より大きく劇的にアレンジされたシナリオが用意されたでしょう。ヒッチコックは純粋なハリウッド出身監督よりスマートな映画作りで評判を取りましたが本作ではむしろハリウッド出身監督ならスマートな作品にしてしまうような題材をややぎこちないのではないかと思うくらい訥々と描いている。こうした方法だけが映画監督の良心ではないでしょうが、いつもはおとぎ話のような非日常的サスペンス映画に馴れた観客に、観客自身の身辺に起こっても不思議はないような本当に切実に怖い映画を観てもらいたくて作った気持が伝わってきます。テレビ・シリーズの「ヒッチコック劇場」の放映開始が'55年10月で'62年6月まで続く長寿番組になり(後続の「ヒッチコック・サスペンス」が'62年末から'65年)、冒頭のMCで登場するヒッチコックはお茶の間の顔にもなっていたからこそ本作のような地味な題材でも成算ありと見たのでしょう。また、ヒッチコックには次作『めまい』の主演女優にするつもりだったヴェラ・マイルズとの顔合わせを兼ねた作品でもあり、マイルズは十分なヒロインの格を示したのも満足がいったと思います。結果的に『めまい』はキム・ノヴァクがヒロイン女優になりましたが、本作を観るとマイルズを『めまい』の主演女優にできなかったヒッチコックの無念もわかる気がします。

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●1月19日(金)
『めまい』Vertigo (米パラマウント'58)*130min, Technicolor; 日本公開昭和33年(1958年)10月26日、昭和59年(1984年)3月、平成26年(2014年)1月25日/アカデミー賞美術賞・録音賞ノミネート

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○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より) アルフレッド・ヒッチコック監督の「間違えられた男」につづくスリラー。クルウゾーの「悪魔のような女」の原作者ピエール・ボアローと、トーマス・ナルスジャックの共作小説から、アレック・コッペルと「モンテカルロ物語サム・テイラーが共同脚色した、伝奇的なロマンとニューロティックなスリラー手法をないまぜた一編。撮影監督は「間違えられた男」「ハリーの災難」のロバート・バークス。サンフランシスコ周辺の風光がロケによって生かされている。音楽はバーナード・ハーマン。出演者は「知りすぎていた男」「翼よ!あれが巴里の灯だ」のジェームズ・スチュアートに「愛情物語」「夜の豹」のキム・ノヴァクが顔を合わせる他、「暗黒の恐怖」のバーバラ・ベル・ゲデス、「バラの肌着」のトム・ヘルモア等。キム・ノヴァクは2役を演じわける。製作はヒッチコック自身。「悲しみよこんにちは」のソール・バスがタイトル・デザインを担当している。
○あらすじ(同上)元刑事のジョン・ファーガスン(ジェームズ・スチュアート)は、屋上で犯人追跡中に同僚を墜死させたことから、高所恐怖症にかかって今は退職していた。商業画家の女友達、ミッジ(バーバラ・ベル・ゲデス)の所だけが、彼の気の安まる場所だった。そんなある日、昔の学校友達ゲビン・エルスター(トム・ヘルモア)から電話があって、彼はその妻の尾行を依頼された。美しい妻のマドレイヌ(キム・ノヴァク)が時々、昔狂って自殺した曽祖母のことを口走っては夢遊病者のように不可解な行動に出るというのだ。しかも彼女は、まだ自分にそんな曽祖母のあったことは知らぬ筈だという。翌日からジョンの尾行がはじまった。マドレイヌの行動範囲はサンフランシスコ一帯に及んだ。ある時は曽祖母の埋められている墓地に、ある時は曽祖母が昔住んでいたというホテルに、ある時は若かりし頃の曽祖母の画像の飾られている画廊に。しかもぼんやりと絵に見いる彼女の、手にもつ花束の型や髪型は画像の曽祖母と同じものなのだ。そしてある日、彼女は海に身を投げた。ジョンは彼女を救って、自宅につれかえり介抱した。そして、今はもう彼女を愛している自分を知った。彼女は自分の行動もよく覚えてはいなかった。何事かを恐れるマドレイヌの心理を解きほぐすためにジョンは彼女を、よく夢に見るというサンフランシスコ南部のスペイン領時代の古い教会にともなった。しかし、突然彼に愛をうちあけながら彼女は教会の高塔にかけ上り、めまいを起したジョンが階段にたちつくすうちに身を投げて死んだ。そのショックから、ジョンはサナトリウムに療養する身となった。まだ自分をとりもどすことの出来ぬ彼は、街をさまよっているうちに、ふとジュデイ(キム・ノヴァク)というショップ・ガールに会った。身なり化粧こそげびて俗だったとはいえ彼女の面ざしはマドレイヌに似ていた。ジョンは、いつか彼女の面倒をみてやる身となった。彼は彼女にマドレイヌに似た化粧や身なりを教えた。しかし彼女はそれをいやがった。何故なら彼女こそは、妻を殺すためにジョンの高所恐怖症を利用したゲビンに使われ、ジョンをあざむいて顔かたちの似たマドレイヌになりすましていた女だったのだ。あの時、高塔の上には殺した妻を抱いたゲビンがいた。そして、めまいを起こして高所に上れぬジョンを証人につかって、かけ上ってきたジュデイとタイミングを合わせて妻の死体を塔から投げ下ろし、自殺に見せるというトリックを使ったのだ。サンフランシスコ一帯にジョンを引きまわし、彼と恋におちたマドレイヌとは、実はジュデイその人だったのだ。ある夜、死んだはずのマドレイヌのものだった首飾りをジュデイの胸にみつけたジョンは、彼女をあの教会の白亜の高塔につれていって詰問した。総ては今やはっきりした。しかし、今はジョンを愛するジュデイは、彼への愛を口走りながら、突然現れた尼僧への恐怖に塔から足をふみ外して墜死した。

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 ヒッチコックはフランスの推理小説作家コンビ、ボワロー=ナルスジャックの話題作『悪魔のような女』を映画化したかったが映画化権を先に取られてアンリ・クルーゾー監督の同名作('55年)になり、クルーゾーの同作が国際的なヒット作になったので悔しかった。同作は当時70歳の谷崎潤一郎もいたくお気に入りの映画で、「過酸化マンガンの夢」というエッセイ風の幻想小説の短編でも作中で触れています。ヒッチコックは出版告知前からボワロー=ナルスジャックの新作小説の映画化権を押さえるのに成功し、ヒッチコックの念願通り原作小説『死者の中から』は『悪魔のような女』のさらにひと捻りしたヴァリエーションのようなトリック小説でした。クルーゾー作品が原作とは設定を逆転していたようにヒッチコック作品もヒッチコック自身の意図で原作とは視点人物が逆転する仕掛けがあり、それが観客にはサスペンス映画としては魅力半減で尻すぼみの作品と見るか、視点人物の逆転によって映画が重層化し別の種類のサスペンスを生んでおり、1本の映画の中で異種のサスペンス要素が同居する構造に斬新さと独創性があると高く評価するかが公開時から現在まで賛否両論分かれるゆえんです。ヒッチコック自身はサプライズ(謎の解明による意外性)よりもサスペンス(ドラマの進行への集中)を選んだとトリュフォーに説明しており(『映画術』)、実際観客には真相を早々明かしてしまう作例はヒッチコックには多いのですが、やはり観客の期待がどちらに向かうかで左右される点だと思います。また主演のジェームズ・スチュアートは健康的なゲーリー・クーパー、色男のケーリー・グラント、渋い魅力のハンフリー・ボガートと並んで誠実な性格を体現してアメリカ白人男性の一種の理想像を演じてきた俳優ですが、本作のスチュアートはキム・ノヴァク演じる人妻と恋に落ちてめろめろになり、その人妻が錯乱して投身自殺すると認定された事件に立ち会うはめに陥り、罪悪感と喪失感に打ちのめされ、キム・ノヴァク演じるスチュアートが知る人妻と瓜二つの田舎出のOLと出会うとなれば交際を迫り、亡くなった恋人そっくりに彼女を仕立て上げようと執着するキャラクターを演じています。映画感想サイトで本作を評して「こんな男やだ。」という1行コメントを見つけて苦笑しましたが、ヒッチコックは観客をドラマに没入させるため感情移入がしやすい力量あるスター俳優を使う、という持論があり、『裏窓』や『知りすぎていた男』にしろ(『ロープ』はちょっと違いますが)そのためのスチュアートのキャスティングだったわけです。スチュアートとケーリー・グラントを比較してヒッチコックはグラントの持ち味(色男らしい飄逸さを指すのでしょう)に対してスチュアートの場合はエモーションが強調されるわけだ、とトリュフォーに説明していますが、本作のスチュアートは共感どころか立派な変態で、それも賛否両論の原因です。
 またヒッチコック映画はウォルシュやフォード、ホークスらハリウッド生粋の監督よりもかえって女性キャラクターを従属的に描いていることで当時すでに女性蔑視との批判があり、本作ではそれが特にむごい。キム・ノヴァクのヒロインにしてもどうしようもなく主体性のない女性ですし、スチュアートの元婚約者でいまだに親友を出ない関係が続いているオールドミスの女友達で世話女房的な女性下着デザイナーのミッジ(バーバラ・ベル・ゲデス)の描き方も揶揄的です。ノヴァクの二面性のあるキャラクターは作劇上必須なので仕方がないとしても、ゲデスの方は完全にコミック・リリーフであるばかりかスチュアートの無神経な残酷さを引き立てるためのキャラクターで、これでは女性蔑視的という意見にも一応耳を傾けなければならないでしょう。ヒッチコックは本作のノヴァクに不満で、ヴェラ・マイルズを起用するはずだったのに新婚で妊娠が判明して使えなかったと悔しがり、売り出し中だったノヴァクを推薦されて使ったが演技に口出しする女優で使いづらかっしミスキャストだったか映画も収支とんとん程度の成績だったとこぼしています。『私は告白する』のようにモンゴメリー・クリフトに譲歩するようにはしなかったようで、ノヴァクは現場でずいぶん苛められたようですが、マイルズも良い女優だったとしても本作のノヴァクは素晴らしく、ノヴァクと言えば『めまい』、『めまい』と言えばノヴァクというくらい一世一代の名演で輝かしい魅力を発散しています。ただし本作が凡ヒットだったのはあまりにカタルシスに欠ける異常性のためでしょう。『見知らぬ乗客』で絶頂期に入ったヒッチコックは1作ごとに従来の作品の集大成的な充実を示しますが、替え玉、瓜二つ、取り違える=間違えられるといった仕掛けはそれこそ『下宿人』から『間違えられた男』まで頻出するモチーフですし、高所からの落下恐怖の場面は『三十九夜』から『海外特派員』『逃走迷路』を通って数多く使われていて、本作ではついに主人公が高所恐怖症という設定で前面に押し出されます。本作を世界映画史ベスト10に上げた早い例に蓮實重彦氏選のベスト10リストがありますが(1985年、後註)、ベスト10内にヒッチコックの師のラングの『飾窓の女』'44があり、肖像画の女と恋に落ちる中年男の犯罪スリラーでした。またヒッチコックより1歳若いルイス・ブニュエルの狂っていく男を描いた傑作『エル』'52にはそのものずばり『めまい』の螺旋階段のショットを思わせる映像が多用されます。映画という媒体で人物の真偽が強力なテーマになるのはドラマの虚構性の本質として理にかなっていますし、平面的映像媒体でありながら段差・落下の恐怖というシチュエーションは観客に非常に大きなインパクトを与えます。その点ではヒッチコックの計算は最上のかたちで実現されています。ただし本作のスチュアートはいわばネクロフィリア(死者偏愛)の領域にまで突き進みます。しかも相手の女性の心情など踏みにじってでもです。そして墜落恐怖とはもちろん道徳的転落のアナロジーです。
 ですが『飾窓の女』『エル』『めまい』などで描かれる男のヒロインへの一方的な偏執的欲情、ヒロインの偽物性はいわゆる「映画ファン」(そんな集団的存在は仮構で、実際は一人一人の観客が存在するだけですが)と映画そのものとの関係のアナロジーでもあるわけです。映画ファンが観ている映画は実は実体は不確定で虚構の表象であり観客の脳裏でしか実体化せず、その意味では映画への愛着ほど死体愛に近い性質のものはないでしょう。本作の撮影は『見知らぬ乗客』以来の常連ロバート・バークス(『マーニー』'64まで『サイコ』'60を除く12作を担当)で、音楽は『ハリーの災難』以来のバーナード・ハーマン(『市民ケーン』'41で名を上げ、ヒッチコック作品は『マーニー』まで8作担当)ですが、あえてB/W作品の実録調を狙った前作『間違えられた男』は特殊な企画としてもその前のカラー作品『知りすぎていた男』と較べると、本作はオットー・プレミンジャー作品で知られたグラフィック・デザイナーのソール・バス(この後『北北西へ進路を取れ』『サイコ』の計3作を担当)のスマートなタイポグラフィー・アニメーションのタイトル・デザインをクレジット・ロールに使いながら、バークス撮影担当以降のヒッチコックのカラー作品の華麗さ、開放的な空気感がぐっと抑えられて、ハーマンの音楽も華やかというより焦燥感を掻き立てるようにべったりと使われています。サンフランシスコはハリウッドのすぐ隣で坂の多く車道の広大な地勢を生かしていますが、まるでヨーロッパの映画の中で描かれたサンフランシスコのように見えます。外国人映画監督が日本ロケした映画に感じる違和感に通じるもので、ヒッチコックもイギリス出身の外国人だったわけですが('52年にアメリカ国籍取得)、ハリウッド映画との同化は渡米第1作『レベッカ』から出来ていました。キム・ノヴァクの衣装がモスグリーンを基調としているのもありますが、全体の映像がロングの構図が多く、人物中心のいつものヒッチコック映画の構図より引き気味です。それが人物に移入するというより景色の中に茫漠とする感じなのも本作の離人症的ムードを高めており、それまで尾行するだけだったノヴァクと関係が生じるのがゴールデン・ゲート・ブリッジからのノヴァクの投身なのも象徴的で、溺死自殺する恋人、というのは『ハムレット』1601以来オフェリア(ハムレットの婚約者の名前)・コンプレックスとしてネクロフィリアの典型例のひとつでもあります。ヒッチコックの遺族がヒッチコック亡き後ヒッチコックの映画はエンタテインメントであってヒッチコックの嗜好や性癖を投影したものではない、と声明を発表したのは実際没後に暴露されたスキャンダルもありますが、『めまい』『サイコ』を筆頭とした異常性の強い作品が存在し精神分析学的解釈の好餌となりつつあったからで、しかし『めまい』や『サイコ』ほどの映画であればそれがどれほど倒錯的なものだとしてもそれゆえに価値が下がるということがあるでしょうか。ヒッチコック自身が『映画術』ではしきりに自分の映画のセクシュアルな面を露悪的に広言していたサーヴィス精神の持ち主です。本作はまたヒッチコックにとっての理想のヒロイン女優グレース・ケリーを失った心情の反映と解釈する説もあります。また、スチュアートがノヴァクと恋に落ちたとしてもあまりに偶然性に頼りすぎていないか(特に投身現場である教会への誘導、事件直後に現場検証があったらどうするつもりだったのか)などなどきりがありませんが、気づくのは観終えてからです。結末の急展開も賛否両論もっともでしょう。異常愛の陥穽を描いた映画としては『飾窓の女』(ラングなら同作と姉妹作の『スカーレット・ストリート(緋色の街)』'45を上とすることもできますが)、『エル』(ブニュエルなら翌年の傑作『嵐が丘』'53もあります)の方が完成度は上で、『めまい』にはヒッチコックらしからぬバランスの悪さがあちこちに見られます。だからこそ本作は『裏窓』を表とすればこちらを裏とすべき忘れがたい迷宮的記念碑となったのではないでしょうか。ともあれ、これほどミステリー作品としての核心に触れずに感想文を書くのに骨が折れた作品もありません。お勧めするとすれば、本作はヒッチコック作品中名作でありながらもっとも後味の悪く釈然としない映画です、不愉快を覚悟でご覧になれるかたにのみぜひともお勧めします、といったところです。

(註)
イギリス映画協会(British Film Institute)選・世界映画ベスト10
(「Sight & Sound」誌2012年8月号発表)
[ The Critics Votes]
1. Vertigo (Hitchcock, 1958)
2. Citizen Kane (Welles, 1941)
3. Tokyo Story (Ozu, 1953)
4. The Rules of the Game (Renoir, 1939)
5. Sunrise: A Song of Two Humans (Murnau, 1927)
6. 2001: A Space Odyssey (Kubrick, 1968)
7. The Searchers (Ford, 1956)
8. Man with a Movie Camera (Vertov, 1928)
9. The Passion of Joan of Arc (Dreyer, 1927)
10. 8 1/2 (Fellini, 1963)
[ The Directors Votes ]
1. Tokyo Story (Ozu, 1953)
2. 2001: A Space Odyssey (Kubrick, 1968)
2. Citizen Kane (Welles, 1941)
4. 8 1/2 (Fellini, 1963)
5. Taxi Driver (Scorsese, 1976)
6. Apocalypse Now (Coppola, 1979)
7. The Godfather (Coppola, 1972)
7. Vertigo (Hitchcock, 1958)
9. Mirror (Tarkovsky, 1974)
10. Bicycle Thieves (De Sica, 1948)

蓮實重彦選・世界映画史ベスト10
(勁文社『映画となると話はどこからでも始まる』1985年12月刊より)
ラルジャン』(ブレッソン、1982)
『捜索者』(フォード、1956)
『エル』(ブニュエル、1952)
『ヴァニナ・ヴァニーニ』(ロッセリーニ、1961)
『黄金の馬車』(ルノワール、1952)
『イワン雷帝』(エイゼンシュテイン、1944)
東京物語』(小津、1953)
飾窓の女』(ラング、1944)
『めまい』(ヒッチコック、1958)
西鶴一代女』(溝口、1953)