人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2018年1月16日・17日/アルフレッド・ヒッチコック(1899-1980)のほぼ全作品(22)

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 前作『泥棒成金』で書き落としていましたが、連続宝石盗難事件の真犯人探しに濡れ衣を着せられた主人公ケーリー・グラントの協力者になるのが宝石の保険会社の冴えない初老の社員(ジョン・ウィリアムズ、『ダイヤルMを廻せ!』の名警部役の人)なのも原作小説、または脚本家のアイディアでしょうがヒッチコック好みらしいユーモラスな趣向でした。『裏窓』で看護士のセルマ・リッタージェームズ・スチュアートが食事中にも構わずバラバラ殺人の話をするのもトーキー第1作『恐喝(ゆすり)』やイギリス時代絶好調の『第3逃亡者』、ハリウッド進出後の『疑惑の影』ときりがないヒッチコック好みのブラック・ユーモアで、ちなみに大ヒット作『裏窓』は『めまい』'58が興行的に奮わなかったため急遽『めまい』の併映作品(どちらもジェームズ・スチュアート主演作です)として早くもリヴァイヴァル上映される名誉を担い、また『サイコ』の大ヒットで単品リヴァイヴァル上映に選ばれたのは『泥棒成金』だったことでも『裏窓』『泥棒成金』の根強い人気のほどがわかります。そしてこの2作の大ヒットで気を良くしたヒッチコックがもっとも作りたかった映画を実現したのがまさに純粋ブラック・ユーモアの、善人だらけの犯罪コメディ映画『ハリーの災難』で世界的にまったくヒットせず、ならばとイギリス時代の傑作『暗殺者の家』'34を豪華絢爛にリメイクしたのがヒッチコック唯一のセルフ・リメイク作品『知りすぎていた男』でした。功成し遂げた巨匠の軌跡と言っても映画はしょせん芸能界、ヒッチコックといえども1作ごとにまだまだ曲折に富んでいるのです。なお、今回も『ヒッチコック/トリュフォー 映画術』(晶文社刊、山田宏一蓮實重彦訳)からの発言は例によって多少表現を変えて引用させていただきました。

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●1月16日(火)
『ハリーの災難』The Trouble with Harry (米パラマウント'56)*99min, Technicolor; 日本公開昭和年(1956年)2月8日、昭和59年(1984年)5月

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○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より) アルフレッド・ヒッチコックが「泥棒成金」に次いで製作・監督した、死体をめぐるスリラー喜劇。原作はアメリカの新進作家で異色題材を扱うことで知られているジャック・トレヴァー・ストーリー。脚色は「泥棒成金」のジョン・マイケル・ヘイス、撮影は「裏窓」のロバート・バークスと、いずれもヒッチコック作品ではお馴染みのスタッフの他、音楽はバーナード・ハーマンが担当している。なお歌曲"旗をふって列車をタスカルーサへ"はマック・デイヴィッド作詞、レイモンド・スコット作曲。主な出演者は、ブロードウェイの舞台でダンサーとしての才能をうたわれたシャーリー・マクレーンの抜擢をはじめ、「北京超特急」のエドモンド・グウェン、「ブラボー砦の脱出」のジョン・フォーサイス、「ダニー・ケイの黒いキツネ」のミルドレッド・ナットウィック、「セールスマンの死」のミルドレッド・ダンノックなど。
○あらすじ(同上) もみじの美しいヴァーモント州の森の中で不思議な事件がおこった。4つになった男の子アーニー・ロジャース(ジェリー・マシューズ)が森に遊びに行って、男の死体を見つけた。村の人々のなかにこの男を殺す動機を持っていると疑われるものがいた。死体はハリーという男だった。映画の主役はこのハリーの死体なのである。死体が発見された時、自称「もと船長」であったアルバート・ワイルスという初老の男(エドモンド・グウェン)は、兎を射っていて、あやまって殺人を犯したものと信じてしまった。ミス・グレヴリーという中年女(ミルドレッド・ナットウィック)は森の中でハリーに襲われ、ハイ・ヒールのかかとで頭をなぐりつけたので、それが死因であると思い込んでしまった。ジェニファー・ロジャー(シャーリー・マクレーン)という若く美しい後家も、疑われるだけの理由を持っていた。ジェニファーは死体を見つけたアーニー少年の母親で、ハリーはジェニファーの2度目の良人だった。アーニーの父親である最初の良人ロバートが死んだ時、ロッバートの兄のハリーが無理にジェニファーと結婚、ジェニファーはハリーに愛情がないことを知って、ヴァージニアの田舎に身を隠したのだが死体を発見した朝、ハリーが突然訪れてきて家に入り込もうとしたので、牛乳のビンでなぐりつけた。ハリーは眼がくらんで、ふらふらと森の中に姿をかくし、その後死体となって発見された。もう1人疑われる理由を持っていたのはサム・マロー(ジョン・フォーサイス)という青年画家だった。サムはジェニファーを愛していて、ジェニファーもサムに想いをよせていたので、名目だけの良人であるとはいえ、ハリーの存在が邪魔であるのは当然のことだった。こうして、4人のものがそれぞれの立場を考えて、夕方から朝にかけてハリーの死体を埋めたり掘り返したりした。ハリーの死体に気づかないのはぼんやり者の近眼の医者グリーンボウ(ドワイト・マーフィールド)だけだった。ワイルス船長ははじめに兎とまちがえて射殺したと思ったが、しとめた兎をアーニーが拾っていたことがわかって、自分に罪がないことを知ったし、ミス・グレイヴリーは死体を埋めることをたのんでからワイルス船長と親しくなり、かねてからひそかに想い合っていたことがわかると、晴れて夫婦になりたいと思い、それには埋めた死体を掘り出して正統防衛を主張した方がいいと考えた。サムはワイルス船長に話を持ちかけられて、死体を埋める手伝いをしたが、ジェニファーと結婚するとなると、ハリーが死んだことを明らかにしなければならないので、埋めた死体を掘り出さなければ都合が悪かった。そのうちに、ハリーの死体の靴を盗んだ浮浪者(バリー・マッカラム)がつかまって、シェリフの手伝いをしている雑貨屋の女主人ウィッグス夫人(ミルドレッド・ダンノック)の息子カルヴィン(ロイヤル・ダノ)が活躍をはじめた。ハリーの死体に共通の関心を抱いた4人は相談のあげく死体を森の中のもとの所へ置いて、改めてアーニーに見つけさせようと企てた。この企てはどんな結果になるか。

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 ヒッチコックはよほど本作の原作小説に惚れこんだ様子でこれほど作りたくて作った映画はない、と言います。興行的失敗も何の、映画初出演作になったシャーリー・マクレーンもスター女優になったし変人青年画家役のジョン・フォーサイスだって成功した俳優になったじゃないか、と本作に関しては一切自己批判はしていません。ヒットしなかったのは観客の好みとズレがあった、そのことくらいヒッチコックだってわかっているのですが、いつもならその辺が計算ミス、読み違いとして反省点になるところを、本作についてはこれこそが自分の好みなんだ、アンダーステートメント(抑制、控えめ)な感覚なんだと後輩のトリュフォーにとくとくと説いています。ヒッチコックは本作がヒットする要素に乏しいのを自認していて、初来日になった日本を含めて世界中を監督直々のプロモーション・ツアーで回っています。結果は世界中のどの国でもヒットしなかったのですが、かえってそれが盲点になって『ロープ』と2本立てでリヴァイヴァル公開されたり、また次作『知りすぎていた男』がヒットした時は第2次上映(延長公開)時に本作を2本立てにする、というくらいしつこく売り続けられたのがこの作品です。実際本作はたった1日の出来事で4人の男女が手を組んで1日に4回死体を埋めては掘り返す、とよくもまあ馬鹿な話を考えた人もいればそれを映画化しようと考え実現してしまった馬鹿もいる、とほとほと感心する他ない映画で、しかも配役順のビリングのトップはエドマンド・グウェンです。サイレント時代からのイギリス俳優でロングランのヒット劇『スキン・ゲーム(いかさま勝負)』の成金富豪役が当たり役となり、同作のサイレント版('20年)とヒッチコックによるリメイク版('31年)の両方で主演し、ヒッチコック映画には『ウィンナー・ワルツ』'33のヨハン・シュトラウスI世役、『海外特派員』'40の殺し屋役で出ています。『ハリーの災難』はテレビ放映でしか観たことがなかった作品でしたが、まさか主演格のじいさんがそんなにヒッチコックと因縁の深い人だとは今回全作品一気踏破で観てきて初めて知りました。しかし本来ヒッチコックの作風は控えめどころではないではないか、逆だろと突っ込みたいところですが、控えめと派手好きは表裏一体のようなものでそのさじ加減は極めて微妙ですし好みの次元に行き着くしかないでしょう。ヒッチコックの言うアンダーステートメントアメリカ流のソフィスティケーションに相当するものでしょうが、日本人の感覚ではイギリス流の抑制は皮肉で嫌みがあり、アメリカ流の洗練は傲慢で騒々しく感じられます。
 戦後になるとヒッチコック若い女はヒロインにしても若い男性俳優を主人公にしなくなった、と前回書きましたが(例外はあっても『サイコ』だったりと)、本作のフォーサイスは一応青年の部類です。しかしいかれた変人画家なのでやはりヒッチコック本流のサスペンス・スリラーの主役とはニュアンスはまるで違いますし、本作の登場人物は善男善女ばかりなのですが全員いかれているのも特徴で、乗りとしては吉本新喜劇ヒッチコック版みたいなものなのです。しかもカメラ・アングルを考えると地面に穴を掘った超ロー・アングル、手前にレールを設置して人物の出入りやパンやズームを計算したスムーズな長い移動ショットなど撮影に工夫を凝らし変化に富んだカット割りには尋常ならざる手間ひまがかかっており、ばっちり決まったカットの連続がかえって馬鹿馬鹿しいシチュエーションとのギャップに可笑しさを誘うといった具合でいったい何なのでしょう、これは。またキネマ旬報のあらすじでは時制を整理していますが、実際の映画の話法ではもっとややこしく、次々に登場人物たちが死体(と死因)に関係があったことが判明し、その都度埋めては掘り返すはめになり、手伝っていた画家のフォーサイスも死人の妻だったマクレーンと恋に落ちたことから何だおれも容疑者じゃないか、ということになる。まずエドマンド・グウェンが猟りの事故で容疑者、マクレーンが牛乳瓶で殴って追い返したことで容疑者、オールドミスのミルドレッド・ナットウィックが錯乱した男を靴のかかとで殴って容疑者、マクレーンの息子の少年が隠し持っていた兎から撃った回数でグウェンの容疑は晴れて女性たちは正当防衛だとしてもフォーサイスは容疑者、という具合で何度も埋めては掘り返すということになるのです。いよいよどこがアンダーステートメントなんだ、と思うくどくどしさですが、この鉄面皮なくどさを押し通すのがヒッチコックの洒落っ気ならばいつものヒッチコックと変わりはない、という安心感も感じます。しかしイギリス時代の舞台劇映画ならさておき、これほど特定の主役といえる主役のいないヒッチコック映画は久しぶりで、じいさん役のグウェンが一応視点人物ですが、グウェンのひとり芝居は映画の冒頭ではけっこう臭くて鼻につきます。観ているうちに慣れてきますが、じいさんが主役の映画は一般的にヒット性に乏しい要因以上に本作は15年遅れのスクリューボール・コメディという感じの古くささがあるのが受けなかった理由に思えなくもありません。
 そのうち画家が行きつけの雑貨屋に飾ってもらって売りに出していた絵が天才の作品と鑑定されて全部売れる、というエピソードを挟み、結局死体とその衣類をきれいに洗って元に戻すしかなかろう、という頃には夜になっていて、男2人と女2人の4人はすっかり仲良くなってカップル2組が誕生しているわけですが、死体の靴を盗んで持って行った浮浪者の証言から森に死体があったはずだと保安官から手配があり、しかもフォーサイスが雑貨屋に置いてあったスケッチブックに浮浪者の証言と一致する容貌の男の目をつぶった顔が描かれているのを雑貨屋の息子の保安官助手が発見して、証拠の靴とスケッチブックを持って4人が集まるマクレーンの家を訪ねてくる。こういう時に必ずポーカーしているふりをするのが映画の定石で、定石通りに律儀にポーカーしているのがもともとふざけた映画だけに余計おかしみを誘います。浴室には裸の死体、慌てて隠した部屋のあちこちには死体の着ていた半乾きの衣類、という状況です。ここでどうやって保安官助手をごまかし、ついでに証拠も隠滅するかがちょっとした見もので、実に鮮やかというかこれまた人を食った手段で事は運びます。そうしているうちに死因を特定してもらおう、と呼んでいた医者までやって来る。保安官助手を何とか追い払い、それから苦笑の洩れるオチがついてすべからずハッピーエンドになり、「……そしてハリーの災難は終わった」と字幕が出てエンドマーク、と申し分のない娯楽映画、むしろ芸術的とさえ言っていい完璧な別世界を作り出しているのですが、良くも悪くもヒッチコックの映画のおとぎ話めいた面が悪趣味なコメディに結実してとりつくしまもない感じもしてくる、これを面白いと思ってもヒッチコックに『ハリーの災難』のような映画をどんどん作ってほしいかというとこれ1作で十分という気がしてくるのです(短編映画ならまた少し事情が違いますが)。ヒッチコックフィルモグラフィーの中では、またはもっと寡作で他は水準作程度の映画監督なら目立つ、というタイプの作品でしょう。ただし紅い落ち葉の舞い散る舞台に大の字に絶命している死体、というイメージの鮮烈さはそれだけで本作を支えるだけの力を持っており、ヒッチコックが描きたかったのもそれに尽きるのは明らかなのが本作に本作なりの独自の価値を与えています。『ハリーの災難』はそれで十分、主演格の4人の俳優も好演(それと少年も)、これ以上何を望む必要があるでしょうか。

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●1月17日(水)
『知りすぎていた男』The Man Who Knew Too Much (米フィルワイト・プロ=パラマウント'56)*120min, Technicolor; 日本公開昭和31年(1956年)7月12日、昭和59年(1984年)2月/アカデミー賞歌曲賞受賞「ケセラセラ」(作詞レイ・エバンズ、作曲ジェイ・リビングストン)

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○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より) 英国時代にヒッチコックが作った「暗殺者の家」の再映画化で製作もヒッチコック自らがフィルワイト・プロダクションによって手がけた。原作はチャールズ・ベネットとP・B・ウィンダム・ルイス。脚色は「ハリーの災難」のジョン・マイケル・ヘイズとアンガス・マクフェイル、撮影監督は、「ハリーの災難」のロバート・バークス。音楽はバーナード・ハーマン。主演は「カービン銃第1号」のジェームズ・スチュアートと「情欲の悪魔」のドリス・デイ
○あらすじ(同上) アメリカの医者ベン・マッケナ(ジェームズ・スチュアート)はブロードウェイのミュージカル・スターだったジョー夫人(ドリス・デイ)と、7歳になる息子ハンク(クリストファー・オルスン)を連れて、パリでひらかれた医学会議に出席した後フランス領モロッコへ旅をした。カサブランカからマラケシュへ行く途中、バスの中でマッケナ夫妻がアラビア人の男に捕って困っているとき、ルイ・ベルナール(ダニエル・ジェラン)というフランス人の若い男に助けられる。マラケシュに着いた時、ベルナールをカクテル・パーティにさそう。ベルナールは後で一緒にアラビア料理店へ行くことを条件として招待に応じる。その夜マッケナ夫妻はホテルにベルナールを招く。数分後、ノックの音が聞こえて、ジョーがドアを開けると1人の男が廊下に立っていた。その男はベルナールの姿を見つけると、部屋をまちがえたと云って、あわてて帰って行く。突然ベルナールはベンとジョーをアラビア料理店に連れて行くことが出来なくなったと云い急いで部屋を出て行った。マッケナ夫妻が2人だけで食事に出かけるとイギリス人のドレイトン夫妻(バーナード・マイルス、ブレンダ・デ・バンジー)がジョーの姿を認めて話しかけてきた。翌日、ベンの一家はドレイトン夫妻と一緒にマラケシュの市場を見物に出かける。辺りがさわがしくなって、1人のアラビア人が何者かに殺される。アラビア人は息をひきとるまえにベンの耳に要人暗殺の秘密を告げた。しかも、アラビア人と思ったのは、ルイ・ベルナールの変装だった。マッケナ夫妻は証人として警察に連れて行かれた。ドレイトン夫人はハンクを連れてホテルに帰る。ベンに不思議な電話がかかる。ベルナールが最後に云った「アンブローズ・チャペル」という謎の言葉を話したらハンクを殺すという脅迫だった。ベンはハンクのことが気になるので、一緒にきたドレイトンを先にホテルに帰らせて様子を探らせることにする。マッケナ夫妻が釈放されて、ホテルに戻るとドレイトン夫妻はすでにモヌケのカラ。ベンとジョーは後を追ってロンドンに向かう。ロンドンに着くと、ブキャナン警視(ラルフ・トルーマン)が待っていて、ハンクの誘拐されたことを知っており、ベルナールは暗殺計画を知るためにマラケシュに派遣されたフランスのスパイだったと告げる。ベルナールの最後の言葉だけが謎をとく鍵であるとブキャナンは云ったが、ハンクの生命が危険にさらされるのをおそれて、ベンは謎の言葉を教えることを拒んだ。ベンは「アンブローズ・チャペル」という言葉をたよりに捜査を続け、それが人名ではなく教会であることを知る。ドレイトンはこの教会を預かっている牧師で、暗殺計画はこの礼拝堂を中心に画策されていた。ベンは教会の中に入りハンクを救い出そうとするが、ドレイトンに妨げられ、ハンクは大使館に連れて行かれた。暗殺はアルバート・ホールの音楽会で、ヨーロッパの某国の首相を倒すことだった。一方、ジョーは事情をブキャナンに知らせるためにアルバート・ホールへ赴いたが、音楽会に来ている筈なのに姿が見えなかった。狙われている首相の正面のボックスに暗殺者がいる。暗殺者はオーケストラに耳をすませて機会を待っていた。ベンが教会からかけつけてきた。暗殺はシンバルが鳴ると同時に行われる。リアンがピストルをかまえて狙う。ジョーは叫び声をあげ、ベンが暗殺者におどりかかる。暗殺者は逃げようとして、ボックスに落ちて死ぬ。ベンはハンクが大使館に監禁されていることをブキャナンに告げて、救助を頼むが、大使館は治外法権になっているので、捜索は不可能だった。ジョーは大使館のパーティにベンとともに招いて貰う。ジョーはパーティで得意の歌をうたい、ハンクに聞かせて口笛でこたえさせようとした。ベンはハンクの口笛をたよりに監禁されている部屋を探し出し、ドレイトンがハンクを連れ出そうとしているところに襲いかかる。ドレイトンは階段から足を踏み外して死ぬ。ベンとジョーはやっとハンクをとりもどし、悪魔のような事件から解放される。

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 映画が始まってまず思ったのは、あれっ、ジェームズ・スチュアートってこんな滑舌悪かったかなということでした。口の中によだれをためているようなむにゃむにゃした口調で、夫人役のドリス・デイがさすが本職はもともと歌手だけあって声の通りが良いだけになおさらスチュアートのむにゃむにゃ声が気になります。実はこれもDVDで完全版を観るのは初めてで、テレビ放映の吹き替え短縮版と16mm民生上映用プリント(当然スタンダード・サイズ)で観ただけで、確かなことは言えませんが2段構えのクライマックスのうちロイヤル・アルバート・ホールの暗殺阻止はほとんど切られていなかったようですが大使館パーティーでの息子救出はかなりはしょられていたようです。完全版は暗殺阻止の後30分近くもありますがテレビ放映版と16mm版はもっと短かったはずで、16mm版はテレビ用短縮版の原盤でもあるのか全編で20分あまり短く編集されていたようです。感想を言うと、本作は完全版はもちろん良いが短縮版はもっと良い。ついでにCMで15分おきに中断されるともっと良かったのではないかと思います。本作はヒッチコック作品でも比較的ゆったりした進行ですから映画館なら集中力が高まりこそすれ自宅視聴では少しもどかしく集中力が散漫になる箇所もある。所々摘まんでテンポを上げCMで刻んで気を持たせた方が展開を整理する余地ができサスペンスが高まる。テレビ放映の短縮とCMによる中断を嫌う人は多いですが映画館と自宅視聴の環境の差を考えればあながち短縮もCM中断も悪いばかりとは言えない。映像ソフト商品ならば完全版であるべきですがストリーミング視聴なら短縮も寸断も必然性があるでしょう。映画は数百~数千人の人手を経て作られるものですから、テレビ放映版も別ヴァージョンとしてあり得るヴァリエーションと思う方が楽しめます。
 本作はイギリス時代にサスペンス・スリラー映画監督としての本格的出発点となった出世作『暗殺者の家』'34のセルフ・リメイクです。自作をセルフ・リメイクしている映画監督はヒッチコックまでの世代には珍しくなく、多作家ほどその傾向にあります。ヒッチコックは『マンクスマン(マン島の人々)』'29、『スキン・ゲーム(いかさま勝負)』'31が他の監督のサイレント作品の再映画化で(というより原作自体が著名なのですが)、セルフ・リメイクも本作だけですからリメイク作の少ない監督と言えます。ヒッチコック自身が『暗殺者の家』と本作を「何かしら才能のあるアマチュアの撮った作品と確かな腕前のプロの映画監督の作品の差があるかな」と言った話は有名ですが(『映画術』)、本作の贅沢な仕上がりと低予算のイギリス映画界の水準で作られた(ロイヤル・アルバート・ホールの大観衆は予算上エキストラが雇いきれず絵の背景で済ませたそうです)『暗殺者~』を較べるとヒッチコックの大言壮語もそれなりの根拠はあるよな、『知りすぎていた男』が何しろ絶品だもんなと思っていたのですが、完全版120分を観て少し考えが変わりました。たぶん16mm短縮版、テレビ放映版は実質100分程度に短縮されていたと思いますが、100分に凝縮されていたら本作は文句なしに『暗殺者~』より上でしょう。ちなみに『暗殺者~』は75分の長さしかありません。しかし120分の完全版では短縮版こそ最後の息子救出は駆け足に編集されてあっけなかったとはいえ大使館のパーティーに30分かけているのはドリス・デイの見せ場のためとはいえ冗長で、また冒頭のモロッコマラケシュでダニエル・ジュランの諜報部員が殺されるまで30分というのは、『泥棒成金』同様観光映画的サーヴィスとはいえあんまりです。当時イギリスの批評家からはイギリス時代のヒッチコックは80分前後の長さで密度の濃い映画を作っていたのにハリウッドに渡って2時間の長さが当たり前の冗漫な監督になってしまった、と風当たりが強く、ハリウッドで成功したヒッチコックへのやっかみだとイギリスの批評家の島国根性の方が批判されていたのですが、『暗殺者~』と『知りすぎて~』を比較する限りサーヴィス過多の弊害が目につきます。マラケシュのレストランでソファがあまりに低いのでスチュアートが長い脚を持て余しドリス・デイと通路側の席に入れ替わったりするシーンに5分もかけているのはそれ自体は面白いシーンですが、万事そんな調子でだらだらと長い。100分だったらドラマにむすびついた遊びの余地しかないでしょうが、このレストランでスチュアートが食事に四苦八苦するシーンなども無駄に長く、スチュアートの性格描写やモロッコの世相風俗の案内にはなっているものの、そのため諜報部員が殺害されるまでに30分もかかっているのは本末転倒です。
 ドラマと結びついているエピソードかというのは諜報部員の遺言「アンブローズ・チャペル」の名前を電話帳で調べて訪ねてみると剥製屋で、息子を返せ金なら払うと騒ぎ立てるスチュアートがつまみ出される一方ドリス・デイが「アンブローズ教会」のことだ、と気づくシーンがカットバックされますが、つまり剥製屋の顛末はスチュアートの勘違いでこれを長々と描いてもシークエンスとしては面白いがドラマは足踏みしているだけです。これに相当するのは『暗殺者~』では歯医者のシークエンスですが、そちらでは歯科医は陰謀組織の一員でちょととした死闘が行われ、やってきた来客にレスリー・バンクスが歯科医になりすますとそこで組織の首領のピーター・ローレとの初対面になります。それから新興宗教の礼拝堂を訪ねるとこれまた陰謀組織の隠れ蓑だったのがわかる。イギリス時代はもちろんハリウッド進出後もヒッチコックは緊密なドラマ作りをしてきましたが、『裏窓』では成功し『泥棒成金』でエスカレートした遊びの盛りこみが『ハリーの災難』ではきっちり作ったのに題材的に当たらず、やっぱり遊びがあった方がいいかと『裏窓』『泥棒成金』の路線に戻ったつもりがメインのプロットはすごく面白くスリリングなのに今回は余計な寄り道がやたら多くなってしまった。観終えるとメイン・プロットのサスペンスがずば抜けているので枝葉の冗漫さは大目に見て忘れてしまいますが、観直してみるとこんなにだらだらしてたっけ、と冗長な遊びがやたら目につく。ドリス・デイの見せ場が多いのは本作の見所でデイはとても魅力的なのですが、スチュアートとデイは夫婦なのでヒロインの魅力の強調がロマンス的なドラマの発展になるわけではありません。グレース・ケリーをファッション・モデル女優だと散々なことを前回や前々回には書きましたが、作品の中ではケリーの美貌に主人公がくらくらする、というロマンス面でのドラマでケリーは役割を果たしていました。今回のドリス・デイの場合、元人気歌手でいまだに根強い人気があり、「ケ・セラ・セラ」が息子ハンク救出の鍵となる、というドラマを動かす存在ではありますが、映画の冒頭とクライマックスで2回に渡って「ケ・セラ・セラ」をフルコーラス聴かされる、というのは明らかにやりすぎで、もっと優れた演出なら半コーラスを暗示する程度で十分な効果を上げたでしょう。これが「確かな腕前のプロの映画」なら『暗殺者の家』のヒッチコックの方がよっぽど鋭い感覚があったことになります。20分も削って100分に短縮編集したヴァージョンで映画のエッセンスは足りているどころか悠然とした語り口まで伝えている。それが本作に対する16mm民生上映用プリントやテレビ放映用ヴァージョンの回答です。実際再編集ヴァージョンの方がヒットしてそれが一般的には普及した例は映画の名作史に限っても数限りなくあります。本作の場合はヒッチコックのネームヴァリューでオリジナル完全版が尊重されているに過ぎない、とは言いすぎですが、本作の良い所はみんな『暗殺者~』にあったシーンをアップグレードしただけで、足された箇所にはほとんど装飾的な取り柄しかない。『暗殺者~』ではスイスのスキー場から始まるのもドラマ上の必然とクライマックスへの意外性のある伏線がありました。モロッコから始めた段階でもう本作は『暗殺者~』の部分的な改良であっても作品全体は遊びが緩みにつながって『暗殺者~』のテンションにはおよばない、と観直すと痛感します。本作がリメイクでなく純然たる新作脚本ならばこれもヒッチコック黄金時代を飾る堂々とした傑作で通るだけに、リメイクゆえに贅肉が透けて見えるのは不利なことです。どちらも未見の方は『暗殺者~』より本作からご覧になり、その後で『暗殺者~』を観る方が楽しめます。何だか今回の2作はあまり積極的には推せず、単品で観れば『ハリー~』も『知りすぎて~』も極上なだけに批判的なニュアンスの感想文になって残念です。