人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2018年1月26日・27日/アルフレッド・ヒッチコック(1899-1980)のほぼ全作品(27)完

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 ついにヒッチコックの劇場用映画全監督作品も最終回で、'70年代の最晩年の2作『フレンジー』と『ファミリー・プロット』でヒッチコックの監督歴は締めくくられることになります。ヒッチコックはさらにスパイ・サスペンス小説『みじかい夜』(ロナルド・カークブライド原作)を映画化企画しましたが1977年に卒中の発作を起こして身体が不自由になり、脚本をアーネスト・レーマンに完成させてヒッチコック・プロダクションのノーマン・ロイドにロケハンさせもしましたが製作の実現の可能性は腎不全で車椅子生活に進んだヒッチコックの健康状態ではますます困難になっていきます。1979年にアメリカ映画協会の生涯功労賞を受賞した時のスピーチが最後の公共の席での晴れ舞台となり、1980年の新年にはイギリス王室からナイトの称号を授かってサー・アルフレッド・ヒッチコックとなりましたがヒッチコック・プロダクションの活動は閉じられ、4月29日にヒッチコックは亡くなります。享年80歳でした。73歳の年の作品『フレンジー』と77歳の年の作品『ファミリー・プロット』はヒッチコック最晩年の70歳台にこの2作があって本当に良かった、と思える作品です。1970年代の映画として若手監督にも負けない若々しい時代感覚で極上のサスペンス作品の冴えを見せ、『マーニー』'64までの黄金時代の作品とも冷戦スパイ映画の流行に流されて迷走した『引き裂かれたカーテン』'66、『トパーズ』'69の2作とも面目を一新した、新しいヒッチコックの境地が現れたのが『フレンジー』と『ファミリー・プロット』でした。キャリアの最晩年にこれほど見事なひと花を咲かせた監督も少なく、まだヒッチコックの映画を1本も観たことがない人がこの2作から観ても良いほどで、その意味ではヒッチコック永遠の新作と言っていい輝きがこの2作にはあります。これほど見事なハッピーエンドは他にあるでしょうか。なお、今回も『ヒッチコック/トリュフォー 映画術』(晶文社刊、山田宏一蓮實重彦訳)からの発言は例によって多少表現を変えて引用させていただきました。

●1月26日(木)
『フレンジー』Frenzy (米ユニヴァーサル'72)*116min, Technicolor; 日本公開昭和47年(1972年)7月22日/ゴールデングローブ賞作品賞(ドラマ部門)・監督賞・脚本賞・作曲賞ノミネート、カンヌ国際映画祭特別招待作品

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○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より) アルフレッド・ヒッチコック監督が、生まれ故郷のロンドンに帰ってつくったサスペンス編。製作・監督はアルフレッド・ヒッチコック。アーサー・ラ・バーンの原作をアンソニーシェーファーが脚色。撮影はギル・テイラー、音楽はロン・グッドウィン、編集はジョン・シンプソンが各々担当。出演はジョン・フィンチ、アレック・マッコーエン、バリー・フォスター、バーバラ・リー・ハント、アンナ・マッセイ、ヴィヴィアン・マーチャントなど。
○あらすじ(同上) ロンドンを流れるテムズ河岸に、首に縞柄のネクタイをまきつけた全裸の女の死体が打ちあげられた。その頃、リチャード・ブラニー(ジョン・フィンチ)は勤め先の酒場をクビになり、友人のラスク(バリー・フォスター)のところにやってきた。それから2年前に離婚したブレンダ(バーバラ・リー・ハント)の経営する結婚相談所にきて、自分の不遇を訴えた。翌日、ブレンダのオフィスにロビンソンという偽名を使ってラスクがやってきてブレンダを凌辱し、ネクタイで絞殺した。ラスクが帰って数分後、ブラニーが訪れたが、鍵がかかっていたため引き返そうとする姿をブレンダの秘書が目撃した。そのために彼は殺人犯として追われる身になった。ブラニーは酒場で一緒に働いていたバブス(アンナ・マッシー)を誘ってホテルに泊まったが、支配人に通報され危機一髪で脱出した。その途中、戦友のポーター(クライヴ・スウィフト)に会いパリ行きを持ちかけられ、翌日ビクトリア駅で落ちあうことにした。酒場をやめたバブスは、ラスクに自分の部屋があくから自由に使えと勧められ、彼女もラスクの手によってネクタイで絞殺された。彼は、バブスの死体をジャガイモ袋につめてトラックに投げ込んだが、殺す間際にネクタイピンをもぎとられたことを知り、発車したトラックに飛び乗った。かろうじてトラックを脱すると、開かれた袋からジャガイモが続々ころがり、深夜の路上にバブスの裸の死体が転がり落ちた。オックスフォード警部(アレック・マッコーウェン)は続々証拠固めを進め、ブラニーを追っていた。バブスが殺されたことを知り、戦友からも見はなされたブラニーは救いをラスクに求め、青果市場へやってくる。ラスクはブラニーを自分の部屋にかくまい、彼のバッグにバブスの服をつめ、警察に密告した。ブラニーの無罪は立証できず判決を受けるが、オックスフォード警部は、最後まで「覚えていろラスク」とわめき続けるブラニーを思いだし、何かしっくりこなかった。刑務所内で頭を打って病院に送られたブラニーは、ラスクに復讐するために病院を脱走。この頃ラスクを調べ、証拠をつかみ始めた警部は、ブラニーの脱走を聞きラスクのアパートに向かった。ブラニーは、ラスクのベッドを鉄棒でなぐりつけた。しかし毛布の下には全裸の女の死体があるだけだった。警部が部屋に足をふみ入れる。その時、死体をつめ込むために箱を持ってきたラスクが部屋に入ってくる……。これでようやくブラニーの無罪は立証されて、晴れて自由の身になった。

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 河川汚染の浄化を訴える市議会委員の街頭演説を取り巻く市民たち、といういかにも'70年代初頭らしい呑気な光景からざわめきが起こり、人々が川を見下ろすと首をネクタイで締められて全裸でうつぶせに流れてくる女の死体。まただ、またネクタイ殺人だと騒ぎ出す市民たち。このオープニングから今回のヒッチコックは冴えているなと嬉しくなります。カットが変わって鏡に向かってネクタイを結んでいる男が主演俳優のジョン・フィンチで、これまでヒッチコック映画に出てこなかった種類の安酒場のバーテン風情の男と思ったら本当に安酒場に出勤し、開店前に1杯あおっているところを前々から仲の悪かった店長にみとがめられてケンカし店を辞めてきてしまいます。ウェイトレスのバブスことバーバラ(アンナ・マッシー)に後で荷物をまとめておいてくれないか、と頼み、街に出て果物屋を開いている友人ラスク(バリー・フォスター)に店を辞めてきたぜ、と話に行き、別れた妻ブレンダ(バーバラ・リー・ハント)の経営する結婚相談所に寄って酒場を辞めた話をする。この時激昂して机を叩いたのを待合室の秘書が聞いていたのと、ハントが気を利かせてフィンチのコートのポケットに紙幣を入れておいたのが仇になります。金に気づかずフィンチは救世軍の宿泊所に泊まり、隣のベッドの老人に盗まれそうになって初めてハントがくれた金に気づく。翌日、マゾヒストの女を紹介してくれとしつこくハントの相談所に偽名で訪ねていた(ブレンダは元の夫の友人とは知らない)バリー・フォスターが秘書の外出中を狙って相談所にやってきて、お望みの女性は紹介できませんと断るハントに実はあんたが好みなんだとレイプを迫り、性的不能者のフォスターは興奮し錯乱してハントをネクタイで絞殺する。大きく目を開き舌を出したハントの死に顔。フィンチはハントのオフィスを訪ねてきたが鍵がかかって応答がないので帰る。外出中の秘書がフィンチを目撃し、フォスターの去ったオフィスに入って通りに悲鳴が響く。ここまでで映画の冒頭15分です。これが『マーニー』『引き裂かれたカーテン』『トパーズ』と調子を崩す一方だったヒッチコックとは思えません。ハントが殺されたとは知らないフィンチはアンナ・マッシーから荷物を受け取り、昨晩はひどい所に泊まってろくに眠れなかったとマッシーを誘って安ホテルに泊まる。その晩のうちにはネクタイ殺人の報道があり安ホテルの経営者夫婦は警察に通報、フィンチとマッシーは逃げ出した後でフィンチの払った前金の紙幣にハントの化粧品が付着していたのが秘書の目撃証言と合わせて容疑をほぼ確定してしまいます。
 以降、さらなるフォスターの犯行とフィンチの逃亡が並行して描かれていきますが、つまりこれは『下宿人』以来『間違われた男』を含んだ数多い冤罪ものに『恐喝(ゆすり)』『サボタージュ』『疑惑の影』『ロープ』『私は告白する』『ダイヤルMを廻せ!』『サイコ』『マーニー』と続いてきた犯罪者側の動きを追った作品系列を合わせたものですが、冤罪を着せられるフィンチにしても変態犯罪者のフォスターにしても、舞台背景となるロンドンの描き方にしても華やかなところがまるでない。俳優自身に魅力が欠けるのではなくうまい役者たちですが決してスター俳優でもなければ性格が悪く感じのよくない男を演じており、女優たちもおよそ美女とは言えないキャスティングで総じて俳優たちのほとんどが品のないキャラクターを与えられている。これに較べれば『サイコ』のアンソニー・パーキンズも『マーニー』のティッピ・ヘドレンもまだまだ優雅なキャラクターだったわけで、しがないロンドンの景気の悪そうな感じでは『サボタージュ』以来かもしれませんがオスカー・ホモルカシルヴィア・シドニーの夫婦だってこれほど下卑てはいませんでした。『舞台恐怖症』から20年ぶりにイギリスで撮影し、渡米以来もっとも低予算の200万ドルで製作されたのも『引き裂かれたカーテン』『トパーズ』で損失が大きかったのもあるでしょうが、ノー・スター映画という異例のキャスティングを含めて純粋に演出だけで勝負する覚悟で取り組んだのが本作なのでしょう。具体的には『サイコ』でやったことをさらに徹底してやる。『サイコ』では使ったスター俳優も今度は使わない。演技はうまいが美男美女ではなくギャラも安くてスターでない分役柄に気をつかわなくていい俳優を使う。こうして見てくると一見『下宿人』+『サイコ』の本作は結果的にヒッチコックの作品でこれまでになかったまったく新しいタイプの映画に見えてきます。となると確かに『サイコ』的な要素もありますが、題材や内容から『サイコ』の発展となっているというよりも『救命艇』や『ロープ』『ハリーの災難』『間違えられた男』で行った映画的な実験の延長に『サイコ』や『鳥』『マーニー』があり、それら実験的な作品の系列でもまだやっていなかったことが本作で初めてできる時代が到来したとも言えるのではないか。女性のヌードは『マーニー』のヒロインのフラッシュ・バックによる過去の解明でほんの一瞬出てきましたが、『映画術』には本当は錯乱したヒロインのセックス・シーンを使いたかった、とヒッチコック自身が述べています。1964年にはそれは描けなかったのですが、1972年には暴力的なレイプ未遂と絞殺シーンを堂々と描くことができた。作中でヌード、またはセミヌードの死体は4人出てきますが、冒頭の死体はまだ観客が犯人を知らない段階で出てくるので、バーバラ・リー・ハントが殺害されるシーンでようやく犯人像と死体を対応させながら観ることになる。次の殺害はフォスターが被害者を自室に連れ込むとカメラがトラック・バックしていき、階段を下りて建物の外に出て待機する、という具合にカメラの1カットの長い移動ショットで殺害が行われた時間経過を暗示します。この後、じゃがいも袋に詰め込んだ死体を夜になってゴミ捨て場に遺棄しに行き、被害者が自分のネクタイピンをもぎとったのに気づいて死体を暴きに行くと死体と一緒にゴミ処理場へと運ばれるトラックの荷台に乗る羽目に陥る。この被害者の殺害シーンは直接描かれていませんが殺害シーンはハントの殺害で描いたので、今度の殺害は死体から証拠を取り戻す方にサスペンスの重点を移しています。
 この死体が発見されるとともに犯人の工作によりフィンチが逮捕され、フィンチにとってはこれで真犯人が判明するのですが犯人の工作の方がものをいって終身刑が宣告される。真犯人はあいつだ、とフィンチが叫んで暴れても相手にされない。ここから後がスコットランド・ヤードのアレックス・マッコーウェンのオックスフォード警部の活躍になるのですが、護送中わざと怪我を負って入院先の警察病院から患者仲間の協力で脱走したフィンチと、真犯人を突き止めたマッコーウェンの警部と、トランクを抱えて戻ってきたフォスターがベッドにネクタイ絞殺されたヌードの女の死体が横たわるフォスターの部屋で鉢合わせするラスト・シーンのブラック・ユーモアは強烈です。ヒッチコックの映画のラスト・シーンは一筆書きのようなあっけない、くどい説明などせずあっさりポロッとした下げが多く、『めまい』の場合に賛否両論あったりもするのですが『裏窓』の無言の下げなどは満場一致で最高でしょう。本作はフィンチとフォスターが立ちすくむ間に立ったマッコーウェンの警部がフォスターを一瞥し「ネクタイしてないな」、そこで映画は終わってしまいますが、本作も「エログロ路線」とか「全盛期ほどでは」とか「年を感じる」とか余計な難癖をつける人もいるわけです。全盛期、というよりは'50年代とは意匠が異なるのは当然でしょう。旧来型のスター俳優中心企画の映画の時代ではなくなった、上流階級の豪奢な生活をきらびやかに描けば夢見る観客を惹きつけられる時代ではなくなった、グレース・ケリーの復帰作を撮りたいヒッチコックではなくなった、年を取って撮りたい映画だけを作るのに躊躇がなくなったというだけです。また、フランソワ・トリュフォーの指摘する通り冤罪を着せられた男が無実を証明する過程で出会ったヒロインとの間にロマンスが生まれるという作品でもありません(そういう先例は『間違えられた男』くらいですが、あれは実話映画という建て前がありました)。照れもあるのかヒッチコックは『映画術』では恋愛の話になるとすぐにセックスの方に持っていく(例外はアルマ夫人だけで、ヒッチコックは生涯「尻に敷かれた亭主」のセルフ・イメージを大事にしたかったようで、これはマゾヒスト的支配欲の特徴でもあります)のですが、ヒッチコックの映画に稀薄なものがあるとすればまさにロマンス要素がそれで、男女の間に恋愛感情があるというのが表現できずエロティシズムだけしか描けない、つまり恋愛イコール性という考え方しかできない様子がある。カトリック育ちの禁欲的感覚に由来するものかもしれませんがカトリックでもラテン国家のイタリアやフランスがそういう文化的傾向とは思えず、プロテスタントカトリックが混在するイギリスとアイルランドの特殊事情かもしれませんが、本作の犯人像の女性憎悪などはレイプしたい→インポテンツ→絞殺する、とまるでヒッチコックの映画作りの暗喩そのもので、ヒッチコックに限らず映画製作すべてのメタファーとしてもいいくらいです。『フレンジー』が『鳥』以来の傑作になったのはテーマうんぬんを超えてひさしぶりに冴えた演出が映画全体を引き締めているからですが作りたくて作った映画であることがありありと感じられるのが何よりやる気を感じさせ、陰惨で残虐なのに暗くない不思議な映画を作り出しています。ご覧のかたによっては殺人シーンは不愉快に感じられるかもしれませんが、ヒッチコックには調子のいかれたユーモア感覚があって悪ふざけが露骨に出たのがこの作品の乗りの良さを生んでもいれば、いつもより観客の不快を顧慮しない遠慮のなさにもなっています。そしてそれが、映画製作のメタファーそのものの犯罪と犯人像を描いたものになったのは偶然ではないでしょう。

●1月27日(金)
『ファミリー・プロット』Family Plot (米ユニヴァーサル'76)*120min, Technicolor; 日本公開昭和51年(1976年)7月28日

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○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より) 監督生活50年を迎えるアルフレッド・ヒッチコック監督の53作目の作品で、手数料目当てに資産家の遺産相続人を捜す若い男女と、ダイヤモンドを狙う誘拐犯の男女、の2組が織りなすサスペンス映画。監督は「フレンジー」のアルフレッド・ヒッチコック、脚本はアーネスト・リーマン、原作はビクター・カニング、撮影はレナード・J・サウス、美術はヘンリー・バムステッド、音楽はジョン・ウィリアムス、衣裳デザインはイーディス・ヘッド、編集はJ・テリー・ウィリアムスがそれぞれ担当。出演はカレン・ブラック、ブルース・ダーン、バーバラ・ハリス、ウィリアム・ディベイン、エド・ローター、キャスリーン・ネスビット、キャサリン・ヘルモンドなど。
○あらすじ(同上) アメリカのある大都市の高級住宅地。ジュリア・レインバード(キャスリーン・ネスビット)という金持の老嬢の邸に、降霊術師ブランチ・タイラー(バーバラ・ハリス)が呼ばれた。ジュリア・レインバードは、40年前、彼女の妹のハリエットが生んだ父なし子の男児を、見知らぬ他人のもとへやってしまった。だが、ハリエットが死に、血のつながった身内が、この甥1人になってしまった現在、何とかしてこの甥を探し出し、自分の財産を譲ってやりたいと思い、ブランチに甥を見つけ出してほしい、と依頼したのだった。レインバート邸を辞したブランチをタクシーが待ちうけていた。その運転手ジョージ・ラムレイ(ブルース・ダーン)は、ブランチの情夫であり、しかも、彼女の霊のお告げというのは、すべてジョージが探偵もどきにかき集めた情報で、ブランチはその情報を神がかり的演技で言っているにすぎないのであった。2人を乗せた車が、危うく若い女を轢きかけた。この女、フラン(カレン・ブラック)は、警察のパイロット養成所に入り、1粒のダイヤモンドを受け取ると、警察に準備させたヘリコプターに乗って、とあるゴルフ場に着陸させた。ここで彼女を待っていたのはアーサー・アダムソン(ウィリアム・ディヴェイン)で、ダイヤが本物であることを確認すると、車で逃亡した。この2人、実は億万長者を誘拐し、その身代金としてダイヤを受け取ったのだった。市内の隠れ家に戻って来た2人は、ダイヤをクリスタルのシャンデリアの中に隠した。一方、ジョージは、ジュリア・レインバードの甥を養子にしたという夫婦の消息を追って、バーロー・クリークという田舎町にやって来た。だが夫婦子供とも既に死んでおり、確かに墓まで建てられていた。しかし、息子エドワードの墓石が新しいことに気づいたジョージは、墓石屋からジョージの墓の下には何も埋まっていないことを聞き出し、さらに役場にリチャードの死亡証明書を申請したマロニー(エド・ローター)といううらぶれたガソリン・スタンドの経営者に目をつけた。そのマロニーが、色々と嗅ぎまわっているジョージのことを報告した相手は、表向きは宝石店を経営しているアダムソンだった。その頃、ジョージとブランチは子供に洗礼を授けた司教に会うべく教会に行った。ところが、突然飛び出したフランとアダムソンが、大勢の信者の目前で司教を誘拐してしまった。そしてアダムソンは、マロニーにブチンチとジョージを殺すように命令した。マロニーは2人を郊外のドライブインへ誘い、隙を見て車のブレーキに細工を加えた。急な山道でブレーキのきかない車に乗って危機一髪の目にあったブランチとジョージだったが、車ごと崖から墜落したのはマロニー自身だった。ついにブランチは遺産相続人がアダムソンであることを調べ、彼の家を訪ねた。アダムソンはそこで初めて、ブランチとジョージが自分を捜し求めていた理由が、自分にとって不利な事どころか大金がころがり込んでくる話であるのを知ったのだが、丁度、車に積んでいた牧師をブランチに見られてしまい、やむなく彼女を捕まえて監禁した。一方、ジョージもブランチの伝言によってアダムソンの家を訪ね、戻らないブランチを不審に思って家に忍び込んだ。そして、ブランチを助け出すとともに、人質の牧師と交換してダイヤを受け取り、意気揚々として戻ってきたフランとアダムソンを掴まえたのだった。

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 ヒロイン(バーバラ・ハリス)が偽霊媒師なので、のっけから水晶玉が出てきます。『エクソシスト』'73から『オーメン』'76までのオカルト・ホラー映画のブームは凄まじいものがあり、ヒッチコックは当然それをからかっているわけです。この偽霊媒師は売れない俳優でタクシー運転手をしている恋人(ブルース・ダーン、売れない俳優やミュージシャンが生活のためにタクシー運転手というのはよくある話です)に情報収集させて霊媒稼業で日銭を稼いでいるので、二人の夕食は自家製のハンバーガーです。『裏窓』でグレース・ケリージェームズ・スチュワートのために一流ホテルからウェイターごとディナー・コースをアパートの部屋にケータリングしていたのを連想して感慨深くなること受けあいの夕食シーンで、亡き妹の弔いに40年前に里子に出して消息不明の妹が生んだ私生児を相続人にしたいので行方を知りたい、という大富豪の老嬢の依頼を受けて偽霊媒師とタクシー運転手は行方不明の40男を探し始めるのですが、一方この小悪党の詐欺師カップルに対して大泥棒のカップルがおり、宝石商のウィリアム・ディヴェインは愛人のカレン・ブラックを使って要人連続誘拐犯事件を仕掛け、身の代金代わりに巨額のダイヤモンドを頂戴する、という寸法です。ちなみにキャストのビリングはカレン・ブラック、ブルース・ダーン、バーバラ・ハリス、ウィリアム・ディヴェインの順ですがこれは知名度優先のビリングなので、ポスター類でも金髪のかつらをつけサングラスをかけた変装時のカレン・ブラックが主役のようにあしらわれていますが映画はディヴェイン=ブラック組の動向とカットバックで描かれはするものの、明らかにブルース・ダーンとバーバラ・ハリスのカップルの奮闘に観客を感情移入させてダーン=ハリスの視点から観て成り行きにはらはらする仕組みになっています。ハリスは本作出演時38歳という驚きの事実がありますが、具体的な年齢不詳、若く、ただし見た目よりは年なはずの無邪気で子供っぽいヒロインという印象とはいえ38歳と言い当てられる人はいないでしょう。ダーンは『マーニー』の回想シーンに重要な端役で出ていましたがあれは別にダーンじゃなくてもいい役だったものの本作のダーンはハリス、ディヴェインとともにはまり役で、虚弱な感じではないのですが着ても脱いでも痩せていて、痩せているのに胸毛はたっぷりあるのが妙におかしい。ちなみにヒッチコック映画最多主演男性俳優はケーリー・グラントジェームズ・スチュアートですが、二人ともなかなか立派な身体つきなのにスチュアートには胸毛がなくグラントには胸毛ありなのが何だかおかしな対照をなしています。話が逸れましたが、宝石泥棒のディヴェインが実は養家に放火して里親を殺し自分も死んだとなりすましている、他ならないダーンとハリスが探している大富豪の甥なのは割と早い段階で判明します。ところがディヴェインには悪友のマロニー(エド・ローター)と共謀して出身を抹殺した過去があり、これを暴かれるとディヴェインもローターもまずい。それを暴いてゆするのが目当て、または宝石泥棒の方を探りにダーンとハリスがやってきたと思っているディヴェインとローターは簡単にダーンたちの身元をつきとめ、口封じに殺しにかかってきます。
 映画が進行するにつれダーンとハリスはディヴェインが探している甥と確信し、どうやらやばい事情で他人になりすましているみたいだがディヴェインを大富豪老嬢に引き合わせなければ報償金1万ドルはもらえないので、訳ありでも何でもいいからさっさとディヴェインをつかまえたい。その間にもディヴェインとブラックは要人誘拐と身の代金代わりのダイヤモンド集めにせっせといそしんでおり、ダーンとハリスの抹殺に失敗してなおも彼らが追ってくるのは自分とブラックとの犯行を暴くためとしか思えない、とすれちがいが続きます。ディヴェインとブラックがクールでエレガントなのに較べてダーンとハリスの様子を探りに行けば、アパートの前で「最近さっぱりじゃないのよ!」「ステーキも毎晩じゃ飽きるんだよ」とわめいているという調子で、「あれはどういうこと?」とブラックが訊けば、ディヴェインが「欲求不満な女がセックスをせがんで男が閉口している会話だ」と鼻白んだ口調で解説する。ダーン=ハリスとディヴェイン=ブラックはそれほど違う世界の住人なので、ディヴェイン=ブラックの食事の描写はありませんが監禁した人質の要人の食事にフランス料理と年代物のワインを出すセンスの悪党ですからハンバーガーが常食のどたばた喜劇の下町素人探偵とアルセーヌ・ルパンの世界の住人ほどの違いがあります。エド・ローターに殺されかかる山道のカーチェイス場面などは完全にどたばた喜劇で、助手席のハリスが360度ひっくり返えって足をバタバタさせるなどまるっきりサイレント喜劇の乗りですがヒッチコックがここまで馬鹿馬鹿しい喜劇演出を平気でやってのけたのは初めてで、それもクールな悪党カップルのディヴェイン=ブラックとの対比という必然があってのことですから本作では浮いていない。ヒッチコックは『めまい』で病的なムードを漂わせた後『サイコ』からは残虐行為とグロテスク描写が始まり、それが傑作『フレンジー』ではいかれたブラック・ユーモアまで高まっていたのですが、本作では残虐とグロテスク趣味がなくなり軽快で適度に俗っぽい洗練されたコメディ・ミステリーになっている。この作風もこれまであったようでなかったもので、悪党カップルはエレガントですがヒッチコック映画ではエレガントなのは主人公たちの役割でした。お洒落なヒゲに魅惑的な低音でエレガントにしゃべるディヴェインにしても金髪のかつらを脱ぐとブルネット美女のクールなブラックにしてもヒッチコックもノリノリなら俳優たちもノリノリで、ヒッチコックの持論はずっと「俳優は家畜のように扱え」だったはずですが『フレンジー』と本作では明らかに若い世代の俳優たちが映画を若々しくしてくれるのを歓迎しています。ヒッチコックは俳優の自発性が映画を良くするなど考えたこともない監督で「指示した通りに動く」俳優を良しとしていた人ですから、『フレンジー』でも本作でも基本的な演出態度は変わらなかったと思われます。『サイコ』『鳥』まではそれで成功し、『マーニー』ではそれが微妙な結果を招いた。続く『引き裂かれたカーテン』ではポール・ニューマンジュリー・アンドリュースを生かせず、国際オールスター・キャストの『トパーズ』では支離滅裂なことになってしまった。ところが低予算の無名キャスト作品『フレンジー』ではヒッチコックの演出通り演技する俳優たちが無色のはずなのに面白いように存在感があり、映画がみるみるうちに若返っていく手応えを感じた。美男美女が登場しそれらしく振る舞う映画でなくても面白い映画はできる、そうなると残虐シーンもグロテスクな映像も必要ない。主人公カップルが下品で貧乏、悪党カップルがエレガントで金持ちでもいいじゃないか、という発想にちょうど当てはまる原作小説も見つけた、B級映画の脇役俳優にもいい人材がいる。むしろそういう俳優を使った方が映画に若い感覚が出るんじゃないか。
 と、監督生活50年の直感が一瞬にしてひらめいたのでしょう。正確には『引き裂かれたカーテン』『トパーズ』『フレンジー』と作ってきた最近10年の実績がヒッチコックを自然に導いた結果が『ファミリー・プロット』で、カー・チェイス場面のように編集までB班監督に任せたような雑なシーンもあればブルネットの美女がかつらをかぶってブロンド美女に化けるヒッチコック好みの趣味もあり、鮮やかなカット割りも流麗な長回しもありますが『フレンジー』よりもさらに衒いがない。雑なシーンは雑ならばこその楽しさがあり念の入った撮影でも観客が技法よりサスペンスに集中できるよう技術の気配を消してある。主要人物の少なさでは『マーニー』よりは多いもののショーン・コネリーのような圧倒的な存在感の主演俳優がいるわけではなくいんちき霊媒師の女とタクシー運転手の男のカップルが紳士怪盗気取りの悪党とその助手の美女をとっちめる話です。ヒッチコックはぎりぎり晩年まで次回作のプリプロダクションを進めていましたから遺作のつもりは毛頭なかったでしょうが、コミカルだけれど陰惨な『フレンジー』の次が『ファミリー・プロット』になったのは殺人ものやスパイものはさんざんやってきたからあと何作撮れるかはともかく最後くらいは軽いもので終わりたい、たとえばこんな、というつもりで作ったのがこれだったように思えてならず、もしシナリオの準備稿とロケハンまで進めていた次作『みじかい夜』が『ファミリー・プロット』より往年のヒッチコックに近い濃密な内容になったとしても、いざとなったら軽く済ませる引退作の見本にこれを作っておきたかったヒッチコックの慈しみのようなものが『ファミリー・プロット』を暖かい映画にしています。ヒッチコックほどの監督のキャリアでも『シャンパーニュ』'28から『ウィンナー・ワルツ』'33の時期、『白い恐怖』'45から『舞台恐怖症』'50の時期、『マーニー』'64からの3作といった具合に安定感を欠いて次作に期待を持てなくなるような作品を作っていた不調な時期もたびたびありました。それを言えば製作ペースが3年あまり空くようになった『引き裂かれたカーテン』以降の時期も『フレンジー』『ファミリー・プロット』の2作で好転こそすれ挽回したとは言えず、『ファミリー・プロット』の翌年病に倒れ車椅子生活に進行していった健康状態の悪化は結果的には次回作の実現を不可能にしました。半分は悪ふざけの好きなじいさんがシャレで作ったようなサスペンス・コメディが『ファミリー・プロット』だったのかもしれません。こんな冗談みたいなものがおれの遺作かよ、とでも言うような。こんなの死にぞこないのじいさんだって作れるぜ、というような。しかしそのじいさんがヒッチコックであればこれほど見事な映画、数々のきらびやかな名作を押さえても永遠の最新作であるような逸品ができるのです。溝口健二(1898-1956)はまだ初老と言っていい年齢で亡くなりましたが、溝口の遺作『赤線地帯』'56もそんな映画でした。ヒッチコックが影響関係をとぼけ続けたフリッツ・ラング(1890-1976)の引退作『怪人マブゼ博士』'60やヒッチコックのスペイン生まれの異母兄弟と言えるルイス・ブニュエル(1900-1983)の遺作『欲望のあいまいな対象』'77もそうですし、ヒッチコック永遠の舎弟フランソワ・トリュフォー(1932-1984)の遺作『日曜日が待ち遠しい!』'83もそうです。ヒッチコックの他のどの傑作と較べても『ファミリー・プロット』は新しい。もし次作『みじかい夜』が撮れたとしてもこれほど新しくはなかったかもしれないのです。