人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2018年2月8日・9日/日本の昭和10~20年代時代劇(2)

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 今回の2本は困りました。好き嫌いなく映画なら何でもありがたく観る心がけですし、面白い日本の時代劇映画もけっこう楽しんできましたが、どうも英雄豪傑の活躍、それも歴史上実在の著名人を主人公にしたものや、誰もが知っている史実ものは苦手です。単純に戦国武将ものや仇討ちものにまったく基礎教養もなければ関心も薄いので、今回観た織田信長映画も荒木又右衛門の仇討ち映画も人間関係や個々のキャラクターについてあまりに簡略で説明せずともどうせ観客周知のことだからと言わずと知れた調子で映画が進むので、荒木又右衛門など全然知らないし織田信長の映画で斎藤道三なる人物が出てきてもその人物像や信長との関係を知らないので『織田信長』も『伊賀の水月』も観ていてよくわからない、ちんぷんかんぷんなシーンの連続でした。キリスト教と無縁な人が聖書物語映画を観るよりもハードルが高かったかもしれません。日本史上の人物でも文人や学者の伝記的逸話ならばまだわかるのですが、英雄豪傑お侍とくるとまるで関心がないのではこういう場合せっかく面白そうな映画でも鑑賞の妨げになります。今回の2本は戦時中に作られてヒットし、戦後にも改題再編集の上新作並みにロードショー公開されて優良な興行成績を上げたと伝えられる人気作品です。しかしどちらも英雄豪傑の活躍を描いた映画でちっとも面白くありませんでした。画面構成にも見所が多く、信長なり荒木なり名前を聞けばすぐにイメージが浮かぶ人ならどんなにか楽しめる映画なのだろうと思うと自分の無教養がもどかしいばかりですが、面白くなかったなりにまた観る機会のためにも感想文を残しておきたいと思います。

●2月8日(木)
マキノ正博織田信長』(日活京都撮影所'40/11/14, '54/10/19)*90min(改題『風雲児信長』'54年版、オリジナル104分), B/W

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○監督・マキノ正博/原作・鷲尾雨行/脚色・観音寺光太/撮影・石本秀雄/編集・宮本信夫/音楽・高橋半
○出演・片岡千恵蔵(織田信長)、高木永二(斎藤道三)、宮城千賀子(濃姫)、河部五郎(織田造酒之丞)、香川良介(織田信秀)、志村喬(平手政秀)、瀬川路三郎(小牧源太)、市川正二郎(織田信行)、上田吉二郎(柴田権六)、宗春太郎(松平竹千代)、小川隆(木田内記)、遠山満(織田勝左衛門)、常盤操子(末森の方)、衣笠淳子(岩室の方)、滝沢静子(各務野)、小松美登里(政秀の妻)、比良多恵子(矢羽根の方)、内田博子(野分の方)
○あらすじ(DVDパッケージより) 領民から「うつけ」と馬鹿にされていた少年時代から斎藤道三(高木永二)の娘・濃姫(宮城千賀子)の嫁取り、幽閉中の松平竹千代(宗春太郎)との交流を経て竹千代を今川へ引き渡し、桶狭間の戦いまでの織田信長(片岡千恵蔵)の青春時代を描く。

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 マキノ正博(雅弘、1908-1993)は監督デビューが'26年、弱冠18歳という異例の人で、それは牧野プロ総帥牧野省三(1878-1929)の長男として牧野プロの後継者となるべく抜擢されたからですが、'26年監督デビュー、最後の監督作が'72年というとハワード・ホークス(1896-1977)やアルフレッド・ヒッチコック(1899-1980)とほとんど重なるキャリアを持つ日本の映画監督になります。しかしホークスの監督作が総数47作、ヒッチコックが53作に対してマキノの261作というのは驚異的な本数で、ラオール・ウォルシュ(1887-1980)はどうだったかというと監督デビュー'11年~引退作'64年までに138作ですから、長編第1作が'16年なのを顧慮してもマキノの半数強でしかない。一方マキノ御尊父の省三は'08年~'29年までに320本以上を数えるそうですし、D. W. グリフィス(1875-1948)が監督デビュー'09年~引退作'31年までに総数約520作、うち'12年までの短編映画時代だけで450本以上になるといいますし、(長編映画の総数は27作です)、『硫黄島の砂』'49や『私刑(リンチ)される女』'53で知られるアラン・ドワン(1885-1981)も監督デビュー'11年~引退作'61年とウォルシュと同期生ながら監督作総数約430作、うちサイレント時代だけで360作という監督ですからサイレント、しかも短編映画を多く手がけた時代の監督の業績は計り知れない規模であり、あ然とするしかありません。チャールズ・チャップリン(1889-1977)のように早く大スター俳優兼監督になった異例の存在でこそ'14年映画デビュー、同年短編13作目で監督昇進~引退作'67年まで監督作総数68作、うち'23年までは中短編57作と長編1作、長編専念になってからの'23年~'67年には10作と悠然としたペースで製作できたので、成長期の映画産業は量産体制の方が当たり前だったのが日米では共通した事情だったようです。マキノ正博の場合も本作『織田信長』'40は監督デビュー15年目でほぼ110作目、戦後に『風雲児信長』と改題再編集され再公開された時は最新作『次郎長三国志第9部・荒神山』'54が約180作目ですから同時代の映画観客ですら全貌を把握できないすごい人だったので、マキノより2歳年下の黒澤明(1910-1998)が監督デビュー'43年、'54年の『七人の侍』は14作目、遺作『まあだだよ』'93が第30作なのは日本でもチャップリン型の監督が現れた例で、大島渚(1932-2013)になると監督デビューの'59年~遺作『御法度』'99までに全23作、うち'60年代いっぱいで15作ですから日本映画の製作状況の衰退を説明するにせよマキノ正博から四半世紀足らずでこうなったとは同じ国の出来事とは思えず海外の映画研究者には理解が難しいのではないでしょうか。もっとも日本、中国、インドなどアジア圏の映画大国だった国などはアメリカ同様世界的には例外で、北欧・東欧諸国ではサイレント時代から現代を通して年間の新作映画本数20~30本台、ヨーロッパ諸国でも内陸の輸出国ドイツや国内映画への執着が強いイタリア、フランスなどは例外的な映画国で、南米諸国でも映画産業の発展はブラジル、メキシコなどの大国に限られるようですから全盛期の製作本数とは比較にならなくても日本などは現在でもまだまだ映画国のうちに入り、むしろ分相応な程度に落ち着いた(それでもまだ映画大国だった頃の夢から本当にきっぱりと醒めきってはいないようですが)と見るべきかもしれません。全然『織田信長』というか戦後公開版『風雲児信長』の感想になっていませんが、これってどんな映画なのかなと思いめぐらせるとどうしてもそうした過去の日本映画事情が浮かんできます。
 どちらも無数の作品のうち大した本数を観ていない監督ながらマキノ正博の映画を観るといつも連想するのは『砂塵』'39や『殴り込み一家』'40の監督、ジョージ・マーシャル(1891-1975)で、マーシャルの名前にピンとこない人でも『西部開拓史』'62を共同監督した、と言えば「ジョン・フォードヘンリー・ハサウェイ、あと一人誰だっけ?」の答えがジョージ・マーシャルで、'15年~'75年まで60年の監督歴(劇場用長編は'69年まで、以後没年までテレビ作品を監督)に186作と本数までなかなかマキノに迫る映画監督ですが、マーシャルの映画(ほとんど西部劇)はいつもどこかしらとぼけているというか、ジョン・フォードの『駅馬車』'39と同年の代表作『砂塵』(のちマーシャル自身により『野郎!拳銃で来い』'54にセルフ・リメイク)に続く翌'40年の『殴り込み一家』は『駅馬車』のアクション監督でスタントマンのヤキマ・カヌートを起用しながらもカメラワークがいまいちでどこかふんどしがゆるいというか、75歳になっても作っているのはボブ・ホープ主演のコメディ『おフロの女王さま』'66、『一家8人逃亡す』'66だったりとか孤高の風格があるとしか言えない映画監督ですが、前書きでさんざんわからない、つまらなかったとこぼしておいて何ですが片岡千恵蔵主演作『織田信長』とジェームズ・スチュワートマレーネ・ディートリッヒ主演作『砂塵』、ランドルフ・スコット主演作『殴り込み一家』を前後した年の作品と考えると千恵蔵のキャラクターの生かし方の工夫にマーシャルと似たユーモアのセンスを感じて決してありふれた織田信長映画になっていないことがわかる。マーシャル作品のブライアン・ドンレヴィの食えないキャラクターは斎藤道三を演じる高木永二のようですし、志村喬が演じる平手政秀はマーシャル作品やフランク・キャプラ作品に出てくるミシャ・オウアみたいに人を食っています。日中戦争真っ最中、翌年には太平洋戦争に突入という時期に織田信長を暴れん坊キャラクターに軽薄一歩手前に描き、鵜飼いの情景の美しいロケや宮城千賀子演じる、良い意味で女優らしくない自然な瑞々しい存在感のある濃姫とのロマンスもきっちり描く。ただし留保すべきかもしれないのはこの'54年版の『風雲児信長』はオリジナル『織田信長』の104分に対して90分の短縮編集版で、サイレント作品ではないから映写速度の誤差はないはずなので正味14分はオリジナルから削られており、斎藤道三、平手政秀、濃姫ら主要キャラクターですら十分に信長との関わりが描かれていない印象があります。観ている最中はそこが隔靴掻痒で誰もが知っている織田信長伝だから周辺人物の描写を端折ったのかな、と思いましたがこうしてみるとキャラクターごとに印象は残っているのだから必要な設定説明まで最初から省いていたとは考えにくい。オリジナル『織田信長』では戦時色が軍人政治家織田信長と周辺人物との関係を描く上で反映されていて、そうした台詞を含む場面は戦後公開版『風雲児信長』ではカットせざるを得なかったので人物の関係がわかりづらい映画になってしまったのかもしれません。どちらがマキノの本意にかなったとは計りがたいことで、戦時中に当時の言論統制下では戦国武将映画を製作するからには国威発揚的要素がない内容では企画自体が検閲を通らなかったと十分考えられます。では戦時色を取り払った再編集がされたものがすっきりと余計な国威発揚的要素のない、マキノの意図通りの映画になったかというと必要な分まで割愛せざるを得なかった編集版になってしまったのではないか。時代劇というより体裁としては歴史的人物の伝記映画ですから史劇映画とすべきでしょうが、そうしたものにも客観的とも娯楽的とも別に内容に外圧がかかってくるのを避けられないのが戦時下の映画製作で、現在観ることのできる再編集版もまた昭和29年の基準で改編されたものですから現代の目ではこの映画は昭和15年にも昭和29年にもピントが合わない形でしか観られないものになっている。改悪とまで言いませんが、こうした外的条件によって再編集された作品だからこそオリジナル(プリント、せめてシナリオが存在すればですが)との照応の上での評価がなされるべきでしょう。本作の場合、もっとがんがん威勢良く好戦的な台詞の飛びかう『織田信長』だとしたら豪放磊落な主人公がもっと生き生きとした映画になっていただろうと想像されるのです。

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●2月9日(金)
池田富保『伊賀の水月』(大映大秦'42/8/13, '53/2/26)*83min(改題『剣雲三十六騎』'53年版、オリジナル102分), B/W

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○監督・池田富保/脚本・比佐芳武/撮影・松村偵三/美術・角井平吉/音楽・白木義信
○出演・阪東妻三郎(荒木又右衛門)、高山広子(妻お谷)、葛木香一(渡辺靱負)、滝口新太郎(渡辺数馬)、戸上城太郎(河合又五郎)、香川良介(柳生但馬守)、羅門光三郎(桜井甚左衛門)、尾上華丈(桜井半兵衛)、沢村国太郎(本田大内記)、原健作(池田忠雄)、香住佐代子(奥方お貞の方)、原聖四郎 (阿部四郎五郎)、志茂山剛(若党武右衛門)、福井松太郎(若党孫右衛門)、清水明(若党和駒)、小林叶江(お筆)、小川隆(荒尾志摩)、大国一公(成瀬隼人正)、春日清(兼松又四郎)、仁札功太郎(安藤治右衛門)、多岐征二(久世三四郎)、横山文彦(乾玄蕃)、滝沢静子(お局浅尾)、津島慶一郎(水野十郎左衛門)、都健太郎(坂部三十郎)、葉山富之輔(鍵屋の亭主)、小松美登里(鍵屋の女房)
○あらすじ(DVDパッケージより) 寛永七年(1630年)7月、外様大名と旗本の対立が深まっていた頃。育ての親、備前岡山・池田藩士渡辺靭負(葛木香一)に叱責された河合又五郎(戸上城太郎)は靭負を斬って逃げる。その知らせが播州姫路城で仕官する柳生真影流の名手荒木又右衛門(阪東妻三郎)のもとに届いたのは親友桜井甚左衛門(羅門光三郎)と碁を打っていた時だった。渡辺靭負は又右衛門の妻お谷(高山広子)の父で、斬った又五郎は甚左衛門の甥だった。又五郎は江戸の六方組首領の旗本阿部四郎五郎(原聖四郎)に匿われた。お谷の弟・数馬(滝口新太郎)から仇討の助太刀を頼まれた又右衛門は渋る本多侯にいとまを願い出て晴れて浪人となり数馬を鍛えなおす。一方幕府は国替えと又五郎江戸追放を言い渡した。荒木は伊賀での又五郎追討を決意し、数馬らと後を追う……。

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 尾上松之助門下から牧野省三が日活大将軍京都撮影所所長時代にヒットさせた『実録忠臣蔵』'21(翌年の牧野プロによる同名リメイク作品とは別物)で俳優デビューし映画界入りしたのが本作の監督・池田富保(1892-1968)で、この映画日記でも先日観たばかりのサイレント作品『建国史 尊王攘夷』'27と「水戸黄門漫遊記」'28の感想文を載せました。オリジナルは3時間を超えるというグリフィス/アベル・ガンス的大作『尊王攘夷』は現存プリントではオリジナルの約2/3程度の短縮編集版ながらシリアスなリアリズムの歴史映画に取り組んだ大変な意欲作で、一方「水戸黄門~」は大長編から1エピソードだけを取り出した短編編集版でしたが明快な勧善懲悪娯楽時代劇で気持の良い作品でした。さて、日活京都撮影所で俳優から演出部に移り『渡し守と武士』(日活京都'24)で監督デビューした池田は第36作『建国史 尊王攘夷』'27でキネマ旬報ベストテン3位と高い評価を受け、時折片岡千恵蔵プロや大映に出向しましたが第81作『柳生大乗剣』'42.1まで日活京都撮影所の専属監督を勤め、同年大映京都撮影所に移籍し第82作の本作『伊賀の水月』'42.8を監督、同作は大映作品ひさしぶりのヒット作となりました。しかし経営難の大映では『富士に立つ影』'42.12、『菊池千本槍 シドニー特別攻撃隊』'44.1を撮るにとどまり、戦後には'53年に新東宝に第85作『近藤勇 池田屋騒動』、第86作『鞍馬天狗と勝海舟』を残して監督を退き、以後は大映、新東宝作品に脚本を提供もしましたがマキノ雅弘が戦後の娯楽路線を敷いた東映の俳優となって映画人としての後半生を過ごします。最初と最後に牧野父子との縁があった人になりますが、フィルモグラフィーを見ると監督第1作『渡し守と武士』から原作・脚本ともに池田が手がけており、以降も監督作品のうち半数は池田富保自身の原作で、外部原作の場合も含めほとんどは脚本も池田が書いており、全86作中'83作までが'42年までの作品ですから監督キャリアはほぼ'42年までに尽きているとはいえ'24年~'42年までサイレントからトーキーを通して年間4作以上の多作を原作・脚本の兼務を貫いた映画監督は少なく、牧野省三が日活京都撮影所所長から再度独立してマキノ等持院撮影所を本拠に本格的に長編映画の製作を始めると日活から多くのスタッフ、キャストがマキノの下に移ってきた時に池田は日活にとどまって監督に昇進しましたが、確かに『建国史 尊王攘夷』のような史劇指向はマキノ撮影所の作風とは異なるものでしょう。
 本作『伊賀の水月』は初公開後10年あまりを経て『剣雲三十六騎』と改題短縮再編集され再公開され、現在観ることができるのはその再公開版ですが、オリジナル『伊賀の水月』の102分に対して再編集版『剣雲三十六騎』は83分と20%がカットされた短縮版になっています。'42年といえば前年末に戦局も太平洋戦争に拡大しており、仇討ちものの定番、荒木又右衛門(1599-1638)の「鍵屋の辻の決闘」(1630年の河合又五郎による池田家内の殺傷事件の仇を被害者の兄・渡辺数馬が荒木又右衛門を頼んで1634年に河合又五郎と河合を擁立していた安藤家の一味に仇討ちを果たした事件。講談などで「36人斬り」と誇張されたことでも有名。後註)がこの時期に作られた以上オリジナル『伊賀の水月』にはどれだけ時局色が反映していたか気になるところです。史実、または他の「荒木又右衛門・仇討ち鍵屋の辻の決闘」ものとの違いは河合又五郎が殺傷したのが池田家当主に改変されていることで、史実では殺傷されたのは岡山藩士渡辺靭負ではなく、岡山藩主池田忠雄の寵愛する小姓の渡辺源太夫藩士・河合又五郎が横恋慕して関係を迫るも拒絶されたため又五郎は逆上して源太夫を殺害、又五郎が逃走して江戸の六方組首領の旗本阿部四郎五郎してから源太夫の兄の渡辺数馬が荒木又右衛門の助力で河合又五郎への仇討ちを果たすのは同じですが『伊賀の水月』では河合又五郎に殺傷されたのは渡辺数馬の伯父・渡辺靭負となっています。これは岡山藩主池田忠雄の小姓の渡辺源太夫への稚児趣味、また河合又五郎の源太夫殺傷も稚児趣味のこじれであることが戦時下でははばかられての改変と思われますが、映画の冒頭は渡辺靭負に頭ごなしに叱責を受けている河合又五郎の姿から始まります。靭負が知人への祝儀のために又五郎に調達を命じた小柄が靭負には気に入らない。「拾って育てた恩義にも報いずロクに役にも立たないとは、犬畜生にも劣る奴めが!」と怒鳴りつける靭負、「犬畜生と申されるか……」とうつむく又五郎、「犬畜生よ!」とたたみかける靭負、又五郎は腰の刀に手をかけ立ち上がり、それから襖ごしのシルエットで又五郎が靭負を斬るショットが続きます。走り去る足音、女中の悲鳴。シーンが変わって居間の縁側近くで碁を打つ板東妻三郎の荒木又右衛門と滝口新太郎の渡辺数馬、そこにもたらされる河合又五郎による渡辺靭負殺傷の知らせ、いきり立って仇討ちを決意する又右衛門と数馬、となるのですが、いかにも傲慢な葛木香一の渡辺靱負とぐっと耐えている戸上城太郎の河合又五郎を先に観ているのでこの又五郎はこういう屈辱にずっと耐えながら仕官してきたんだろうな、という風にしか見えないのです。そういう描き方をしてしまったなら完全にオリジナルな筋書きならば立場上仇討ちする側になるものの事情を理解し河合を見逃してやる、また仇討ちが避けられないならば靭負の傲岸さが招いた事件だと痛感した上で河合を私刑にせざるを得ない武家の面子の苦さを思い知るというのが自然な成り行きというものでしょう。数馬の弟源太夫に当たる登場人物はいませんが仇討ちのために武芸の未熟な数馬を荒木が鍛え上げて仇討ちの機会を狙うのが中盤の展開で、この数馬役の滝口が前髪を垂らしたお稚児さん風なのは源太夫のキャラクターを重ね合わせて被害者の改変を観客に納得させるためだと思われますが、阪妻の荒木はかっこいいのに数馬役の滝口がおカマっぽいので稚児趣味の仇討ちコンビのように見えてくるのです。クライマックスの大立ち回りなどはさすがに決めるべき所は決めた見応えのあるアクション演出で、初公開時にヒット作となったのも観客が派手な剣戟に飢えていたのに十分応える出来だったからでしょうが、戦後公開版『剣雲三十六騎』がオリジナル『伊賀の水月』102分から83分に短縮されたのは2本立て・3本立てに対応できる長さというばかりでなくやはり忠義を説いて国威発揚とする場面が多く含まれていたのを想像させられるので、それらを削除した結果河合又五郎がとても逆賊には見えなくなり主人公たちの仇討ちに共感できず、そればかりか妙に同性愛者的仇討ちコンビに見えてしまう再編集版になってしまったと思えます。ただ池田富保監督作品は『建国史 尊王攘夷』でもプロットの論理的整合に対して登場人物が織りなすストーリーが観客に与える共感の点で矛盾を来していたので(現存の『尊王攘夷』はオリジナルの2/3程度の短縮版ですが、オリジナル通りでも変わらなかったと思われます)、案外そうした内容の統一性にはこだわらなかった監督だったのかもしれません。

(註)
「荒木又右衛門・仇討ち鍵屋の辻の決闘」を題材とした舞台劇は事件後150年を経た頃からあり、早くは安永6年(1777年)の歌舞伎『伊賀越乗掛合羽』、天明3年(1783年)の人形浄瑠璃・歌舞伎『伊賀越道中双六』(通称『伊賀越え』)で広く親しまれました。その後多くの講談で定番の仇討ち譚になりましたが、映画では、
「荒木又右衛門法書試合」監督不明、主演尾上松之助、横田商会、1910年
「荒木又右衛門」監督不明、主演尾上松之助、横田商会、1911年
「荒木又右衛門」監督・主演不明、福宝堂、1912年
「荒木又右衛門」監督牧野省三、主演尾上松之助、日活京都撮影所、1913年
「荒木又右衛門」監督不明、主演尾上松之助、日活京都撮影所、1915年
『荒木又右衛門』監督牧野省三、主演尾上松之助、日活京都撮影所、1918年
『荒木又右衛門』監督不明、主演尾上松之助、日活、1920年
『荒木又右衛門』監督・主演不明、帝国キネマ演芸、1920年
『荒木又右衛門』監督・主演不明、国際活映、1921年
『荒木又右衛門』監督森要、主演市川莚十郎、松竹蒲田撮影所、1921年
『荒木又右衛門 前後篇』監督不明、主演尾上松之助、日活京都撮影所、1922年
『荒木又右衛門』監督吉野二郎、主演沢村四郎五郎、松竹蒲田撮影所、1922年
『荒木又右衛門』監督中川紫郎、主演嵐璃徳、帝国キネマ演芸、1923年
『荒木又右衛門 前篇』監督森本登良男、主演嵐璃徳、帝国キネマ演芸、1925年
『荒木又右衛門 中篇』監督森本登良男、主演嵐璃徳、帝国キネマ演芸、1925年
『荒木又右衛門 後篇』監督森本登良男、主演嵐璃徳、帝国キネマ演芸、1925年
『荒木又右衛門』監督池田富保、主演尾上松之助、日活大将軍撮影所、1925年=『伊賀の水月』(1942年)の池田監督によるサイレント作品
『新説荒木又右衛門 前後篇』監督広瀬五郎、主演嵐寛寿郎、東亜キネマ京都撮影所、1929年
『荒木又右衛門 全五篇』監督マキノ正博・二川文太郎・押本七之助・金森万象・吉野二郎・中島宝三、主演南光明、マキノ・プロダクション御室撮影所、1929年
『荒木又右衛門』監督・脚本悪麗之助、原作大隈俊雄、主演月形龍之介、松竹下加茂撮影所、1930年
『荒木又右衛門 浪花日記』監督長尾史録、主演団徳麿、帝国キネマ演芸、1930年
『荒木又右衛門』監督辻吉郎、主演大河内伝次郎、日活太秦撮影所、1931年
『御存知荒木又右衛門』監督大石郁、主演不明、大石光彩映画社、1932年
『荒木又右衛門 天下の伊賀越』監督勝見庸太郎、主演早川雪洲太秦発声映画、1934年
『荒木又右衛門』監督仁科熊彦、主演羅門光三郎、極東映画社甲陽撮影所、1935年
『活人剣 荒木又右衛門』監督マキノ正博、主演嵐寛寿郎嵐寛寿郎プロダクション / 新興キネマ、1935年
『荒木又右衛門』監督萩原遼、主演片岡千恵蔵片岡千恵蔵プロダクション / 日活、1936年
『剣豪荒木又右衛門』監督伊藤大輔、主演市川右太衛門新興キネマ京都撮影所、1938年
『荒木又右衛門 前篇』監督山田兼則、主演天津竜太郎、全勝キネマ、1939年
『荒木又右衛門 後篇』監督山田兼則、主演天津竜太郎、全勝キネマ、1939年
『荒木又右衛門』監督大曾根辰夫、応援監督伊藤大輔、主演川浪良太郎、松竹下加茂撮影所、1940年
『伊賀の水月』監督池田富保、主演阪東妻三郎大映大秦撮影所、1942年=本作のオリジナル版
『荒木又右衛門 仇討の日』監督西原孝、原作岡本綺堂、主演市川右太衛門新興キネマ京都撮影所、1941年
『荒木又右衛門 決闘鍵屋の辻』監督森一生、脚本黒澤明、主演三船敏郎東宝、1952年
『剣雲三十六騎』監督池田富保、主演阪東妻三郎大映大秦撮影所、1953年=本作、『伊賀の水月』(1942年)の改題短縮再編集公開版
『巷説荒木又右衛門 暁の三十八人斬り』監督渡辺邦男、原作山手樹一郎、主演市川右太衛門東映京都撮影所、1954年
『荒木又右衛門』監督堀内真直、原作長谷川伸、主演松本幸四郎、松竹京都撮影所、1955年
『剣聖 暁の三十六人斬り』監督山田達雄、脚本松本功、北村秀敏、主演嵐寛寿郎、新東宝、1957年
『伊賀の水月』監督渡辺邦男、脚本渡辺邦男、主演長谷川一夫大映京都撮影所、1958年
 ――があります。サイレント短編5本を含めて39作ないし38作(前後篇が単独公開された作品は分け、前後篇を一括公開された作品は1作としました)もあるわけです。このうち近年に、現存作品が1本もないと思われていたアナーキスト出身の監督・悪麗之助(1902-1931)の月形龍之介主演版『荒木又右衛門』(松竹下加茂撮影所'30)の残存フィルム15分(オリジナル111分)が2009年に発見され、2011年に字幕を補った20分の短縮版が作成公開されて話題を呼びました。また、テレビドラマでは、
江戸を斬る 梓右近隠密帳』第9話「決闘鍵屋の辻」TBS/C.A.L、夏八木勲(又右衛門)、小川真司(数馬)、中田博久(又五郎)、1973年
柳生新陰流テレビ東京/中村プロダクション、天知茂(又右衛門)、川代家継(数馬)、西田健(又五郎)、北町嘉郎(甚左衛門)、1982年
『荒木又右衛門 決闘鍵屋の辻』フジテレビ時代劇スペシャル/東映京都、大川橋蔵(又右衛門)、志垣太郎(数馬)、西田健(又五郎)、田村高廣(甚左衛門)、1982年5月14日
『荒木又右衛門 決戦・鍵屋の辻』NHK仲代達矢(又右衛門)、保坂尚輝(数馬)、緒形直人(又五郎)、宇津井健(甚左衛門)、1990年
『決闘鍵屋の辻 荒木又右衛門』日本テレビ高橋英樹(又右衛門)、西村和彦(数馬)、竹内力(又五郎)、夏八木勲(甚左衛門)、1993年
『荒木又右衛門 男たちの修羅』テレビ東京加藤剛(又右衛門)、大橋吾郎(数馬)、岡野進一郎(又五郎)、細川俊之(甚左衛門)、1994年
『荒木又右衛門 伊賀の決闘』映像京都/フジテレビ、里見浩太朗(又右衛門)、片桐光洋(数馬)、佐藤仁哉(又五郎)、夏八木勲(甚左衛門)、1997年
『天下騒乱~徳川三代の陰謀』テレビ東京新春ワイド時代劇村上弘明(又右衛門)、平山広行(数馬)、石垣佑磨(又五郎)、林隆三(甚左衛門)、2006年
 ――があります。感想文の代わりに調べたことばかり並べ立てた作文になりましたが、映画の世界は広いんだか狭いんだかわからないような代表的な例が荒木又右衛門映画になるのではないでしょうか。