人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2018年4月1日~3日/ジャン・ギャバン(1904-1976)主演作品30本(1)

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 今回からの映画日記は10回に渡って20世紀フランス映画を代表する名優、ジャン・ギャバン(1904-1976)の主演作品30作を続けて観ていきたいと思います。というのは書籍扱い廉価版DVDボックス(西部劇、戦争映画、ミュージカル映画を主に'53年以前のパブリック・ドメイン作品)を毎月2点ずつ発売しているコスミック出版からの10枚組DVDボックス『フランス映画パーフェクトコレクション~ジャン・ギャバンの世界』が第3集まで揃ったからで、第1集の発売が2016年12月、第2集が翌月発売されて2017年12月に待望の第3集が発売され、これで'54年の『現金に手を出すな』『フレンチ・カンカン』以前の1930年~1953年のジャン・ギャバン主演(正確には出演)作品全46作中、主要な作品30作は一気にコスミック出版からのDVDボックスで観ることができるようになりました。収録作品には同社から先に発売された『フランス映画名作コレクション』第1集・第2集や他のボックスと重複する作品も6作ありますが『ジャン・ギャバンの世界』第1集~第3集では分散しており、さらにこのボックスは10枚組1,800円という廉価版ながらどの巻にも日本盤の単品では4,000円~5,000円で発売されているもの、日本未公開の上に日本初DVD化(VHS, LDでも未発売)作品、さらに世界初DVD化作品まで含まれており、画質・音質も廉価版としては十分で日本語字幕の翻訳も丁寧で観やすさに配慮してあり、解説書はついていませんが今では映画サイト等で簡単に調べられますからこの価格の廉価版(しかも全ディスクがピクチャー・レーベル仕様です)でそこまで求めるのは贅沢でしょう。コスミック出版のDVDボックスは他社から高価な単品発売されているものより良好なマスターで尺数も長い収録作品も多いくらいです。筆者もこの『ジャン・ギャバンの世界』既刊3集で初めて観る作品が半数近くあり、また所有していない作品も2/3以上ありました。発売時から少しずつ観てきたので、4月は一気に第1集~第3集収録の30作を年代順に観ていきたいと思います。今回は作品紹介は簡略にしたいと思い原題と公開年月は添えましたが、内容紹介はDVDジャケットの作品紹介文を転載するにとどめました。なお順次ジャケット画像を載せますが、コスミック出版『フランス映画パーフェクトコレクション~ジャン・ギャバンの世界』第1集~第3集の収録作品は以下の通りです。
◎第1集『望郷』'37,『どん底』'36,『陽は昇る』'39,『獣人』'38,『愛情の瞬間』'52,『港のマリィ』'50,『夜霧の港』'42,『ラインの処女号』'53,『逃亡者』'44,『面の皮をはげ』'47
◎第2集『大いなる幻影』'37,『我等の仲間』'36,『霧の波止場』'38,『夜は我がもの』'51,『地の果てを行く』'35,『曳き船』'41,『鉄格子の彼方』'49,『狂恋』'46,『珊瑚礁』'39,『ゴルゴダの丘』'35
◎第3集『快楽』'52,『愛慾』'37,『白き処女地』'34,『メッセンジャー』'37,『彼らの最後の夜』'53,『ベベ・ドンジュについての真実』'52,『ヴィクトル』'51,『リラの心』'32,『トンネル』'33,『はだかの女王』'34

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●4月1日(日)
『リラの心』Coeur de lilas
84分 モノクロ 1932年3月(仏)/日本未公開
監督 : アナトール・リトヴァク
出演 : マルセル・ロメ、アンドレ・リュゲ
中年男の他殺体が発見され、警察は現場に落ちていた手がかりから犯人はリラという娼婦と断定した。捜査をしていた刑事はやがてリラと愛し合うようになるが…。J・ギャバンは情夫役として存在感を示している。

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 ジャン・ギャバンは1930年に短編喜劇映画2本に出演して映画界入りした後、同年末公開のハンス・シュタインホーフ、ルネ・ピュジョル共同監督作品『誰にもチャンスが』Chacun sa chance(日本未公開)で長編映画に初出演し、コメディ作品の同作では主演格だったもののしばらくはヒロイン女優と同格か、準主演、または助演の時代が続いたようです。当時のフランス映画はドイツの映画社やアメリカの映画社のフランス支局で製作されたものが多く、同作もドイツ人監督とフランス人監督の共同監督作品なのでしょう。ドイツ映画のフランス語版リメイクなどにも出演しており、『メトロポリス』'27で知られるブリギット・ヘルムとの共演作品も数本作られています。フィフラ社製作の本作はドイツのロシア系ユダヤ人監督だったリトヴァクがナチ党の台頭にいち早くフランスに移住し(その後第二次世界大戦の開戦からはさらにアメリカに渡って反ナチ戦争映画を作ったりもしますが)、フランス時代に撮った初期の作品で共同脚本もリトヴァクが手がけています。日本未公開、おそらくコスミック出版の本ボックスが世界初DVD化になるようです。リトヴァクといえば真っ先に思い浮かぶのは皇室心中メロドラマ『うたかたの恋』'36ですが(昔はよくテレビ放映されていて、変わった名前の監督だったのもあって印象に残りました)、フランス流鬼ごっこ(最初は兵隊ごっこ、それから泥棒と警官ごっこ)をして遊んでいた子供たちが河川敷の他殺体を発見する、という出だしから押し寄せる野次馬、ごった返す街中とパリの下町風情がほとんどロケ撮影で伝わってくる本作、似たような作品があったなと思ったらベルトリッチの監督デビュー作『殺し』'62がそうです。河川敷で死体発見という出だしからも似ています。ただしこれは現実の事件でもよくあることなので偶然の類似でしょう。映画ではあまり使われないのもあまりに現実にありふれた例だからですが、河川敷で死体発見から始まると全体的な映画の雰囲気も似てきてしまったのが『リラの心』と『殺し』の類似の原因だと思います。つまり作為的なリアリズムやドキュメンタリー調というよりも、身近に起こり得るありふれた殺人事件とその捜査過程を描いている点でこの2作は殺人事件を描いた日常的なドラマになっており、そこに古びる要素の少ない、新鮮な現実感覚があります。
 殺人現場に有名な美人娼婦リラ(マルセル・ロメ)の手袋が落ちていたこと以外に手がかりはなく、映画はその後リラの側から愛人のやくざマルトゥス(ジャン・ギャバン)と暮らすリラの日常と、カフェで出会った男(アンドレ・リュゲ)との恋を描いて行きますが、この男は意図的に近づいてきた刑事で次第にリラを愛するようになってしまう。映画は真犯人の判明・逮捕で幕切れになりますが切ない余韻を残す映画で、実はギャバン主演とは言えない映画ですが「ゴムみたいな女」という歌を溜まり場でフルコーラス歌うシーンがあり、後年もギャバンの歌は定評がありましたがこんな初期から歌っていたのかと感心します。ジョン・ウェイン(1907-1979)もB級西部劇役者だった'30年代には映画で歌っていましたがウェインは後年ほとんど歌わなくなったのを思いあわせ、歌える俳優というのもトーキー初期には重宝だったでしょう。本作のパリは外景はほとんどロケなのもあってか同時期のルネ・クレールの完全セットのパリ連作とはまるで質感が異なり、クレール映画のレトロ・モダンなパリは本当にセット美術と撮影による虚構のパリだったんだなあと痛感しました。本作のパリの下町は言われなければ、いや言われてもクレール作品と同じパリとは思えないほどで、殺人現場の野次馬やギャバンが出入りする溜まり場や盛り場の人々も演技の質感、存在感がまるで違う。ルネ・クレールはあれでいいのですがクレールの映画は古びやすい、飽きがくる人工性がどうしてもあって、映画全体がクレールの個人的なファンタジーにとどまる限界も感じます。対して観るまでまったく予想もしませんでしたがリトヴァクの本作は現実に向かって開けていて、映画の中の人物たちが配役された演技以上に実在感があり、映画という虚構のものだけれど現実の世界から切り取ってきた生々しい感触があって、'32年のパリの下町というのはその後のことです。リトヴァクの映画は偶然でもないと観る機会がないので、こういう佳作があるとは意外でもあり、またしみじみ観て良かったと思える作品です。本作の主演女優マルセル・ロメは病気を苦に'32年の年末、セーヌ川に入水自殺したそうですが、本作のロメのはかない、疲れたような娼婦役は私生活上の苦しみが反映していたとしたら痛々しさを感じないではいられません。

●4月2日(月)
『トンネル』Le Tunnel
72分 モノクロ 1933年11月(仏)/日本未公開
監督 : カーティス・バーンハート
出演 : マドレーヌ・ルノー
ヨーロッパとアメリカを海底トンネルで結ぶ計画が実行に移された。エンジニアのマック・アランは現場の監督として陣頭指揮に立つが、浸水事故や仲間のサボタージュで工事は難航してしまう……。

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 監督/脚本クルト・ベルンハルト、原作ベルンハルト・ケラーマン、脚本ラインハルト・シュタインビッカー、台詞アレクサンドル・アルヌー、撮影クルト・ホフマン、美術カール・フォルブレヒト、ハインツ・フレンケル、音楽ヴォルター・グロノステイとやはりドイツ映画らしき監督・スタッフ(台詞のみフランス人?)が名を連ねるヴァンドール・フィルム製作の本作ですが、本作はジャン・ギャバン主演と言えるもので、一応ギャバンより格上のスター女優だったらしいギャバンの奥さん役のマドレーヌ・ルノーがクレジット上は先になっていますが実質的にギャバンが主役の映画なのはご覧になれば納得がいきます。ポスターでもマドレーヌ・ルノーの名前が上で、ついでに言えば『リラの心』のポスターでジャン・ギャバンの名前がいちばんでかいのはギャバンがスターになってからの再公開の時のポスターだからで、これしか見つからなかったからです。本作の場合はルノーの出番はほとんどギャバンとの絡みしかありませんし、後半はほとんど登場せず、あえてネタバレをするとストーリー上途中退場する形になります。映画の始まりと終わりで15年が経過することになっており、映画のラストカットは大西洋海底貫通トンネル工事を成し遂げた(と言っても東西貫通までたどり着いただけで、道路工事はまだこれからですが)みずから工夫たちに混じってダイナマイトのすすだらけになったギャバンで終わりますが、これはどういう映画かというとフランス=アメリカ間の大西洋間海底貫通トンネル工事を描いた一種のリアリズムSF映画で、アメリカとフランスの両方から掘り進んでいるのですが、ギャバンはそのアメリカ側の責任者になるのです。何だかサイレント時代のドイツ映画のようなアイディアですが、実際サイレント時代にもっと大手の映画会社で立てられ保留になっていた企画を掘り起こしてきたのかもしれません。
 先の『リラの心』'32.3はジャン・ギャバン出演の長編映画7作目、'33年11月公開の本作は14作目で、喜劇映画ではなく助演や準主演でもなくシリアス映画の主演作ですからギャバンも認められてきたということですが、いかんせん本作は何をやりたいんだかわからないような映画の主演を引き受けてしまった観があります。本作も日本未公開、世界初DVD化の珍しい作品ですが、佳作『リラの心』と違って珍品にとどまる内容の映画で、10枚組廉価版DVDボックス『ジャン・ギャバンの世界』第3集収録作品だからこそというか、本作単品で映像ソフト化はまずあり得ないだろうと思われます。映画はアメリカとフランスの大企業が提携して立ち上げた大西洋(中略)トンネル建設プロジェクトの話から壮大に始まりますが、それが建築技師ギャバンに視点が移ると長期間のプロジェクトに参加したら家庭はどうなるのという奥さん役のルノーとの家庭問題の話が延々続き、そのうち浸水事故や落盤事故ではかどらない工事から現場の工夫たちが一斉ストライキを起こしてにっちもさっちもいかなくなりプロジェクト主任の企業家の自殺、意を決して陣頭指揮を執るギャバン……といううちに15年が過ぎ、ようやく腕一本通る穴がフランス側とアメリカ側の間に開いてアメリカ側のギャバンがフランス側のリーダーと握手を交わします。工夫たち拍手喝采。感想を訊かれて「あれほどの多くの犠牲を出していなければもっと素直に喜べるのだが……」とギャバン。何だかうんうん、その通りだと思えるのは、70分あまりに渡って本作を観てきたこちらの心境も結局この映画って何だったんだとすっかり匙を投げる思いなので、ギャバンの台詞は「もうちょっとましな映画だったら素直に喜べるのだが……」と聞こえてくるわけです。結構セットも凝ってるしエキストラも多いのに、何でしょうかこの映画は。何だか年度末調整という言葉まで浮かんでくるようです。

●4月3日(火)
『はだかの女王』(戦後改題『琥珀舞姫』)Zouzou
92分 モノクロ 1934年12月(仏)/日本公開1935年12月(戦後再公開年月不明)
監督:マルク・アレグレ
出演:ジョセフィン・ベイカ
ジャンとズーズーは孤児で、旅芸人に兄妹のように育てられた。ズーズーはジャンを恋人のように慕うが、ジャンは彼女を妹扱いだ。ある日主役の代役としてズーズーはステージに立つが……。フランス流ミュージカルの傑作。

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 日本公開作品がやっと出てきました。ジャン・ギャバン出演長編映画で16作目、アリース社製作になる本作はヒロインのアメリカ出身女優で歌手のジョセフィン・ベーカー(1906-1975)主演映画ですが、ギャバンも同格にクレジットされて男性主人公の役割を果たしています。映画は少年少女時代の芸人小屋のギャバンとベーカー(ともに子役)から始まり、この二人は物心ついたら芸人一座に拾われた孤児で血のつながらない双子の兄妹と言い聞かされて育てられていて一座のアイドル子役ですが(ベーカーはセントルイス生まれのクレオールで、本作では中国人とハワイ人の混血ということになっています)、大人になったら自由に一座を離れてもいいと親代わりの座長に言われ「ぼくは水夫になるんだ」と兄が答えて字幕タイトル「夢をかなえる者もいる」と十数年後?オープンカフェの席でガールフレンドに昔話をし終えたギャバンが映ります。つまり冒頭の子供時代のシーンはギャバンがガールフレンドに話した回想ということで、しばらく相手の女性と子供時代の話が続くので相手の女性がベーカーかと混乱します。そんなわけはないのは映画がアヴァン・タイトルでベーカーの映像に「Josephine Baker / ZOUZOU」、ギャバンの映像に「Jean Gabin / JEAN」と映しているからで、どう見てもベーカーではない女優と子供時代の話をしているのはどういうわけだ?そうか冒頭のはギャバンが別の女に話していたのか、と気づくのは二人がカフェの席から立ち上がって「それで彼女は今も妹なの?」「今も妹だよ」と言う台詞を交わしてからです。当時の観客はスター女優・歌手のベーカーを知らない観客などいなかったのですから前述のような混乱はせず、ああ、この女(明らかに混血でも何でもない白人女優)は今ギャバンから子供時代の話を聞かされたんだなで納得したでしょうが、筆者は写真は見たことはあっても動くジョセフィン・ベーカーを観るのはこの映画が初めてですから初見の時には混乱してしまいました。
 で、ここまではまるごと序盤ですからミュージック・ホールの踊り子兼歌手ベーカーが出てきてからは典型的なアイドル映画です。仲間の踊り子たちからも人気者のベーカー、愛称ズズ(字幕スーパーはズーズーとしていますしZouzouの綴りだとそうしたくなりますが、映画の中では誰もが長音をつけず「ズズ」と呼んでいます)はひさしぶりのジャンとの再会を喜び、ジャンが次の出航までホールの照明係を勤める世話をします。ズズはジャンが自慢で、自分では兄妹として育って今では恋人の感情になっているジャンにとっても自分を恋人と思ってくれているに違いない、と思いこんで仲間の踊り子たちとはしゃぎ、特に親友の踊り子には恋の成就を祝福されます。張りきった気分から芸に磨きがかかってズズを主役にしたショーが組まれ、一方照明係になったジャンはモテモテで、ベーカーのショー・チューンが何度も挟まれながら人気の上昇が描かれ、公演が100回目を迎えた時ミュージック・ホールの入口に立っているジャンにズズが駆け寄ろうとするとジャンの隣に親友の踊り子の姿が現れてジャンと踊り子は抱擁しあい熱いキスをします。足を止めて自分の特大ポスターが壁ぞいにずっと貼られた道を引き返すベーカーの姿で映画は終わります。本作は美術がラザール・メールソン(1900-1938)とアレクサンドル・トローネル(1906-1993)共同で、メールソンは『イタリア麦の帽子』'28から『巴里の屋根の下』'30を経て『自由を我等に』'32に至るまでルネ・クレール映画の美術監督で、『自由を我等に』ではトローネルが助手につき、以後トローネルはメールソンに師事し、ジャック・フェデーの『女だけの都』'35を経てメールソン没後も『霧の波止場』'38以降『天井桟敷の人々』'44、『愛人ジュリエット』'50までのほとんどのマルセル・カルネ作品の美術監督を勤め、ハリウッド進出後にはビリー・ワイルダーの『昼下がりの情事』'56、『アパートの鍵貸します』'60から『悲愁』'77までほとんどのワイルダー作品、フランスに戻ってはリュック・ベッソンの『サブウェイ』'84、ベルトラン・タヴェルニエの『ラウンド・ミッドナイト』'85まで美術監督を勤めた人です。本作のギャバンも十分魅力的なのですが、まあギャバンでなくてもいいような役であるのは確かで、ギャバンにとっては本作の次に日本公開された『白き処女地』'34.12(日本公開1936年2月)で注目される新人俳優になりました。ちなみにベーカーの歌は非常に白人的で、ベーカーは'37年にフランスに帰化しますが、当時のアメリカの白人リスナー・黒人リスナーの好みを思うと何となくわかるような気がします。ミュージカル映画というよりもアイドル歌手ベーカーの音楽映画として楽しむべき作品でしょう。それにギャバンの相手役、メールソン=トローネルの美術と贅を凝らした分を思えばこれはこれで儲けものというものです。