人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2018年4月19日~21日/ジャン・ギャバン(1904-1976)主演作品30本(7)

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 ジャン・ギャバンアメリカ亡命はハリウッド映画の主演作でギャバン出演作第32作『夜霧の港』'42(20世紀フォックス製作配給、前回紹介)、第33作『逃亡者』'44(ユニヴァーサル製作配給)を生みましたがアメリカでの映画出演はその2作きりで、ギャバン終戦後の帰国まで兵役に就くことになります。『逃亡者』はやはり亡命していたジュリアン・デュヴィヴィエ監督と組んだ『望郷』'37以来の作品で戦後にフランスと日本でも公開されましたが、不評に終わった作品です。ハリウッドで知り合い恋愛関係にあったマレーネ・ディートリッヒと共演した初の戦後作品で第34作『狂恋』'46(アルシナ社製作=ゴーモン映画社配給)はパリだけで54万人、フランス国内の観客動員数は249万人の大ヒット作になり、欧米諸国と日本でもすぐに公開されました。続いて製作された第35作『面の皮をはげ』'47(アルシナ社製作=ゴーモン映画社配給)はパリの映画館だけで公開され、フランス全国や日本公開は16年後の1963年になったギャバン出演作品中もっとも知名度の少ない作品のひとつです。次のギャバンの出演作は2年空いてイタリア・ロケの第36作『鉄格子の彼方』'49になりますから、戦時中の亡命と『狂恋』の大ヒットでこの時期ギャバンはようやく肩の荷を下ろした気分だったのかもしれません。『狂恋』と『面の皮をはげ』では一気に中年から初老の風貌に変わったギャバンが登場して感慨を抱かせます。なお今回も作品紹介はDVDジャケットの作品解説の引用に原題、公開年月日を添えるに留めました。

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●4月19日(木)
『逃亡者』The Impostor / L'Imposteur
90分 モノクロ 1944年2月10日(米)/1946年7月10日(仏)/日本公開1950年8月4日
監督 : ジュリアン・デュヴィヴィエ
出演 : エレン・ドリュー
死刑が執行される直前のクレマンは、独軍の空襲のおかげで脱獄に成功した。彼は死んだフランス人兵士の制服と身分証を手に入れ、仏領の赤道アフリカで、自由フランス軍の一員として戦功を立てるが、ある日……。

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 死刑執行から脱走し、乗せてもらった兵士輸送バスが空襲を受け、戦死兵の制服と身分証で他人になりしましてフランス軍に潜り込んだギャバンはペタン新政権のドイツ軍との休戦協定のラジオ放送を聞き、自由フランス軍の志願兵としてアフリカ戦線に赴き、コンゴで任務に就く。そこで部隊の戦友同士の打ち明け話や負傷兵の回復を祝うクリスマス会やプレゼント交換、帰国後の再会の約束などを通して兵士たちの友情が描かれます。かつてジャン・ルノワールから『大いなる幻影』の企画を持ち込まれて「兵隊だらけの映画などつまらん」と一蹴したというデュヴィヴィエですが結局ルノワール自身が監督した「大いなる幻影」'37はまたたく間に名作と評判をとり国際的な大ヒット作になったので、デュヴィヴィエ自身の脚本(英語脚本はアメリカ人脚本家が協力)の本作は『大いなる幻影』を意識したかのような、兵隊だらけの映画になっています。逃亡者クレマンを演じるギャバンはなりすました戦死兵ラファージュの軍功で勲章を受け、兵士たちの生活に馴染んだギャバンにはそれが良心の呵責になる。しかも部隊がリビアに移ってすぐにラファージュの婚約者(ユジェーヌ・ルリエ)が訪ねてきて「偽者 (The Impostor)」(本作の原題)とバレてしまいますが、すでに1年以上共に戦ってきた戦友たちは気にしない。しかしついにギャバンが輸送バスに拾ってもらった時に同乗していたラファージュの友人の軍人に見つかって軍法会議コンゴリビアでのギャバン自身の軍功から弁護されて身分偽称による反逆罪からは免れるが、いち二等兵に降格させられ、もっとも危険な戦線に送られる。コンゴからの戦友たちがギャバンの任務の同行に志願してきて最後の決戦になるのですが、この戦争映画は戦闘場面は結末だけでこれまで兵士たちの友情場面はしつこく描かれても戦闘場面は一度も描かれずに進んできたのです。だから軍法会議の場面でコンゴリビアでのギャバン自身の軍功が語られても台詞だけで、結末までギャバンのみならず部隊の戦闘らしい戦闘がまったく描かれないのでまるで感銘を受けない。そういう話だと台詞だけで納得するしかありません。
 音楽はディミトリ・ティオムキン、撮影やセットもフランス映画の規模ではこうはいかないだろうという堂々としたもので、そうした点ではいつもどこか映像に雑な印象の伴うデュヴィヴィエ映画としては落ち着いた画面に好印象を受ける映画にはなっています。良くも悪くも大衆的なわかりやすさをモットーにした娯楽映画のユニヴァーサル映画といった感じで、コンゴ到着のシーンでは象が草原を歩き猿の群れが森に遊ぶなどどちらもオープン・セットですが、つまりはそういうハリウッド映画の充実したインフラ設備なしにはできないわかりやすいサーヴィスが備わった映画です。本作は戦後フランスと日本でも公開され不評だったそうですが、評価をあげつらうようなものではなくてギャバン=デュヴィヴィエ作品だったことに観客や批評家の過剰な期待があり、もしユニヴァーサルの無名監督の作品であればハリウッド映画なりにギャバン得意の役柄を生かして戦争メロドラマ(といっても男ばかりですが)にした仕上げた手堅い小品とされていたかもしれません。また20世紀フォックスでのハリウッド映画出演第1作『夜霧の港』'42ではつい前作『曳き船』'41、前々作『霧の波止場』'38ではあれだけがっしりと締まっていたギャバンの肉体が、顔貌からして中年太りの目立つものになっていましたが、本作のギャバンは往年ほどではないにしろ『夜霧の港』よりはひき締まった風貌を取り戻しています。『夜霧の港』では頬のふっくらしたギャバンでも構わなかったのですが一応戦場映画(ギャバンフランス軍兵士になりすました逃亡中の死刑囚ですが、作中では1年間の軍功によって強制帰国し処刑される替わりに生還の見込みのない最前線に送られます)ですから相応に修羅場をくぐってきた顔でないと説得力がないので、役作りの上では本作のギャバンは健闘しています。「偽者 (The Impostor)」(本作の原題)が成り行き上本当に勇敢な英雄的活躍をする兵士になってしまうという着想もそれがいつバレるかというサスペンスとともに悪くはなく、フリッツ・ラングの未完成作品をアーチー・メイヨが完成した『夜霧の港』のような映画全体の不統一感はありませんが、結末の決戦までギャバンの属する部隊の戦闘シーンがほとんどなく、せいぜい負傷した仲間と帰ってくるシーンしかなくて、寝起きをともにする戦地での戦友同士の友情シーンばかりが身柄がバレて軍法会議にかけられる映画の後半まで続きます。この構成は何としても弱点になっていてギャバンが勇敢な兵士になったとは仲間の兵士の台詞からしか示されない。本作は『ジャン・ギャバンの世界 第1集』収録が日本初映像ソフト化・初DVD化で世界初DVDにもなる稀少な作品ですしギャバンアメリカ亡命時の2本きりの主演作品として『夜霧の港』ともども珍しいものですが、大した映画でもなく欠点も多い『夜霧の港』が生活感あふれる愛らしい小品になっていて楽しめるほどには心に訴えてくる作品にはなってはおらず不足感を感じさせます。デュヴィヴィエの盟友でやはり亡命していたルノワールがハリウッドで充実した作品を次々と作っていたようにはデュヴィヴィエは力が発揮できなかったようで、結局ギャバンはハリウッド映画2作に主演した後終戦まで兵役に就くことになります。帰国して初めての映画出演になったのがハリウッドで知りあい意気投合したマレーネ・ディートリッヒとの共演作『狂恋』'46ですから、ギャバンの亡命はディートリッヒとの出会いが最大の成果だったと言えそうです。

●4月20日(金)
狂恋』Martin Roumagnac
102分 モノクロ 1946年12月18日(仏)/日本公開1949年8月5日
監督 : ジョルジュ・ラコンブ
出演 : マレーネ・ディートリッヒ
美しき未亡人ブランシュに一目惚れしたルーマニャック。二人は愛し合うのだが、彼女の悪い噂を聞いたルーマニャックは、不運続きで苛立っていたある日、口論の末にブランシュを殺してしまうのだった……。

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 映画は小鳥のペットショップで働くディートリッヒから始まり、閉店後オーナーの叔父に不満をぶちまけて夜の街に出て行くディートリッヒからボクシングの試合会場に移り、友人と観戦していたギャバンの隣に席を取る場面になります。ディートリッヒの指輪が抜けてギャバンが拾いさっそくディートリッヒの足のショットになる。別にディートリッヒがギャバンを誘惑する意図ではないので観客へのサーヴィスショットです。試合終了後先に席を立ったディートリッヒをギャバンは追うがつかまらない。建築事務所を経営するギャバンは翌日偶然街中でディートリッヒと再会しカフェに誘い、君に別荘を建ててあげようと口説いて河辺に連れて行く。突然嵐が来て掘っ建て小屋に嵐を避けたふたりは早くも熱いキスをして抱擁しあう、ととんとん拍子に話は進みます。ギャバンには未婚の姉がいて家のきりもりは姉がしているのですが、姉にもギャバンの取引先にも、ギャバンがディートリッヒに入れあげて、土地を買い別荘を建てパリの家まで持たせようとしているのは筒抜けで、すっかり呆れられている。ギャバンは仕事一点張りだった男でディートリッヒに連れて行かれた高級レストランでテーブルマナーに戸惑ったりダンスが踊れず取り残されたりしている始末で、一方ディートリッヒは映画冒頭の小鳥屋のシーンからずっと若い男(ダニエル・ジェラン)に言い寄られたりしているという具合です。ディートリッヒは叔父の勧めで寡夫の領事の男とつきあっているが叔父や領事にはギャバンは「セメント粉臭いレンガ積み職人」と陰で嘲けられている。さらに妻子持ちの市庁役人とも関係がある、と次々明らかになり、これはみんな叔父がいわばポン引き、美人局となって手を引いていて、ディートリッヒはむしろ男たちと距離を置こうとしているのですが、ついにギャバンの耳に入って小鳥屋で大喧嘩し、ギャバンが出て行くとディートリッヒは鳥かごから乱暴に小鳥を解放して叔父に啖呵を切って出て行く。河辺の別荘で荷物をまとめるディートリッヒに後からやってきたギャバンが「どの男のところに行くつもりだ!」「ひとりで行くのよ!」と言い合いになり、後はDVDジャケットにばらしてある通りです。ところが本当のクライマックスは30分あまりにおよぶギャバンが被告になった裁判の法廷劇にあって、けっこう意外な成り行きに進んでいく裁判と、再びダニエル・ジェランが出てきて取ってつけたような妙な結末で映画は締めくくられます。ギャバン銀髪でまだ若々しい中年からいきなり初老になっちゃったなあというのがまず驚きで、映画前半ではもっと濃い髪色なので前半は染めていたということでしょうか。
 ダニエル・ジェラン(1921-2002)は次作で本作と同じアルシナ社製作の『面の皮をはげ』でも登場し、ギャバンの息子役で準主演扱いですから売り出し中だったのでしょう。その割にはどちらの作品でも感じのいい役ではありません。長いキャリアを歩んだ俳優ですが私生活の乱脈さでも知られ、マリア・シュナイダーはジュランの私生児です。本作はギャバンが戦前から映画化権を買って暖めていた企画だそうですから、ギャバンの念頭には『愛慾』'37、『獣人』'38の路線があったと思います。ジャン・ギャバン(1904-1976)は本作製作時43歳、マレーネ・ディートリッヒ(1901-1992)は46歳でどちらもいい歳ですが本当に恋愛関係にあったというとげっぷが出るほど濃いカップルで、どちらか一方が淡々としていれば(ジェームズ・スチュワートとディートリッヒ共演の『砂塵』'39やアーサー・ケネディとディートリッヒ共演の『無頼の谷』'51のように)ともかく、本作ではペペ・ル・モコとローラ・ローラの対決といった具合で、一気に初老の風貌になったギャバンに対して実年齢では年長のディートリッヒが40代後半とは思えないほど若い。『嘆きの天使』『モロッコ』'30の年で29歳デビューのディートリッヒですがせいぜい見積もっても10歳以上は歳を取っていないように見えます。ディートリッヒはメイクやファッションも決めてくるタイプの女優ですからデビュー当時からメイクのコンセプトも一定していたし映画デビュー以来スタイルも変わらず、むしろ引き締まっているくらいです。自己プロデュース力にかけてはギャバンも同じで、第17作『白き処女地』'34、第18作『ゴルゴダの丘』と組んだ監督デュヴィヴィエに第20作『地の果てを行く』'35で自分が映画化権を買ってきた原作で決定的なギャバンのキャラクターを確立してきた俳優ですから、以降『獣人』同様にギャバン企画になる本作は監督ジョルジュ・ラコンブよりも主演俳優ギャバンの映画と見る方がいいでしょう。原題もギャバン演じる主人公の名前『マルタン・ルーマニャック (Martin Roumagnac)』そのままです。原作者も共同脚本に名を連ねた脚本には構成に難がありディートリッヒをめぐる複数の男たちの描き分けにムラがあってすんなり話が進まない。一方ギャバンの姉役のマルゴ・リオン、いかにもおちぶれて姪のヒモになり生計を立てている初老の叔父のジャン・ディドは好演で、脇を固める役者の好演で構成のまずさが何とかなっています。音楽のマルセル・ミルーズという人はわかりませんがジョヴァンニ・フスコの方が先に来ており、この人はもちろんミケランジェロ・アントニオーニの第1作『愛と殺意』'50から第9作『赤い砂漠』'64まで、『夜』'61を除いてすべて音楽を手がけていた作曲家です。感想文でも書くことにしなければ気がつかなかったかもしれません。ヒット作の本作はヴィデオ時代からソフト化され単品で廉価版DVDも既発売ですが、廉価版といっても単品で1,800円ですので同じ価格でギャバン主演作が10本観られる『ジャン・ギャバンの世界 第2集』がお徳用でしょう。同じ原作でもルノワールジャン・グレミヨンが監督していたら傑作になったかもしれませんがルノワールはまだアメリカ在住、グレミヨンはこの年はカンヌ国際映画祭審査員を務めたりして多忙だったかもっとギャバンが主導権を握ることができる程度の監督が良かったのでしょう。小鳥の使い方、陰で「レンガ積み」と嘲けられている(しかしディートリッヒだけは同調しない、この辺もディートリッヒの役が決して悪女ではないニュアンスを含んだ)ギャバンの職人意識など、微妙なところでもっと生かしようのある要素を上手く生かしきっていない監督の力量がもどかしいのですが、これもギャバンの一里塚となった作品です。とにかく見所はディートリッヒとの共演に尽きるのですから多少の建てつけの悪さにとやかく言うものでもないでしょう。

●4月21日(土)
『面の皮をはげ』Miroir
89分 モノクロ 1947年5月2日(仏)/日本公開1963年4月19日
監督 : レイモン・ラミ
出演 : ダニエル・ジェラン
黒い過去を隠して実業家として成功していたリュサック。現在でも裏の組織との繋がりは深く、組織内での対立も起こりはじめていた。ある日、かつての仲間のリュフォーが脱獄したことを知ったリュサックは……。

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 監督レイモン・ラミ(1903-1982)は『狂恋』の助監督から昇格した人ですが、単独監督の長編映画は本作『面の皮をはげ』1作しかない(ほか短編数作、'38年に共同監督長編1作)裏方仕事がほとんどだった映画人のようです。本作のギャバンはいきなり白髪に近いような銀髪で出てきます。企業の重役会議から始まり、成人した息子(ダニエル・ジェラン)に代を譲ろうという場面に移りますからもう役柄からして社会的地位を築いた堂々とした人物を演じていて、本業は汽船会社重役なのですが多角経営で女レスリングが呼び物の高級キャバレーやカジノを運営し、優秀な競争馬を何頭もレースに出したりボクサーのスポンサーになっている、行政にも顔が利く盛り場の顔役という設定です。映画の序盤は自分の店の繁盛を視察して回り、裏社会とのつながりがそれとなく語られる。カジノで全財産をすって泣きついてきた若い娘に仕事を世話する約束をしたりもする。最後に訪ねた訳ありらしき女(ガブリエル・ドルジア)から過去に因縁のあった男リュフォーが20年の刑期の上に脱獄したこと、冒頭のギャバンの息子は実はギャバンが引き取って育てたリュフォーの息子らしいことがわかる。ギャバンが去ると女は「ミラー (Miroir)……」とつぶやく(本作の原題)。女の家から出たギャバンはいきなり銃撃される。息子の縁談の進行とともにマルセイユ界隈のギャバンの店が次々強盗に襲われている報告を受ける。ギャバンはあちこちを次々根回しして回るのですが、ギャバンの前妻という設定らしい(?)コレットマルスの舞台場面が1曲フルコーラス披露される、ギャバンと盛り場の利権を争い敵対するギャングの顔役ファルコ(アントナン・ベルヴァル)と勢力争いを賭けたボクシング試合がフルラウンド描かれ、次いで息子の結婚式がこれまた長いのです。結婚式中にギャバンマルセイユ港のギャバンの会社の貨物船が爆破されたと急報が入り、新聞社がLというイニシャルの犯人によるギャング同士の抗争とかきたてる。またギャバンのことを「ミラー」と呼ぶ男たちが何やら相談している。そして映画は無期懲役刑犯リュフォー(ポール・エトリー)の正体の判明とギャバン(同罪で逃走中)との関係のスキャンダル、それを嫌った息子ダニエル・ジェランの反発(「僕の将来に傷がつく!」)と絶縁、ギャバンとリュフォーとの対決、墓場でのギャバンの組とファルコ組の両組全員の殲滅を賭けた銃撃戦があって、映画前半からずっとギャバンを追っていたバレストラ警部(モーリス・リュガミー)の登場で劇的な幕切れになるのですが、本作は前書きの通りパリの映画館だけで公開され、フランス全国や日本公開は16年後の1963年になった最初からB級映画扱いだったような作品です。
 サイト上をいろいろ調べましたが唯一日本公開版ポスター(と本作の単品DVDジャケット)が見つかっただけでした。89分でもまだ長い。70分未満の映画を20数分水増ししたような作品です。ギャバンのショバ回りとか舞台シーンとかボクシング試合シーンとか結婚式とか、圧縮したり一瞬で済ませたりした方が効果的な場面を延々とやるからだらだらしているので、因縁の男リュフォー登場からは好調で後半1/4、つまりあと20分強になってからはフレンチ・ノワール臭が漂う見せ場がたたみかけられるのでなおさら惜しい。それまでは昔の訳あり女ガブリエル・ドルジアの登場シーンが良いくらいなので、ドルジアをヒロインに過去の訳あり感にしぼって強調していれば最後の20分強の迫力が生きた70分弱、または1時間前後の好編になったかもしれません。ギャバンの犯罪者時代の通り名「ミラー (Miroir)」をそのまま使った原題(『狂恋 (Martin Roumagnac)』同様アルシナ社の方針かもしれませんが)を正体を暴け、つまり『面の皮をはげ』とつけた邦題が冴えているのにもったいない。それにしてもダニエル・ジェランが嫌な青年役で、ついに対決したギャバンとリュフォーとの対話「お前の息子は育てた。女房は死んだよ」「礼は言わんよ。どうせ今のお前みたいな腐ったブルジョワに育てたんだろう」ギャバンはともかくジェランの方は腐ったブルジョワ息子そのもので、それはそれでもっと筋に生かしようがあったものをと思うのは前半3/4、つまり70分弱の各場面が冗長なので明確な線が浮かんでこないからです。(1)因縁の男リュフォーとの対決、(2)ギャバンはバレストラ警部の追及(無期懲役刑)から逃れ切れるか、(3)敵対するギャングのボスのファルコとの決着、(4)実はリュフォーの息子ジェランとの決裂、(5)ギャバンが今日の地位になりすますために結婚した妻との関係、とありますが(5)は本筋からすればあまり重要ではないので、息子ジェランについてはリュフォーとの因縁が絡んでいるのでサブプロットとして使い出があり、また顔役ギャングものとして敵対するギャングのボスのファルコとの決着は避けて通れないので以上(1)~(4)は欠かせず、(1)と(2)はひとまとめとも言えますから(a)vs.リュフォー(バレストラ警部)をメイン・プロットとして(b)vs.ライヴァル顔役ファルコ、(c)vs.義息子ジェランの二つのサブプロットがあるわけです。こうして見直してみれば素人観客にもわかる勘どころを映画はラスト1/4になってしか生かせておらず、それまでの3/4は冗漫で散漫。テレビ放映されたことがあるかはわかりませんが、1時間半枠・実質68分程度に吹き替え再編集された方がよっぽど良くなるのではないか。これが当初パリのみ公開に止まったとはフランス最大大手のゴーモン映画社も『狂恋』が大ヒットした分アルシナ社の配給依頼を断れなかったにしろ全国公開は無理と判断したわけで、16年後の'63年になってから全国公開、日本公開もされたのはアラン・ドロンギャバンの競演作『地下室のメロディー』'63.3の公開に当てこんだのかもしれません。本作も他社から3,000円で単品発売されていますが、『ジャン・ギャバンの世界 第1集』で数々の名作のオマケ程度に観るのが良さそうです。また本作は期待して観なければ意外と見せ場もあり、案外と印象の中で良くなってくるような作品でもあります。ラスト20分強、特にリュフォーとの対決から墓場の銃撃戦、ずばりと決まった突然の結末は強烈。この結末だけをご覧になれば、前半3/4もこのレベルだったらフレンチ・ノワール初期の小傑作になったかもと思われる方もおられるのではないでしょうか。