デュヴィヴィエ作品への出演は『望郷』でひと区切りがつき、デュヴィヴィエ、ギャバンともにドイツ侵攻間際にアメリカに亡命していた頃にアメリカ映画で製作された『逃亡者』'44がひさびさのギャバン主演のデュヴィヴィエ作品になりますが、『白き処女地』~『望郷』に至る時期のデュヴィヴィエ=ギャバン作品(またそれ以前・以降の戦前のデュヴィヴィエ作品)はフランス国内よりも日本での興行成績の方が上回るほどで、「日本で受けるデュヴィヴィエ映画」とフランス国内の批評家から揶揄されたとまで言われています。戦後、'60年代以降の文献を見るとフランス人映画批評家の大半の見解では「ジャン・ルノワール以外の'30年代映画は、外国ではともかく、フランスでは忘れられている」という記述が多く、フェデー、クレール、デュヴィヴィエ、カルネらの作品はおおむね古い戦前派の映画扱いされており、ただしジャン・ギャバンの国民俳優的人気は往年の出演作が古びても常に好評な新作があり、揺るがなかったようです。『白き処女地』はギャバン初のデュヴィヴィエ監督作品出演で、次の『ゴルゴダの丘』の次に第19作のニコラ・ファルカス監督、アナベラ主演作『ヴァリエテ』'35.11(E・A・デュポン監督のサイレント作品のリメイク)への出演があり、第20作『地の果てを行く』はデュヴィヴィエ監督のギャバンとアナベラ共演作品になりました。なお今回も作品紹介はDVDジャケットの作品解説の引用に原題、公開年月日を添えるに留めました。
『白き処女地』Maria Chapdelaine
72分 モノクロ 1934年12月14日(仏)/日本公開1936年2月
監督 : ジュリアン・デュヴィヴィエ
出演 : マドレーヌ・ルノー
放浪者のフランソワは数年ぶりに故郷に戻った。彼は美しく成長したマリアに恋心を抱き、放浪生活を捨て、彼女との結婚のため出稼ぎにでるが……。伝統や信仰を守りながら生きるカナダのフランス系住民たちを描いた作品。
元フランス領で公用語もフランス語のケベック州なので宗教はカトリックで、本作は田舎の話なので社交界はカトリック教会の礼拝になります。ギャバン以外にもルノーに片思いしている青年が二人いて、ひとりは都会で働いていてクリスマス休暇で里帰りしている青年、もうひとりはヒロインの家の近所で木こりをしている青年で、ギャバンがいるのでルノーには言い寄れないでいる、という奥ゆかしい設定です。この人間関係がどうなっていくかを書くと話をばらしてしまうことになるので物語についてはここまでにして、本作は前述の通り良好な画質でケベック現地ロケも美しいのですが、あいにく先月溝口、スタンバーグ、ルビッチと極めつけの映画を観てきたばかりではデュヴィヴィエの映画は一段、ただし決定的に見劣りして見えます。俳優の芝居の演出手腕もそうですが、それなりに工夫を凝らしてある撮影と編集から一貫した強い美意識と手法が見えてこない。たとえば何種類ものワイプがシーンの変わり目に使われ、ギャバンが吹雪の山の中に迷うシーンや都会の青年がヒロインに都会生活を語るシーン、ヒロインの家族のひとりの臨終シーンではスクリーン・プロセスやオーヴァーラップが多用され、またヒロインをめぐる青年たち(ギャバン含め)の動向がヒロインの家庭での情景とカット・バックで描かれますが、ストーリー上の説明にはなっているものの一貫した映像文体の体をなしていないので、特にスクリーン・プロセスの多用はせっかくの現地ロケで撮ってきたのは背景映像だけでスタジオ撮影の俳優の芝居を重ねているのですから興ざめです。しかもスクリーン・プロセスの使用法そのものが乱雑で映像が汚い。ヒッチコックは同時期の作品でスクリーン・プロセスなんてどうせまやかしなんだから自然さを狙ってわざとらしくやる、とひねくれた使い方をしており、またアントニオーニは監督デビュー作『愛と殺意』'50から自動車や列車内の芝居にスクリーン・プロセスを決して使わない監督でした。何をやって何は絶対やらないかルビッチやスタンバーグ、溝口らはきっぱりとした映像意識の自覚がありましたが、デュヴィヴィエは使える技法は何でも使う、それはかまわないのですがこの映画の中でこのシーンはこうする、という選択に美意識も必然性も稀薄なため映画が散漫になっている。3人の青年とのロマンスがまるで別々の調子の演出で、それが効果的なコントラストになってはおらずつぎはぎしたようで、そのせいでマドレーヌ・ルノーのヒロインが魅力的なヒロインに見えない、という根本から力の弱い映画に見えるのです。本作は'34年末の公開映画ですがルビッチの『ラヴ・パレイド』'29やスタンバーグの『モロッコ』'30よりずっと古い作品に見えますし、溝口の『マリアのお雪』'35は『白き処女地』と観較べれば悠にもっと数年先の作品に見えます。本作以前のデュヴィヴィエ作品は『にんじん』'32、『商船テナシチー』'34をずっと昔に観たきりですが、観直した限り本作は同時期のアメリカ映画や日本映画の水準からははっきり落ちる作品で、ソシエテ・ノーブル・シネマトグラフィ社製作のフランス映画というローカル色を加味しないとあまり高くは買えない映画です。いちばんの見所だったのは吹雪の中を立ち往生する馬ぞりの馬の名演だったと言うと皮肉に響いてしまうでしょうか。
●4月5日(木)
『ゴルゴダの丘』Golgotha
91分 モノクロ 1935年4月10日(仏)/日本公開1936年11月
監督 : ジュリアン・デュヴィヴィエ
出演 : ロベール・ル・ヴィギャン、アリ・ボール
キリストの受難劇をピラト役にジャン・ギャバンを迎えて製作された宗教史劇。ローマ統治時代のエルサレム。イエスの力を恐れ始めた権力者は、彼の処刑を策謀していた。巨匠ジュリアン・デュヴィヴィエが描く宗教史劇の金字塔!
本作はある程度キリスト教知識があると作品の苦心がわかって面白い映画で、キリストを最終的に死刑に追いこんだのはユダヤ人市民の世論と描いている点では反ユダヤ主義映画とも言えるほどです。体制に順応し、また旧来の律法主義の伝統的ユダヤ教信徒だった多数のユダヤ人たちには律法より信仰を上位に置いた伝道師ヨハネは異端、またヨハネの直弟子だったキリストのより強力な伝道はローマ領ユダヤの秩序を乱す煽動だったでしょう。新約聖書の翻訳でよく問題になるピラトのキリスト尋問の一節に「お前はユダヤの王か」「その通りだ」と口語訳聖書で訳され、新改訳で「あなたがそう言うなら、そうだろう」と直された箇所がありますが、本作では「お前はユダヤの王か」「それはあなたが言ったことだ」とフランス語訳を経てよりすっきり文意の通るものになっており、聖書物語のキリスト伝映画としてはハリウッド映画より誇張の少ない、しかしユダヤ人世論によるイエス処刑がその分強く出た映画になっています。本作でキリストを演じたロベール・ル・ヴィガンが良く、また『望郷』'37でギャバンを追う刑事役のリュカ・グリドゥーがユダを演じていて、アリ・ボールのヘロデ王がチャールズ・ロートンか後のオーソン・ウェルズかのようなすごい迫力で場をさらいます。音楽もジャック・イベールと豪華です。本作については現代人情劇でない分デュヴィヴィエも妙に映像に凝らず(キリストのショットがいつも逆光という程度で)、大セットと大量エキストラをさばいて映画監督としては表現を無欲に作り上げたのが良い結果になったと思います。それでも聖書やキリスト教にまったく関心がない、拒絶反応が起こる観客にはちっとも面白くない大作かもしれませんが、ハリウッド映画のキリスト受難ものをご覧になったことがあるなら比較対象としては異色あるものとしてお勧めできます。ハリウッド映画のキリスト受難ものの特色も本作との比較で浮かんでくるのです。
●4月6日(金)
『地の果てを行く』La Bandera
96分 モノクロ 1935年9月20日(仏)/日本公開1936年9月
監督 : ジュリアン・デュヴィヴィエ
出演 : アナベラ
フランスで殺人を犯したピエールは、警察に追われスペインに身を隠していた。しかし酒場で全財産を盗まれ、スペイン外人部隊に入隊する。同時に入隊してきた同国人のリュカは、執拗にピエールに付きまとい……。
それを言えば『ジャン・ギャバンの世界』収録作品30作の中でもっとも製作年度が古いギャバン出演作第7作『リラの心』'32がほとんどアメリカの'40~'50年代フィルム・ノワール作品に近い感覚と題材・内容の映画なのはアナトール・リトヴァクあなどりがたしとも言え、あれはまだギャバン主演作品ではありませんし小品佳作にとどまる出来ですが、それも含めてエドガー・G・ウルマー級の監督のフィルム・ノワールと言っていい作品でした。ならば一流脚本家シャルル・スパーク脚本、'30年代フランス映画の第一線監督デュヴィヴィエの監督による本作『地の果てを行く』は『白き処女地』より各段に面白く情感の厚い作品になりましたし、ル・ヴィガンの好演やピエール・ルノワール、ガストン・モド、ヴィヴィアンヌ・ロマンスら良い俳優に恵まれましたが、やはり題材が題材だけに太い線で押した『ゴルゴダの丘』がデュヴィヴィエの本流ではなく『白き処女地』の監督の作品なんだな、と思わせる映像文体のつぎはぎ感があります。ル・ヴィガンが脅迫者か刑事か、ギャバンはル・ヴィガンにどう立ち向かうか巧みに引っ張る展開は最高なのですがそれはシナリオの次元でも成り立つことですし、クレジット上はアナベラ、ギャバンの順で監督のデュヴィヴィエが共同脚本なのはアナベラの出番の提案だったのではないかと思います。つまり本作のプロットでは本来アナベラはもっと小さい役で済んでしまうので、デュヴィヴィエがアナベラの見せ場を追加してスパークにメイン・プロットにアナベラが絡むようにリクエストしたと思われ、だとしたらスパークの手腕は鮮やかなものです。ただし本作が古びている部分があるのもアナベラの比重が高すぎるからで、この外人部隊はスペイン軍ですから部隊は南米のどこか(地名が出てきたか見落としました)だと思いますが、そこから現地人の舞妓のアナベラがヒロインになるためにロマンスそのものがエキゾチシズムになっている。『モロッコ』では現地人の女たちにモテモテの色男クーパーのロマンスの相手は流れ者の歌手のディートリッヒですし、悪女に貢ぐため前科者となった上に捨てられて入隊した『外人部隊』の主人公は出兵先の土地の酒場で自分を捨てた悪女そっくりの女(マリー・ベル二役)。前科者ギャバンと謎の男ル・ヴィガンが外人部隊で死地をかいくぐりながら腹を読みあうサスペンスと、兵士ギャバンの現地人の舞妓アナベラとのエキゾチックなロマンスが、プロット上では接点を作れてもそれぞれの場面では別の種類の映画になっている。『白き処女地』でヒロインをめぐる3人の男がそれぞれ異なる個性の男なのはともかく、それぞれの男たちとヒロインが二人きりになるシーンごとに演出のタッチまで変えていたのが逆効果になっていたように、本作も前科者サスペンスとエキゾチック・ロマンスが相殺しあっており、むしろ訳ありで南米の酒場女に流れてきたフランス人の女とのささやかなロマンスの方が演出の統一も取れ、作品全体のバランスも良く、なおかつエキゾチシズムに頼らない自然な哀切さをたたえさせられたのではないかと思えてなりません。しかし本作は戦後の『鉄格子の彼方』'49にいたるまでギャバンの得意役となったさすらいの前科者映画の第1作として最重要な作品で、先に上げた弱点を補ってあまりあるほど見所満載の名作です。終盤はおいしいところをル・ヴィガンがひとりでもっていく趣向など焦点を合わせるべき場面ではスパーク脚本にデュヴィヴィエの演出も冴えており、この原作を選んだギャバンの読みに狂いはなかったということです。その点では、犯罪サスペンスで戦争映画でもある上に、アナベラをヒロインにしたエキゾチック・ロマンスも時代の要求に応えたものだったのでしょうし、足りないよりは盛りすぎの方が良いとしたのも本作の勝負作たるゆえんだったのかもしれません。