『夜は我がもの』La nuit est mon royaume
103分 モノクロ 1951年8月9日(仏)/日本公開1952年2月29日
監督 : ジョルジュ・ラコンブ
出演 : シモーヌ・ヴァレール
鉄道機関士のレーモンは、事故で視力を失ってしまう。絶望と悲しみの日々に明け暮れる中、趣味のラジオ制作を生活に役立てることを勧められ、リハビリ施設に通い始める。そこで盲目の教師ルイーズと出会い……。ヴェネツィア国際映画祭男優賞受賞作。
しかし本作ではルノワールやグレミヨンのように大胆ではなく、カルネやクレマンのように細心でもない中途半端さが良い塩梅になっていて、事故で全盲になった元機関士のギャバンの鬱屈に近づきすぎず突き放しすぎず、本人にとっては人生の一大事ですが誰にでも起こり得る事故による身体障害のドラマを平凡な日常として描いていて、題材と話法にちょうど良い距離感がある。盲人となった元機関士というとアベル・ガンスの古典『鉄路の白薔薇』'23を思わせる設定ですが、ガンスのように一大悲劇叙事詩のような大仰な謳い上げはしない。ギャバンが点字を習ってもいいかなと思うきっかけも若い女性盲人点字教師に手を触れて教えられたからで、隣の席の男子生徒に替わると機嫌を悪くして授業中に途中退席してしまう。実際に盲学校の協力で製作しているらしく盲学校の状景はドキュメンタリー風でもあり、いろいろな段階の視覚障害者がいてどれだけ異なるハンディキャップの克服があるかをギャバンが施設に通う過程、ギャバン自身が日常生活をこなせるようになっていく過程でくどい説明はなく一筆描きの映像で見せていく。先に書いたあらすじはこの後、自殺未遂事件を起こしたギャバンと女教師と職員の三角関係の行方を追って恋愛映画になっていきますが、恋愛映画としては平凡なものですし、映画の体裁を整えるためのプロットで主眼は障害福祉奨励映画であり、全盲者の役を演じるギャバンの芸を見せる映画で、わかりやすい設定なだけに取り組みやすく演じやすいけれど効果的、と主演のギャバンにとって便利な映画になっています。ヴェネツィア国際映画祭男優賞というのもこういうわかりやすい役で賞を与えたのはギャバンのキャリアに対する功労賞の方が大きいと思いますが、映画賞というのは賞を受ける側だけでなく与える側にも得がなければ意味がないので、本作のギャバンの熱演には世間からの支持が大きくそれに対してのヴェネツィア国際映画祭男優賞だったということでしょう。映画としては無難にまとまった、その限りではなかなかの映画と言うにとどまり特に特筆するようなものはない、題材とギャバンの熱演だけが本作ならではの持ち味になっている程度の作品ですが、それだけに主演男優賞向けの映画にもなり得たので、こういう例(映画は中の上、特定部門だけが白眉)は多くあります。全体が地味で演出が控えめなのも本作では意図的にそういう映画に仕上げたのでしょう。ギャバンじゃなくても演れた映画だと思いますがギャバンが演じたことに意味がある。見応えがあるのもギャバン主演だからこそ、と言えます。シャルル・スパークが台詞監修ですがスパーク脚本らしいはったりもなく、普通の映画を目指して普通の映画になった種類の作品で、それが限界とも言えますが、普通に満足できる映画ではないでしょうか。
●4月26日(木)
『ベベ・ドンジュについての真実』La Verite sur Bebe Donge
110分 モノクロ 1952年2月13日(仏)/日本未公開
監督 : アンリ・ドコワン
出演 : ダニエル・ダリュー
女にだらしのないフランソワ。ベベという愛称の妻エリザベットは、夫の浮気が明らかになっても離婚はしない。結婚後10年が経ち、フランソワは彼女に毒を盛られて、瀕死状態の中で彼女の気持ちを尊重するようになるが……。
しかし世界にはまだ正義が存在する証拠が本作のひっそりとしたDVD化で、ドコワンはそれこそデュヴィヴィエより年長の映画監督ですが、これは戦後映画でなければできなかったような題材と内容、作風で、国民作家シムノンの原作自体に由来するとしても的確に映画になっているからにはドコワン自身のものになっていると認めるべきですが、現実に照らした人生観の認識とその真実性が'30年代フランス映画のムード的ペシミズムとは比較にならないくらい強く徹底している。瀕死の床でギャバンは病室の戸口に立って近づかない妻のダリューに「俺は治る。愛しているよ。やり直そう」と語りかけますが、ダリューは「私は愛していない。終わったのよ」と応えます。ギャバンは微笑んで同じことを言う。ダリューは無表情のまま同じ応えを返す。10年間一度もわかりあえなかった夫婦の年代記を描いて、この映画はペシミズムでもなければテーマや技巧としてのリアリズムでもなく、実在し得るこうした夫婦の関係を人間性の真実の一端として描いてみせます。ダリューはついに思いつめて夫を毒殺することになりますが、揃いのコーヒーカップの片方に水銀を入れたので自分か夫のどちらでもよく、また夫が水銀入りの方を飲んでもすぐ自分が犯人と特定されるのを承知の上で実行している。もしダリューが自分で飲んでしまった場合はどうするかは、逮捕された場合も含めてダリューが書き置きしている様子が映される。この決してわかりあえない夫婦関係はベルイマンがフォール島三部作(『狼の時刻』'68、『恥』'69、『情熱の島』'69)や『ある結婚の場景』'74で取り上げるテーマの先駆をなしていて、ベルイマンの場合それはエゴイズムの衝突という明快な図式化にヴァリエーションを求めたものだったのに対し、本作のドンジュ夫妻の場合はエゴイズムの衝突以前に一種の共依存関係を続けていて、共依存そのものが夫婦関係の実態なので円満にせよ揉めるにせよ離婚という選択肢は出てこない。どちらかが生存する限り共依存関係のパートナーシップが続くので、そこから解放されるのは心中でもなく一方の死しかない、と妻は考える。かたや夫の方は回復して自分に毒を盛った妻を許せば夫婦関係はやり直せると考える。過去の回想はともかく、瀕死のギャバンの容態悪化を描いた現在のシーンではギャバンとダリューが同じフレームで映されることは決してありません。病室を訪れるダリューが戸口より近くにギャバンに近づかないからですが、構図の取り方によっては縦にロングで同じフレームに映す、またはパンして1カットでギャバンとダリューをとらえることもできるでしょう。それがないのは現在のギャバンとダリューが関係認識の次元で別々の世界に分かれてしまったからで、一見気づかないこうした描き分けにもドコワンの勘の良さを感じます。この映画の冷たさは共感できる人物をまったく登場させないほど徹底していて、なのに展開から目が離せない緊迫感があり、ラテン系民族というと開放的な面ばかり強調されがちですが数学と解剖学と唯物論の民族でもあるのをこの冷たさから痛感します。本作がドコワンの隠れた名作と言われるのもあながち過褒ではないと思います。
●4月27日(金)
『快 楽』Le Plaisir
93分 モノクロ 1952年2月29日(仏)/日本公開1953年1月19日
監督 : マックス・オフュルス
出演 : ダニエル・ダリュー
モーパッサンの小説を元にした三つのオムニバス映画。第1話は若い頃を忘れられず夜遊びを繰り返す夫に手を焼く妻。都会から離れ田舎で遊ぶ娼婦たちを描いた第2話。第3話ではモデルのおかげで売れた画家の心変わりを描く。
仮面の青年に変装してダンスホールで踊って倒れた伊達男のなれの果ての老人とその妻(ギャビー・モルレー)を医師(クロード・ドーファン)の視点から描いた第1話、田舎の弟(ジャン・ギャバン)夫婦の娘の聖体授拝式(洗礼式)に招かれた娼館「メゾン・テリエ」の女将テリエ(マドレーヌ・ルノー)が休暇を兼ねて娼館の娘たち(ダニエル・ダリューら)を引き連れ田舎を訪ねて村人に貴婦人たちと思われ上機嫌になり、聖体授拝式で涙を流す、ルノワールの『ピクニック』'37との類似を指摘される第2話(ギャバンの出演はこの第2話のみ)、貧乏画家(ダニエル・ジェラン)がモデル(シモーヌ・シモン)に惚れこんで売れっ子画家になったが飽きてしまい、別れ話から投身自殺未遂されて障害者になった彼女を一生面倒みることになる第3話とストーリー自体も面白いものばかりで、これが重なりあってオムニバス映画以上の効果が出ているアイディアと構成の巧さも舌を巻くばかりですが、撮影のすごさがありありと伝わる映像は圧巻で、CGなどではないフィルム撮影だけにその迫真性はとんでもない破壊力があります。第1話のダンスホールで踊る男女の中を自在にくぐり抜けては立ち止まり、後半は一転して倒れた老人を凝視するカメラ。第2話では窓越しに壁面を横移動してメゾン・テリエの中を覗きこむ長い長いカットから臨時休業で常連客たちが店の前のベンチでこぼしあう愚痴の場面、列車の客車中の女将テリエ一行が乗り合わせた客ごとに居住まいを変えるシークエンス、田舎農夫のギャバンとの道中と教会の聖体授拝式、食事後にダリューの部屋に忍びこみ姉テリエにつまみ出されるコミカルなシーン、メゾン・テリエに戻った女将テリエが一階から三階まで階段を上がるのを1カットで追うカメラなど見所満載で、さらに誰もが驚くのは第3話で、建物の階段で画家がモデルに出会い会話を交わし始めるのはともかく(音声はオフ)そのまま二人が裏階段から出てくる(画家はモデルを口説き落としている)まで1カットで待機しているシーンにも意表を突かれますが、クライマックスで窓から身を投げるモデルの一人称ショットになり窓から飛び出して落下するカメラワークがあり、フランソワ・トリフォーの『ピアニストを撃て』'60に同趣向のショットがありますが、オフュルス以前ではアベル・ガンスの『ナポレオン』'27で子供たちの雪合戦で雪弾の視点で飛翔するショットやフランス革命時の議会で人々の頭上を往復するカメラワーク、マルセル・レルビエの『金』'28で豆粒のような人々を真上からとらえ垂直に下降していくと証券取引所の光景とわかりそのまま一つのテーブルの上で停止するまでどうやって撮影したのか途方に暮れるような長い長い垂直下降ショットなどサイレント時代の大スケールの実験的芸術映画にわずかに見られるくらいでしょう。オフュルスはナレーションを多用して現実音をオフにすることでサイレントとトーキーの技法の混在を実現してみせ、しかも実験を感じさせない滑らかな映画に仕上げたので、これもゴダールやロメールに先んじてトリュフォーが『突然炎のごとく』'61で踏襲して成功した手法でしょう。とにかく本作ほど規格外の絶品となると前後のギャバン出演作との比較は意味をなさないとも言えるので、『快楽』の「メゾン・テリエ」で農夫役を演じるギャバンはカメオ出演のように気楽で自然体に見えます。熱演作『夜は我がもの』、シリアス極まりない『ベベ・ドンジュ~』が直前にあるだけに、ギャバンとしても映画に身を委ねて楽しんだ出演だったように見えるのです。