人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2018年4月25日~27日/ジャン・ギャバン(1904-1976)主演作品30本(9)

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 余すところ今回と次回であと6作に迫った『ジャン・ギャバンの世界』第1集~第3集収録作品全30作年代順連続感想文ですが、今回は第40作『夜は我がもの』'51(LPC/エクレア・ジャーナル/ピエール・ゲラン・プロダクション製作、ジョルジュ・ラコンブ監督作品=第2集収録)、第41作『ベベ・ドンジュについての真実』'52(ユニオン・ジェネラール・シネマトグラフィーク社製作、アンリ・ドコワン監督作品=第3集収録)、第42作『快楽』'52(ステラフィルムス/C.C.F.C.製作、コロムビア社配給、マックス・オフュルス監督作品=第3集収録)の渋い3作です。『夜は我がもの』は日本公開作品ギャバンヴェネツィア国際映画祭男優賞を獲得させた話題作ですが『ジャン・ギャバンの世界』が日本初(世界初?)DVD化になり、『ベベ・ドンジュについての真実』は日本未公開作品ですがダニエル・ダリューギャバン共演のドコワン監督(ダリューの前夫)の名作と名高いものでこれも『ジャン・ギャバンの世界』が世界初DVD化、またオフュルス監督の名作と日本公開時から定評ある『快楽』はモーパッサンの短編小説3編を原作としたオムニバス映画でギャバンの出演は全3話のうち第2話、フランス本国公開は『ベベ・ドンジュ~』の1週遅れの同月でギャバンダニエル・ダリューとの共演はこちらの方が早く初共演になった作品で、他社から定価5,000円で単品DVD化済みですが廃盤で数倍の中古価格に高騰しており、この5年後に亡くなるオフュルスの最高傑作のひとつとされるのも納得の極めつけの大傑作で、ギャバン主演作とは言えませんが『ジャン・ギャバンの世界』第1集~第3集収録作品30作の中でもルノワールの『どん底』『獣人』、グレミヨンの『愛慾』『曳き船』と並ぶトップクラスの逸品で、今回の『夜は我がもの』『ベベ・ドンジュ~』だってなかなかの出来なのですが、こんなすごい映画を観てしまうと他の映画がかすんで見えるほどの圧倒的な作品です。なお今回も作品紹介はDVDジャケットの作品解説の引用に原題、公開年月日を添えるに留めました。

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●4月25日(水)
『夜は我がもの』La nuit est mon royaume
103分 モノクロ 1951年8月9日(仏)/日本公開1952年2月29日
監督 : ジョルジュ・ラコンブ
出演 : シモーヌ・ヴァレール
鉄道機関士のレーモンは、事故で視力を失ってしまう。絶望と悲しみの日々に明け暮れる中、趣味のラジオ制作を生活に役立てることを勧められ、リハビリ施設に通い始める。そこで盲目の教師ルイーズと出会い……。ヴェネツィア国際映画祭男優賞受賞作。

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 いかにも田舎の光景らしい休日のダンス・パーティーに興じるギャバンの姿から始まり、すぐに汽車の機関士の職務を勤めるギャバンに場面は移ります。蒸気機関の事故で相方は殉職し、レイモン(ギャバン)は独力でエンジンから蒸気を脱いて大事故を防ぎ、レジオン・ド・ヌール勲章を与えられるのですが、蒸気を浴びて盲目になってしまっていて、医師に訊くたび治療期間は長引くと言われる。ギャバンは母と姉夫婦の暮らす実家に身を寄せるが、障害者施設でリハビリしながら作業労働を目指すという医師と実家の家族の勧めに猛反発する。医師と施設のシスターとの相談でギャバンの趣味のラジオいじりに目をつけて家のラジオを故障させ、盲目のラジオ組み立て・修理工を呼んで興味を向けさせ、自発的にラジオ工の仕事の習得のため施設を見学する意欲を持たせる。施設は修道院が運営していて、老若男女問わず集まりいろいろな仕事を修得して働いていますが、障害者の子供たちも多く学校クラスに通っている。機関士の仕事に執着を持つギャバンはラジオ工の仕事は目が治るまでと点字の学習に消極的だが、家族や施設職員には医師からギャバン全盲は回復不可能と知らされている。ギャバンは子供クラスに混じって点字を習うが、若い盲目の点字女教師ルイーズ(シモーヌ・ヴァレール)に手を取って教えられたことから助平心を起こして点字を学ぼうと彼女の家を訪ねて初めて点字学習に意欲を持ちますが、ルイーズは婚約者の施設職員モロー(ジェラール・ウーリー)と暮らしているのを知り、盲者ではないモローに劣等感を抱く。徐々に回復の見込みがないのに気づいたギャバンは嫉妬したモローから回復不可能を告げられて施設に通わなくなり、ついに鉄道自殺を図ろうとして義兄(ロベール・アルヌー)に助けられる。そして……と、ジョルジュ・ラコンブ(1902-1990)は『狂恋』'46で戦時中アメリカに亡命していたギャバンのフランス映画界カムバックを大成功させた監督ですが、あれはマレーネ・ディートリッヒとの共演が呼び物になったのと現代版『カルメン』的な内容に大衆的なヒット性があり、似たような話でも『愛慾』や『獣人』と較べるといかにも映画の次元が通俗にとどまっていて、もっと腕の良い監督なら生かせたと思えるような細部もあまり生かせていない、と欲が出てくるような仕上がりでした。決して大味ではないのですが、要するに中途半端なのです。
 しかし本作ではルノワールやグレミヨンのように大胆ではなく、カルネやクレマンのように細心でもない中途半端さが良い塩梅になっていて、事故で全盲になった元機関士のギャバンの鬱屈に近づきすぎず突き放しすぎず、本人にとっては人生の一大事ですが誰にでも起こり得る事故による身体障害のドラマを平凡な日常として描いていて、題材と話法にちょうど良い距離感がある。盲人となった元機関士というとアベル・ガンスの古典『鉄路の白薔薇』'23を思わせる設定ですが、ガンスのように一大悲劇叙事詩のような大仰な謳い上げはしない。ギャバン点字を習ってもいいかなと思うきっかけも若い女性盲人点字教師に手を触れて教えられたからで、隣の席の男子生徒に替わると機嫌を悪くして授業中に途中退席してしまう。実際に盲学校の協力で製作しているらしく盲学校の状景はドキュメンタリー風でもあり、いろいろな段階の視覚障害者がいてどれだけ異なるハンディキャップの克服があるかをギャバンが施設に通う過程、ギャバン自身が日常生活をこなせるようになっていく過程でくどい説明はなく一筆描きの映像で見せていく。先に書いたあらすじはこの後、自殺未遂事件を起こしたギャバンと女教師と職員の三角関係の行方を追って恋愛映画になっていきますが、恋愛映画としては平凡なものですし、映画の体裁を整えるためのプロットで主眼は障害福祉奨励映画であり、全盲者の役を演じるギャバンの芸を見せる映画で、わかりやすい設定なだけに取り組みやすく演じやすいけれど効果的、と主演のギャバンにとって便利な映画になっています。ヴェネツィア国際映画祭男優賞というのもこういうわかりやすい役で賞を与えたのはギャバンのキャリアに対する功労賞の方が大きいと思いますが、映画賞というのは賞を受ける側だけでなく与える側にも得がなければ意味がないので、本作のギャバンの熱演には世間からの支持が大きくそれに対してのヴェネツィア国際映画祭男優賞だったということでしょう。映画としては無難にまとまった、その限りではなかなかの映画と言うにとどまり特に特筆するようなものはない、題材とギャバンの熱演だけが本作ならではの持ち味になっている程度の作品ですが、それだけに主演男優賞向けの映画にもなり得たので、こういう例(映画は中の上、特定部門だけが白眉)は多くあります。全体が地味で演出が控えめなのも本作では意図的にそういう映画に仕上げたのでしょう。ギャバンじゃなくても演れた映画だと思いますがギャバンが演じたことに意味がある。見応えがあるのもギャバン主演だからこそ、と言えます。シャルル・スパークが台詞監修ですがスパーク脚本らしいはったりもなく、普通の映画を目指して普通の映画になった種類の作品で、それが限界とも言えますが、普通に満足できる映画ではないでしょうか。

●4月26日(木)
『ベベ・ドンジュについての真実』La Verite sur Bebe Donge
110分 モノクロ 1952年2月13日(仏)/日本未公開
監督 : アンリ・ドコワン
出演 : ダニエル・ダリュー
女にだらしのないフランソワ。ベベという愛称の妻エリザベットは、夫の浮気が明らかになっても離婚はしない。結婚後10年が経ち、フランソワは彼女に毒を盛られて、瀕死状態の中で彼女の気持ちを尊重するようになるが……。

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 ジョルジュ・シムノン原作でアンリ・ドコワン(1890-1969)監督の本作は瀕死の重態で入院しているギャバンのモノローグから始まり、2日前に妻のべべ(ダニエル・ダリュー)に水銀入りのコーヒーを飲まされて急性腎臓炎で昏倒し入院するまでの、ダリューとの馴れ初めから10年間の結婚生活の回想とギャバンの容態の悪化、そして夫に毒を盛った妻のダリューの様子が平行して語られます。ギャバンは実業家で、プロポーズ前から結婚に愛の誓いは不要と公言するような男で、結婚後も次々と浮気して妻に遠慮することがない。入院している病院もギャバンが愛人にしている人妻の夫の医師(ジャック・カストロ)を院長にするためにスポンサーになったもので、主治医のカストロも妻の不貞でギャバンがスポンサーになった事情を知っているが黙認している。この主治医は小品佳作『ヴィクトル』'51でギャバンが自分の妻への思慕のために身代わりにギャバン自身から偽証事件の冤罪を被ったのを当然と思っている冷徹な実業家マルクを演じたのと同じ俳優で、『ヴィクトル』でも主役のギャバンを食ってしまうほどに強烈に食えない男を見事に演じていましたが、演劇畑のバイプレイヤーで舞台の方が本職ながら、後年までけっこう映画出演作も多いようで案外他の作品でも観ているかもしれません。ギャバンの容態悪化の場面ではこのカストロが主治医で出ずっぱりなので、『ヴィクトル』での準主演級の役柄とまではいきませんがフランス映画の層の厚さを感じさせる、抑えた演技で微妙なニュアンスを表現できるいい俳優です。また『面の皮をはげ』'47で出番は少ないながら重要な役を勤めた女優のガブリエル・ドルジアギャバンとダリューの仲人役で結婚前~現在にいたるギャバン夫婦のご意見番的な役柄で『面の皮をはげ』以上に出番の多い重要な役で、本作でも要所要所からラストシーンまでギャバンとダリューのドンジュ夫妻の運命を見守る役柄です。ギャバンとダリューに次いで重要なキャストはドルジアとカストロなので、映画の内容の暗さ・冷たさと併せてキャストもあまりに渋いので本作は日本未公開になったのでしょう。こう言っては何ですがドコワン監督作、ジャン・ギャバン出演作、あるいはダニエル・ダリュー出演作は全部観るくらいのドコワン、ギャバン、またはダリューのファンでもなければ本作が単品DVD化されていても食指は伸びないと思います。そのくらい地味で渋く、しかも暗くて冷たい映画です。
 しかし世界にはまだ正義が存在する証拠が本作のひっそりとしたDVD化で、ドコワンはそれこそデュヴィヴィエより年長の映画監督ですが、これは戦後映画でなければできなかったような題材と内容、作風で、国民作家シムノンの原作自体に由来するとしても的確に映画になっているからにはドコワン自身のものになっていると認めるべきですが、現実に照らした人生観の認識とその真実性が'30年代フランス映画のムード的ペシミズムとは比較にならないくらい強く徹底している。瀕死の床でギャバンは病室の戸口に立って近づかない妻のダリューに「俺は治る。愛しているよ。やり直そう」と語りかけますが、ダリューは「私は愛していない。終わったのよ」と応えます。ギャバンは微笑んで同じことを言う。ダリューは無表情のまま同じ応えを返す。10年間一度もわかりあえなかった夫婦の年代記を描いて、この映画はペシミズムでもなければテーマや技巧としてのリアリズムでもなく、実在し得るこうした夫婦の関係を人間性の真実の一端として描いてみせます。ダリューはついに思いつめて夫を毒殺することになりますが、揃いのコーヒーカップの片方に水銀を入れたので自分か夫のどちらでもよく、また夫が水銀入りの方を飲んでもすぐ自分が犯人と特定されるのを承知の上で実行している。もしダリューが自分で飲んでしまった場合はどうするかは、逮捕された場合も含めてダリューが書き置きしている様子が映される。この決してわかりあえない夫婦関係はベルイマンがフォール島三部作(『狼の時刻』'68、『恥』'69、『情熱の島』'69)や『ある結婚の場景』'74で取り上げるテーマの先駆をなしていて、ベルイマンの場合それはエゴイズムの衝突という明快な図式化にヴァリエーションを求めたものだったのに対し、本作のドンジュ夫妻の場合はエゴイズムの衝突以前に一種の共依存関係を続けていて、共依存そのものが夫婦関係の実態なので円満にせよ揉めるにせよ離婚という選択肢は出てこない。どちらかが生存する限り共依存関係のパートナーシップが続くので、そこから解放されるのは心中でもなく一方の死しかない、と妻は考える。かたや夫の方は回復して自分に毒を盛った妻を許せば夫婦関係はやり直せると考える。過去の回想はともかく、瀕死のギャバンの容態悪化を描いた現在のシーンではギャバンとダリューが同じフレームで映されることは決してありません。病室を訪れるダリューが戸口より近くにギャバンに近づかないからですが、構図の取り方によっては縦にロングで同じフレームに映す、またはパンして1カットでギャバンとダリューをとらえることもできるでしょう。それがないのは現在のギャバンとダリューが関係認識の次元で別々の世界に分かれてしまったからで、一見気づかないこうした描き分けにもドコワンの勘の良さを感じます。この映画の冷たさは共感できる人物をまったく登場させないほど徹底していて、なのに展開から目が離せない緊迫感があり、ラテン系民族というと開放的な面ばかり強調されがちですが数学と解剖学と唯物論の民族でもあるのをこの冷たさから痛感します。本作がドコワンの隠れた名作と言われるのもあながち過褒ではないと思います。

●4月27日(金)
『快 楽』Le Plaisir
93分 モノクロ 1952年2月29日(仏)/日本公開1953年1月19日
監督 : マックス・オフュルス
出演 : ダニエル・ダリュー
モーパッサンの小説を元にした三つのオムニバス映画。第1話は若い頃を忘れられず夜遊びを繰り返す夫に手を焼く妻。都会から離れ田舎で遊ぶ娼婦たちを描いた第2話。第3話ではモデルのおかげで売れた画家の心変わりを描く。

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 オーストリア~ドイツ~フランス~アメリカ~フランスと生涯を転々とした隠れた巨匠マックス・オフュルス(1902-1957)は作品があまりに各国・各社に分散しているためまとまって上映を観られる機会が少なく、映像ソフト化された作品もVHSやLD時代から少なかった上に、大半の作品がパブリック・ドメインになった現在もあまりDVD化が進んでいると言えない監督で、観られているのは『忘れじの面影』'48、『輪舞』'50、本作『快楽』'52、『たそがれの女心』'53、『歴史は女で作られる』'55くらいではないでしょうか。溝口健二が『西鶴一代女』'52で国際的注目を浴びた以降の溝口作品の世界的紹介よりもオフュルス作品の全般的紹介は進んでいないのではないかと思います。本作の日本公開は溝口の『雨月物語』'53(3月26日公開)の2か月前ですが、溝口は本作の日本公開を観たでしょうか。モーパッサンの短編小説3編を原作にしたオムニバス映画というのも『雨月物語』にモーパッサンの短編から得たアイディアを採り入れているくらいモーパッサンの愛読者だった溝口には癪に触ったでしょうし、溝口以上に徹底したワンシーン・ワンカット手法で仕上げてオムニバス映画以上の流れるような統一感がある本作は溝口より年少で監督デビューも後の監督なだけにこんなに忌々しい映画はなかったでしょう。しかもオフュルスの本作は溝口のような強烈な現実への怒りから生まれたものではなく、ジャン・ルノワールと通じる豊かな肯定性を感じさせるものです。黒画面から語りかけるナレーションに続いて第1話に相当する「仮面の男」の物語が始まり、タイトル画面による区切りはなくナレーションによって第2話の「メゾン・テリエ」が始まり、第3話の「モデル」はナレーションで第1話を「快楽と愛の対立」で第2話を「快楽と純潔の出会い」なら、これから始まる第3話は「快楽と死……死といっても肉体ではなく精神的な死」と前置きし、主人公の画家の友人の新聞記者が語り手である「私」になります。
 仮面の青年に変装してダンスホールで踊って倒れた伊達男のなれの果ての老人とその妻(ギャビー・モルレー)を医師(クロード・ドーファン)の視点から描いた第1話、田舎の弟(ジャン・ギャバン)夫婦の娘の聖体授拝式(洗礼式)に招かれた娼館「メゾン・テリエ」の女将テリエ(マドレーヌ・ルノー)が休暇を兼ねて娼館の娘たち(ダニエル・ダリューら)を引き連れ田舎を訪ねて村人に貴婦人たちと思われ上機嫌になり、聖体授拝式で涙を流す、ルノワールの『ピクニック』'37との類似を指摘される第2話(ギャバンの出演はこの第2話のみ)、貧乏画家(ダニエル・ジェラン)がモデル(シモーヌ・シモン)に惚れこんで売れっ子画家になったが飽きてしまい、別れ話から投身自殺未遂されて障害者になった彼女を一生面倒みることになる第3話とストーリー自体も面白いものばかりで、これが重なりあってオムニバス映画以上の効果が出ているアイディアと構成の巧さも舌を巻くばかりですが、撮影のすごさがありありと伝わる映像は圧巻で、CGなどではないフィルム撮影だけにその迫真性はとんでもない破壊力があります。第1話のダンスホールで踊る男女の中を自在にくぐり抜けては立ち止まり、後半は一転して倒れた老人を凝視するカメラ。第2話では窓越しに壁面を横移動してメゾン・テリエの中を覗きこむ長い長いカットから臨時休業で常連客たちが店の前のベンチでこぼしあう愚痴の場面、列車の客車中の女将テリエ一行が乗り合わせた客ごとに居住まいを変えるシークエンス、田舎農夫のギャバンとの道中と教会の聖体授拝式、食事後にダリューの部屋に忍びこみ姉テリエにつまみ出されるコミカルなシーン、メゾン・テリエに戻った女将テリエが一階から三階まで階段を上がるのを1カットで追うカメラなど見所満載で、さらに誰もが驚くのは第3話で、建物の階段で画家がモデルに出会い会話を交わし始めるのはともかく(音声はオフ)そのまま二人が裏階段から出てくる(画家はモデルを口説き落としている)まで1カットで待機しているシーンにも意表を突かれますが、クライマックスで窓から身を投げるモデルの一人称ショットになり窓から飛び出して落下するカメラワークがあり、フランソワ・トリフォーの『ピアニストを撃て』'60に同趣向のショットがありますが、オフュルス以前ではアベル・ガンスの『ナポレオン』'27で子供たちの雪合戦で雪弾の視点で飛翔するショットやフランス革命時の議会で人々の頭上を往復するカメラワーク、マルセル・レルビエの『金』'28で豆粒のような人々を真上からとらえ垂直に下降していくと証券取引所の光景とわかりそのまま一つのテーブルの上で停止するまでどうやって撮影したのか途方に暮れるような長い長い垂直下降ショットなどサイレント時代の大スケールの実験的芸術映画にわずかに見られるくらいでしょう。オフュルスはナレーションを多用して現実音をオフにすることでサイレントとトーキーの技法の混在を実現してみせ、しかも実験を感じさせない滑らかな映画に仕上げたので、これもゴダールロメールに先んじてトリュフォーが『突然炎のごとく』'61で踏襲して成功した手法でしょう。とにかく本作ほど規格外の絶品となると前後のギャバン出演作との比較は意味をなさないとも言えるので、『快楽』の「メゾン・テリエ」で農夫役を演じるギャバンカメオ出演のように気楽で自然体に見えます。熱演作『夜は我がもの』、シリアス極まりない『ベベ・ドンジュ~』が直前にあるだけに、ギャバンとしても映画に身を委ねて楽しんだ出演だったように見えるのです。