人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

現代詩の起源(18); 八木重吉詩集『秋の瞳』大正14年刊(x)高橋新吉詩集『戯言集』との比較(2)

[ 八木重吉(1898-1927)大正13年1924年5月26日、長女桃子満1歳の誕生日に。重吉26歳、妻とみ子19歳 ]

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八木重吉詩集『秋の瞳』
大正14年(1925年)8月1日・新潮社刊

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[ 高橋新吉(1901-1987)、辻潤編集解説・佐藤春夫序文・第1詩集『ダダイスト新吉の詩』'23刊行の頃 ]

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高橋新吉詩集(創元選書版)
創元社・昭和27年(1952年)2月15日刊

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高橋新吉詩集 戯言集
読書新聞社・昭和9年(1934年)3月15日刊

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 高橋新吉は長い詩歴を誇った人で、86歳で逝去する最晩年まで新作詩集を発表していましたから80年代半ばには高橋新吉草野心平(1903-1988)、小野十三郎(1903-1996)は死なないんじゃないかと思われていました。高橋らよりやや年長で長命だった詩人に西脇順三郎(1894-1882)、金子光晴(1895-1975)がおり、西脇は88歳の長命でしたが80歳を限りに詩作を止めており、金子はあと半年で80歳の歳に亡くなりましたが逝去直前まで詩作は旺盛で執筆半ばの新作長編詩が遺稿となりました。高橋、草野、小野らは80歳を越えても毎年のように新作詩集を出していたので(もっとも長命だった小野は逝去直前の93歳になっても新作を書いていました)逝去するまで現役感を保ち続けていました。それゆえ高橋の場合、同世代の数々の夭逝・早逝詩人に劣らず、それどころかもっと深刻な危機を青年時代に通ってきた詩人という実感が湧きづらいのです。また、戦後の代表作、


 日が照つてゐた

 今から五億年前に
  (「日」全行)


 留守と言へ
 ここには誰も居らぬと言へ
 五億年経つたら帰つて来る
  (「るす」全行)


 などは、のちに「禅の詩人 (Zen-Poet)」として欧米に紹介されることになる中年期以降の高橋新吉の作風を端的に表す作品として著名になりました。上記2編は同一の着想ですが収録詩集『高橋新吉の詩集』'49(昭和24年刊)の巻頭詩・巻末詩ですから着想の照応を意図したものです。『高橋新吉の詩集』に続く高橋の詩集は初の全詩集『高橋新吉詩集(創元選書版)』'52(昭和27年刊)ですが、同詩集は詩集1冊分の新作詩集の部があり、その巻頭2編は、


 宇宙は 俺だけのものだ

 俺が宇宙だ
  (「宇宙」全行)


 物は無限にあるから 何でも人にやるがよい

 命などは殊に人にやるがよいのだ
  (「物」全行)


 これらも発想は同じですが、次の詩集『胴体』'56(昭和31年刊)にはこんな一見するとさりげない詩もあります。


 朝顔の花は 颱風に切断された

 広い原つぱだつた

 蟻一匹匍つてはいなかつた

 まだ 声が聞える

 何でも無限にある

 私はまだ生れておらぬ

 この空気が波立たず

 しずかなように

 誰もお前が

 キリストよりも早く

 生れたとは言わないよ
  (「颱風」全行)


 また選詩集『高橋新吉詩集 (角川文庫版)』'57(昭和32年刊)収録の新作詩集の部には、当時問題だった原水爆実験を題材に、


 私は思考能力を失つた犬である
 下水の上を流れる雲である
 死に損ないの猫である
 花を腐らす雨である

 私は目をつぶつて 鼻の穴をふくらましている
 原子灰で汚れた空気を吸つてゐる

 私が半減する前に 十億年はかかるだろう
 あなたの骨髄に密着し 浸透して
 私は余生を楽んでゐる

 血だとか心だとか そんなものは私のどこにもない
 すでに核分裂して 元素に過ぎない私である
 爆発して 一切の空間を無に帰して
 そこから 私は走り出す
  (「爆発」全行)


 これは単なる核実験批判に終わっていない見どころのある詩です。また続く詩集『鯛』'62(昭和37年)の佳作には、


 スペインの宮廷画家ヴエラスケスに
 中原中也像がある

 中也は白痴では決してなかつたが
 ヴエラスケスは
 手の短い男が足を投げ出している無頼な姿を描いている

 三百年以前にヴエラスケスは死んでいるが
 中也は死んでからまだ二十年あまりだ

 それなのにわが愛する詩人中也を
 ヴエラスケスがモデルにしているのは不思議である
 画家の才能の豊富さに驚嘆するのである

 中也もまたのこのこと
 スペインの王室へ乗り込んで
 ヴエラスケスと馬を合せているのだから
 彼の厚顔にも驚くが

 ヴエラスケスの発音から淫猥の響きを削り
 ロケツトに挑むドン・キホーテを魂に平安あれ

 などと中也が毒舌をふるつて
 ヴエラスケスにからんでいたろうと思うと愉快だ

 中也の唯一の友であり思想であつた
 金属性の山羊に
 在りし日の彼の孤独な姿を歌わせたい
  (「中也像」全行)


 これは知己ならではの親近感にあふれた好編でしょう。中原中也(1907-1937)は高橋の第1詩集『ダダイスト新吉の詩』'23を刊行直後から愛読して高橋からの影響の強い詩から詩作を始めており、早くからダダイストを表明して上京後も小林秀雄ら主宰の同人誌「文学界」を通して高橋のパトロンだった佐藤春夫に面会し、また高橋、宮澤賢治の参加していた草野心平ら主宰の同人誌「歴程」にも加入して直々に親好がありました。中原は没後発見された日記に高橋を「美しい心の持ち主」と敬愛を表明し、また別の日付の有名な一節には日本に詩人は5人しかいない、とし岩野泡鳴、三富朽葉佐藤春夫宮澤賢治高橋新吉の名を上げています。泡鳴、朽葉は中原が上京する以前の大正時代に亡くなっていますし、中原より3年早く亡くなった宮澤賢治岩手県在住の小学校教員で面識の機会はなかったので、直接会って一層敬愛の念を深めた点では中原がもっとも慕っていた詩人は高橋だったと言えそうです。佐藤春夫については一人一派型のボヘミアン詩人の風格があり、辻潤高橋新吉を理解して自らも自由闊達な詩を書いていた唯一の旧派詩人で、また門弟3,000人と言われたほど佐藤は自分を訪ねてくる文学青年に面倒見の良い人でした。その門弟3,000人には高橋はもちろん中原も含まれることになります。この詩は平坦な表現も目立ちますが、手足の短く割合ずんぐりした体型だったという中原中也の風貌やたちの悪いからみ酒だったという伝説、何より「彼の厚顔にも驚くが」という1行が効いています。

 高橋新吉の詩は真に優れた詩と言えるかと言うと難点が目立つ作品が多く、まず詩が思考や心情の表明や解説としてじかに表れていること、それがともすれば警句や標語の次元にとどまっていることに問題があります。「日が照つてゐた//今から五億年前に」や「宇宙は 俺だけのものだ//俺が宇宙だ」、「物は無限にあるから 何でも人にやるがよい//命などは殊に人にやるがよいのだ」などは警句・標語止まりの詩と言ってしまえばそれまでですし、「留守と言へ/ここには誰も居らぬと言へ/五億年経つたら帰つて来る」も意見表明でしかない。高橋の発想法がぎりぎり成功している例が「颱風」で、「朝顔の花は 颱風に切断された//広い原つぱだつた//蟻一匹匍つてはいなかつた//『まだ 声が聞える』//『何でも無限にある』//『私はまだ生れておらぬ』//この空気が波立たず//しずかなように//誰もお前が//キリストよりも早く//生れたとは言わないよ」のうち客観叙述は『』以外の部分で『』内は語り手の判断ですが、『まだ 声が聞える』『何でも無限にある』『私はまだ生れておらぬ』が主観的判断で「誰もお前が//キリストよりも早く//生れたとは言わないよ」が客観叙述なのは、この末尾3行は中間3行と異なって判断主体がなくても成立し、「言わないよ」の「よ」だけで呼びかけの表現になっていますが、語り手の存在を前提としなくても成り立つからです。この「誰もお前が」の「お前」は文脈的には語り手が自分自身に言い聞かせている「お前」なのですが、狭く限定せず読者全員に対した呼びかけにもなっています。「誰もお前が//キリストよりも早く//生れたとは言わない(よ)」というのはキリスト教ではイエス・キリストによって救済されるまでの人類史は神からの直接の救済以外信仰による福音は授けられなかった(キリストの登場によって初めて信仰による福音が授けられるようになった)とされるからで、「お前が//キリストよりも早く//生れた」と言われればそれは「お前」は信仰による福音に与れなかった、救いはなかったという意味ですが、「誰もお前が//キリストよりも早く//生れたとは言わない(よ)」と言えばそれを打ち消す表現になります。詩の前半の情景、「朝顔の花は 颱風に切断された//広い原つぱだつた//蟻一匹匍つてはいなかつた」の客観叙述に続いて『まだ 声が聞える//何でも無限にある』//私はまだ生れておらぬ』と主観的判断があり、後半は「この空気が波立たず//しずかなように」が前半から導く副詞節となって「誰もお前が//キリストよりも早く//生れたとは言わないよ」と颱風後の光景に託した主題が現れる。この構成は高橋の典型的な発想法を自然に詩として自立した作品に仕上げていて、内容と文体、手法の調和がとれている佳作となっています。
 また「爆発」は当時盛んだった先進国の核実験批判詩運動からの依頼によって書かれたと思われる作品ですが、原水爆実験の爆発そのものの一人称という高橋ならではの発想によって書かれることで社会批判的な詩にはなっておらず、理科学現象としての核爆発のみを描き、非情な次元に原水爆実験と副次的現象を限定することでかえって核実験の非人間性に焦点を当てています。「爆発して 一切の空間を無に帰して/そこから 私は走り出す」という結びに詩人の勘の良さが働いています。

 しかし深刻な統合失調症発症と3年間の療養生活から復帰した最初の詩集『戯言集』'34(昭和9年刊)の主眼をなす長編連作詩「戯言集」全67編については、単に警句や標語にとどまる断片、単調な人生観の表明や療養生活の報告が詩的に自律性を持った詩編と混在しており、割合から見れば自立した詩編はごく少なくて大半が人生観や生活報告、次いで警句や標語の次元でしかない断片が多く、全体から受ける印象はメモの集積から成る入院日記というものです。考慮しなければならないのは高橋の病状は性質上陽性悪化時には完全に創作力を奪う種類の病気で、高橋のように3年間慢性状態が続いた患者は完全な社会復帰はほぼかなわないもので、単調な作業労働も困難であれば、なおさら高い創造力を必要とする芸術家では創作力の回復はほとんど不可能というのが病理学的には常識になっています。フリードリヒ・ヘルダーリーン(1770-1843)は36歳の統合失調症の慢性化後、後半生36年間を寺男として過去の記憶を失ったまま送りましたし、フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)は1888年統合失調症の慢性化後一切文筆活動不可能のまま逝去までの12年間を過ごしました。またシャルル・ボードレール(1821-1867)は21歳で相続した数億円の遺産を2年で使い果たして破産し禁治産者となった、青年期には病跡学的には双極性障害と推定される生活サイクルを送った詩人ですが、40歳を過ぎる頃から性病と不摂生から体調の悪化があり、晩年2年で急速に統合失調症の発症と慢性化が起こって急逝します。フランス19世紀の詩人ではボードレールに先立ってジェラール・ド・ネルヴァル(1808-1855)が青年時代から文筆活動の一方で統合失調症の悪化と寛解から11回の入退院をくり返し、街頭での縊死自殺にいたるまで精神病に苦しみました。ネルヴァルの場合は陽性時と陰性時に向かう病理が寛解期に作品化されていたので、19世紀のうちは一種の神秘主義作家と思われ、精神医学的解明の進んだ20世紀になってようやく病跡学による生活史から作品理解が進んだ詩人です。
 八木重吉が学生時代もっとも傾倒した北村透谷(1868-1894)も晩年2年間に急激に悪化した精神病から街頭で縊死しており、透谷の場合上記の詩人たちと異なり医学的記録が残されていないのですが、病跡学的な推定では双極性障害から重篤統合失調症に進んで慢性化したと考えられています。中原中也も晩年2年に長男を乳児のうちに亡くしたのをきっかけに統合失調症の悪化から療養し、寛解時に退院して帰郷し、郷里で病死しています。中原は慢性化が起こらずに亡くなりましたが、慢性化に進んだ場合はほぼ創作力の回復はかなわないのがほとんどの例なのは上記の通りなので、高橋新吉の復帰はいかに例外的な回復だったかを念頭に置く必要があります。長編連作詩「戯言集」はそうした過程を経て書かれた作品です。

(引用詩のかな遣いは原文に従い、用字は当用漢字に改め、明らかな誤植は訂正しました。)
(以下次回)