人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

中原中也「含羞(はぢらひ)」昭和11年(1936年)

中原中也明治40年(1907年)4月29日生~
昭和12年(1937年)10月22日没(享年30歳)
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含羞(はぢらひ)

 ――在りし日の歌――

なにゆゑに こゝろかくは羞(は)ぢらふ
秋 風白き日の山かげなりき
椎の枯葉の落窪に
幹々は いやにおとなび彳(た)ちゐたり

枝々の 拱(く)みあはすあたりかなしげの
空は死児等の亡霊にみち まばたきぬ
をりしもかなた野のうへは
「あすとらかん」のあはひ縫ふ 古代の象の夢なりき

椎の枯葉の落窪に
幹々は いやにおとなび彳ちゐたり
その日 その幹の隙 睦みし瞳
姉らしき色 きみはありにし

その日 その幹の隙ひま 睦みし瞳
姉らしき色 きみはありにし
あゝ! 過ぎし日の 仄(ほの)燃えあざやぐをりをりは
わが心 なにゆゑに なにゆゑにかくは羞ぢらふ……

(「文學界昭和11年=1936年1月)


 明治~戦前の昭和詩人、文学者には裕福な実家の人が多く、白樺派の文学者はもとより、宮澤賢治太宰治は大地主の豪農の長男でしたし、萩原朔太郎佐藤春夫中原中也(1907-1937)はやはり裕福な代々の医家に生まれています。有島武郎のように農地を解放してしまったり、宮澤賢治のように豪農の実家を恥じて教員生活と自主的な農民事業に当たった人もいましたが、多くのボヘミアンの文学者は実家の経済力の後ろ盾で学業を終えても文筆活動を行えたので、萩原や中原は生涯就職せずに詩人・文筆活動に専念していました。その是非はともかく、30歳の享年までに2冊の詩集(と、のちに5巻あまりの全集にまとめられる多くの詩集未収録詩篇、散文)を残した中原中也が昭和の詩人でも群を抜いて現在までも多くの愛読者を持つ詩人なのは言うまでもありませんし、その大衆性に戦後詩人たちの批判を受けながらも中原中也の詩は広い読者に訴えるだけのことはある優れたものです。この詩「含羞」は中原が東京生活を切り上げ郷里に帰る決意をした最晩年にまとめられ、友人の小林秀雄に託してあった詩集『在りし日の歌』の巻頭詩でありサブタイトルの通り詩集表題作ですが、詩集原稿を小林秀雄に託した直後に中原は結核の悪化で鎌倉の病院に入院し、郷里に帰ることなく重篤状態のまま亡くなっています。詩集は小林を始めとする「文學界」同人の尽力で中原逝去の翌年、昭和13年(1938年)4月に刊行されましたが、急逝のいきさつからこの詩集のタイトルは中原自身が遺稿詩集を悟ったものと誤解されがちです。また中原は長男・文也を2歳の誕生日から間もなくして亡くしていますが、文也の急逝は昭和11年11月で「含羞」が創作・発表された時には文也の病死は思いもよらないことでした。この詩は「空は死児等の亡霊にみち」という行から長男の急死を悼んだものと読み違えられやすく、長男・文也の急死の翌月には次男・愛雅が生まれていますが、文也の急死によって中原は言動がおかしくなるほどの精神的打撃を受け、「8歳児程度の状態」と診断されて1か月間精神病院に入院しています。中原は子供には恵まれず、中原逝去の3か月後の昭和13年1月には次男・愛雅も病死しており、中原の未亡人は文学者とは無関係な嫁ぎ先に再婚しています。中原自身が編集した詩集は昭和9年(1934年)12月刊行の『山羊の歌』(収録詩篇44篇)、没後刊行の『在りし日の歌』(収録詩篇58篇)がありますが、主に初期に書かれた未発表詩篇、詩集未収録詩篇を合わせた合計は350篇ほどで、『中原中也全集』で全詩集を読むと初期の作品から「死児」「死んだ赤ん坊」を詠んだ詩篇が20篇弱ほどあるのです。期せずして「含羞」は長男・文也、そして翌年病没する中原自身への追悼詩のような位置に落ち着いてしまったのです。

 中原の詩は必ずしもスケールの大きさを誇るようなものではなく、同時代の詩人からは歌謡詩的な軽さが批判され、戦後の詩人からは個人的な心境詩にとどまるものではないかという批判を受けてきました。しかし中原の詩は文語詩や五七律・七五律の詩であっても明治時代や大正時代の詩とははっきり違った、昭和以降の詩ならではの屈折が表れているのが認められたのは、戦後も20年以上が経った昭和40年代以降のことでした。また中原が『山羊の歌』に収めた初期作品は大正13年(1924年、17歳)以降のものですが、中原自身が本格的な自分自身の処女作と自負する「朝の歌」から晩年近くの「含羞」には格段な発想と表現の深化が見られます。

朝の歌


天井に 朱(あか)きいろいで
 戸の隙を 洩(も)れ入る光、
鄙(ひな)びたる 軍楽(ぐんがく)の憶(おも)ひ
 手にてなす なにごともなし。

小鳥らの うたはきこえず
 空は今日 はなだ色らし、
倦(う)んじてし 人のこころを
 諫(いさ)めする なにものもなし。

樹脂の香(か)に 朝は悩まし
 うしなひし さまざまのゆめ、
森並(もりなみ)は 風に鳴るかな

ひろごりて たひらかの空、
 土手づたい きえてゆくかな
うつくしき さまざまの夢。

(大正15年=1926年5月作、昭和4年=1929年10月「白痴群」発表、詩集『山羊の歌』昭和9年=1934年12月刊収録)

 この「朝の歌」も「含羞」も一読すると中原自身の心境詩のような印象があるのですが、それは中原の計算ずくなので、一読ごく個人的な心境を小ぶりな抒情詩にまとめたようでいて詩の眼目はむしろ「心境詩」という見かけを含めた幻想感覚の詩であることに気づかされます。中原が生涯敬愛した高橋新吉ダダイズム詩もそのようなものでしたし、中原は明治・大正の詩人では日記に「岩野泡鳴・三富朽葉佐藤春夫高橋新吉宮澤賢治」とこの5人だけを認める記述があり、また日記の別の箇所には「世界に詩人はまだ三人しかをらぬ。ヴェルレエヌ。ラムボオ。ラフォルグ。ほんとだ!三人きり」とも書いていますが、宮澤賢治自費出版詩集『春と修羅』が夜店でゾッキ本として売られているのをまとめて買い上げて詩友たちに配ったり、同年生まれの『ウルトラマリン』の詩人・逸見猶吉とは気が合い逸見と二人で先輩詩人たちを訪問して歩いたりしています。宮澤賢治は高い人気を誇っているといっても著名な数篇に限られ、浩瀚な全詩集はほとんどの読者には通読不可能でしょう。逸見猶吉の詩の広大な構想と難解な攻撃性は今でも広い読者を持っているとは言えません。中原中也蒲原有明の名を上げていませんが、岩野泡鳴は有明と表裏一体の詩人であり、高橋新吉に連なる素質の詩人でした。中原中也の詩のポピュラリティーボヘミアン的な伝記的伝説化と一見した詩の取っつきやすさ(そしてまた18歳の時に撮られた加工された銅版写真のイメージ)が大きいでしょうが、本質的には中原中也は上記の詩人たちと同じ系譜にある幻視感覚の詩人でした。それは「朝の歌」「含羞――在りし日の歌――」の2篇からも明らかで、正真正銘体験の美的フィクション化にいそしんだ立原道造の抒情詩とははっきり対立するものです。