人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

現代詩の起源(18); 八木重吉詩集『秋の瞳』大正14年刊(xv)『秋の瞳』収録詩編の分類(4)

[ 八木重吉(1898-1927)大正13年1924年5月26日、長女桃子満1歳の誕生日に。重吉26歳、妻とみ子19歳 ]

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 これまで八木重吉の第1詩集『秋の瞳』を何度も読み返し、その全117編の収録詩編は、

●(a)詩的表現が断片的に過ぎ、生活報告や心境告白に留まるもの……「序」+40編
●(b)詩としては断章的で、警句や意見表明の次元で成立するもの……41編
●(c)一編の詩として自律性の高い、独立した短詩と見なせるもの……36編

 ―― と、分けてきました。より簡単には、

●(a)生活詩・心境詩……40編
●(b)箴言詩(警喩詩・思想詩・断章詩)……41編
●(c)純粋詩……36編

 ―― ですが、詩集『秋の瞳』のうちもっとも問題になり、八木の詩の特異な性格を表すのは(b)警喩詩・思想詩・断章詩(詩としては断章的で、警句や意見表明の次元で成立するもの)になると思います。前回も触れた通り八木にとっての詩意識は前記のような内容上の分類は了解していたと思われ、それは詩集全体では(a)(b)(c)に分けられる詩編断章が編数においても詩集構成の配列においてもほぼ均等であることで示されていると判断できますが、反面文体の同一性やはそうした区分を超えて、八木にとっては同一の詩意識で成立した詩編であることをうかがわせ、詩集編纂の時点でのみ詩集編集者として自作の傾向を客観的分類の上に選択・配列したと思われるので、作詩時には八木は方法意識による書き分けは行わなかったと考える方が妥当でしょう。その場合もっとも独立した自律性に欠けるのは(b)に属する詩編であり、これを詩編ごとに表題をつけて独立した詩編として詩集に収録したのは、初出となった原型の小詩集では多くが小詩集単位で詩編各編は無題で断章を収録していたのとは大きく異なり、詩編単位の鑑賞をも前提とした点で『秋の瞳』の中でも異彩を放つことになったので、いま一度、
●(b)警喩詩・思想詩・断章詩(詩としては断章的で、警句や意見表明の次元で成立するもの)……41編
 を取り出してみたいと思います。

八木重吉詩集『秋の瞳』
大正14年(1925年)8月1日・新潮社刊

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  (5)フヱアリの 国

夕ぐれ
夏のしげみを ゆくひとこそ
しづかなる しげみの
はるかなる奥に フヱアリの 国をかんずる


  (6)おほぞらの こころ

わたしよ わたしよ
白鳥となり
らんらんと 透きとほつて
おほぞらを かけり
おほぞらの うるわしいこころに ながれよう


  (9)しづかな 画家

だれでも みてゐるな、
わたしは ひとりぼつちで描くのだ、
これは ひろい空 しづかな空、
わたしのハイ・ロマンスを この空へ 描いてやらう


  (10)うつくしいもの

わたしみづからのなかでもいい
わたしの外の せかいでも いい
どこにか 「ほんとうに 美しいもの」は ないのか
それが 敵であつても かまわない
及びがたくても よい
ただ 「在る」といふことが 分りさへすれば、
ああ ひさしくも これを追ふにつかれたこころ


  (13)花になりたい

えんぜるになりたい
花になりたい


  (14)無造作な 雲

無造作な くも、
あのくものあたりへ 死にたい


  (17)劒(つるぎ)を持つ者

つるぎを もつものが ゐる、
とつぜん、わたしは わたしのまわりに
そのものを するどく 感ずる
つるぎは しづかであり
つるぎを もつ人は しづかである
すべて ほのほのごとく しづかである
やるか!?
なんどき 斬りこんでくるかわからぬのだ


  (18)壺のような日

壺のような日 こんな日
宇宙の こころは
彫みたい!といふ 衝動にもだへたであらう
こんな 日
「かすかに ほそい声」の主(ぬし)は
光を 暗を そして また
きざみぬしみづからに似た こころを
しづかに つよく きざんだにちがひあるまい、
けふは また なんといふ
壺のような 日なんだらう


  (20)かなしみ

このかなしみを
ひとつに 統(す)ぶる 力(ちから)はないか


  (22)心 よ

ほのかにも いろづいてゆく こころ
われながら あいらしいこころよ
ながれ ゆくものよ
さあ それならば ゆくがいい
「役立たぬもの」にあくがれて はてしなく
まぼろしを 追ふて かぎりなく
こころときめいて かけりゆけよ


  (23)死と珠(たま)

死 と 珠 と
また おもふべき 今日が きた


  (27)花と咲け

鳴く 蟲よ、花 と 咲 け
地 に おつる
この 秋陽(あきび)、花 と 咲 け、
ああ さやかにも
この こころ、咲けよ 花と 咲けよ


  (30)玉(たま)

わたしは
玉に ならうかしら

わたしには
何(なん)にも 玉にすることはできまいゆえ


  (34)泪(なみだ)

泪、泪
ちららしい
なみだの 出あひがしらに

もの 寂びた
哄(わらひ) が
ふつと なみだを さらつていつたぞ


  (36)竜舌蘭

りゆうぜつらん の
あをじろき はだえに 湧く
きわまりも あらぬ
みづ色の 寂びの ひびき

かなしみの ほのほのごとく
さぶしさのほのほの ごとく
りゆうぜつらんの しづけさは
豁然(かつぜん)たる 大空を 仰あふぎたちたり


  (37)矜持ある 風景

矜持ある 風景
いつしらず
わが こころに 住む
浪(らう)、浪、浪 として しづかなり


  (38)静寂は怒る

静 寂 は 怒 る、
みよ、蒼穹の 怒(いきどほり)を


  (45)おもひで

おもひでは 琥珀(オパール)の
ましづかに きれいなゆめ
さんらんとふる 嗟嘆(さたん)でさへ
金色(きん)の 葉の おごそかに
ああ、こころ うれしい 煉獄の かげ

人の子は たゆたひながら
うらぶれながら
もだゆる日 もだゆるについで
きわまりしらぬ ケーオスのしじまへ
廓寥と 彫られて 燃え
焔々と たちのぼる したしい風景


  (46)哀しみの海

哀しみの
うなばら かけり

わが玉 われは
うみに なげたり

浪よ
わが玉 かへさじとや


  (52)何故に 色があるのか

なぜに 色があるのだらうか
むかし、混沌は さぶし かつた
虚無は 飢えてきたのだ

ある日、虚無の胸のかげの 一抹(いちまつ)が
すうつと 蠱惑(アムブロウジアル)の 翡翠に ながれた
やがて、ねぐるしい ある夜の 盗汗(ねあせ)が
四月の雨にあらわれて 青(ブルウ)に ながれた


  (55)おもたい かなしみ

おもたい かなしみが さえわたるとき
さやかにも かなしみは ちから

みよ、かなしみの つらぬくちから
かなしみは よろこびを
怒り、なげきをも つらぬいて もえさかる

かなしみこそ
すみわたりたる 「すだま」とも 生くるか


  (56)胡蝶

へんぽんと ひるがへり かけり
胡蝶は そらに まひのぼる
ゆくてさだめし ゆえならず
ゆくて かがやく ゆえならず
ただひたすらに かけりゆく
ああ ましろき 胡蝶
みずや みずや ああ かけりゆく
ゆくてもしらず とももあらず
ひとすぢに ひとすぢに
あくがれの ほそくふるふ 銀糸をあへぐ


  (66)人を 殺さば

ぐさり! と
やつて みたし

人を ころさば
こころよからん


  (71)石塊(いしくれ)と 語る

石くれと かたる
わがこころ
かなしむべかり

むなしきと かたる、
かくて 厭くなき
わが こころ
しづかに いかる


  (74)しのだけ

この しのだけ
ほそく のびた

なぜ ほそい
ほそいから わたしのむねが 痛い


  (77)朝の あやうさ

すずめが とぶ
いちじるしい あやうさ

はれわたりたる
この あさの あやうさ


  (83)鳩が飛ぶ

あき空を はとが とぶ、
それでよい
それで いいのだ


  (84)草に すわる

わたしの まちがひだつた
わたしのまちがひだつた
こうして 草にすわれば それがわかる


  (85)夜の 空の くらげ

くらげ くらげ
くものかかつた 思ひきつた よるの月


  (91)人間

巨人が 生まれたならば
人間を みいんな 植物にしてしまうにちがいない


  (92)皎々とのぼつてゆきたい

それが ことによくすみわたつた日であるならば
そして君のこころが あまりにもつよく
説きがたく 消しがたく かなしさにうづく日なら
君は この阪路(さかみち)をいつまでものぼりつめて
あの丘よりも もつともつとたかく
皎々と のぼつてゆきたいとは おもわないか


  (93)「キーツ」に 寄す

うつくしい 秋のゆふぐれ
恋人の 白い 横顔(プロフアイル)―「キーツ」の 幻(まぼろし)


  (95)怒(いか)れる 相(すがた)

空が 怒つてゐる
木が 怒つてゐる
みよ! 微笑(ほほえみ)が いかつてゐるではないか
寂寥、憂愁、哄笑、愛慾、
ひとつとして 怒つてをらぬものがあるか

ああ 風景よ、いかれる すがたよ、
なにを そんなに待ちくたびれてゐるのか
大地から生まれいづる者を待つのか
雲に乗つてくる人を 「ぎよう望」して止まないのか


  (96)かすかな 像(イメヱジ)

山へゆけない日 よく晴れた日
むねに わく
かすかな 像(イメヱジ)


  (97)秋の日の こころ

花が 咲いた
秋の日の
こころのなかに 花がさいた


  (100)感傷

赤い 松の幹は 感傷


  (103)春も 晩く

春も おそく
どこともないが
大空に 水が わくのか

水が ながれるのか
なんとはなく
まともにはみられぬ こころだ

大空に わくのは
おもたい水なのか


  (104)おもひ

かへるべきである ともおもわれる


  (106)郷愁

このひごろ
あまりには
ひとを 憎まず
すきとほりゆく
郷愁
ひえびえと ながる


  (107)ひとつの ながれ

ひとつの
ながれ
あるごとし、
いづくにか 空にかかりてか
る、る、と
ながるらしき


  (108)宇宙の 良心

宇宙の良心―耶蘇


  (109)空 と 光

彫(きざ)まれたる
空よ
光よ


 以上が詩集『秋の瞳』の中で、
●(b)箴言詩(警喩詩・思想詩・断章詩=詩としては断章的で、警句や意見表明の次元で成立するもの)
 と見られる41編ですが、一読して短い詩ほど成功しており、また固有名詞や一般名詞をなるべく避けた断章の方によりまとまりがある(固有名詞を一般名詞)と思え、そうした詩は八木が傾倒したイギリス・ロマン派詩にもある形而上的思考方法による詩を八木の流儀で消化しようとしたものと考えられますが、「フヱアリの 国」「劒(つるぎ)を持つ者」「壺のような日」「竜舌蘭」「胡蝶」などいずれもテーマの提示には舌足らずの観があります。また八木は「こころ(心)」「秋」「花」「空」「水」「玉(珠)」「泪(なみだ)」「いかり」「おもひ」などの語句を詩句に転じるのは自然にできますが、「おもひで」の「琥珀(オパール)」「ケーオス」、「何故に 色があるのか」の「蠱惑(アムブロウジアル)」や「青(ブルウ)」、また「「キーツ」に 寄す」の、


 うつくしい 秋のゆふぐれ
 恋人の 白い 横顔(プロフアイル)―「キーツ」の 幻(まぼろし)


 も成功しているとはおもえません。「かすかな 像(イメヱジ)」の「像(イメヱジ)」もそうで、八木が概念語の提示で成功するのは和歌(短歌)的な大和詞として定着している「こころ(心)」「秋」「花」「空」「水」「玉(珠)」「泪(なみだ)」「いかり」「おもひ」、このうち「玉(珠)」はたましい、霊魂の訛語でもあるのは言うまでもありません。数少ない漢文・欧文脈で成功している例は、それぞれ一行詩である「宇宙の 良心」の「宇宙の良心―耶蘇」であり、「感傷」の「赤い 松の幹は 感傷」も成功した例ですが、これは通常詩ではなく詩の断片とする見方の方が正当な鑑賞法でしょう。そしてそれを言えば、成功作と思われるものを再度抄出してみた方が早いでしょう。


 えんぜるになりたい
 花になりたい
  (「花になりたい」全行)


 無造作な くも、
 あのくものあたりへ 死にたい
  (「無造作な 雲」全行)


 このかなしみを
 ひとつに 統(す)ぶる 力(ちから)はないか
  (「かなしみ」全行)


 死 と 珠 と
 また おもふべき 今日が きた
  (「死と珠(たま)」全行)


 わたしは
 玉に ならうかしら

 わたしには
 何(なん)にも 玉にすることはできまいゆえ
  (「玉(たま)」全行)


 ぐさり! と
 やつて みたし

 人を ころさば
 こころよからん
  (「人を 殺さば」全行)


 この しのだけ
 ほそく のびた

 なぜ ほそい
 ほそいから わたしのむねが 痛い
  (「しのだけ」全行)


 すずめが とぶ
 いちじるしい あやうさ

 はれわたりたる
 この あさの あやうさ
  (「朝の あやうさ」全行)


 あき空を はとが とぶ、
 それでよい
 それで いいのだ
  (「鳩が飛ぶ」全行)


 わたしの まちがひだつた
 わたしのまちがひだつた
 こうして 草にすわれば それがわかる
  (「草に すわる」全行)


 くらげ くらげ
 くものかかつた 思ひきつた よるの月
  (「夜の 空の くらげ」全行)


 巨人が 生まれたならば
 人間を みいんな 植物にしてしまうにちがいない
  (「人間」全行)


 花が 咲いた
 秋の日の
 こころのなかに 花がさいた
  (「秋の日の こころ」全行)


 赤い 松の幹は 感傷
  (「感傷」全行)


 春も おそく
 どこともないが
 大空に 水が わくのか

 水が ながれるのか
 なんとはなく
 まともにはみられぬ こころだ

 大空に わくのは
 おもたい水なのか
  (「春も 晩く」全行)


 かへるべきである ともおもわれる
  (「おもひ」全行)


 このひごろ
 あまりには
 ひとを 憎まず
 すきとほりゆく
 郷愁
 ひえびえと ながる
  (「郷愁」全行)


 ひとつの
 ながれ
 あるごとし、
 いづくにか 空にかかりてか
 る、る、と
 ながるらしき
  (「ひとつの ながれ」全行)


 宇宙の良心―耶蘇
  (「宇宙の 良心」全行)


 彫(きざ)まれたる
 空よ
 光よ
  (「空 と 光」)


 これらがいったい詩なのだろうか、というところにたち返らないと、詩集『秋の瞳』の根源性は見えてこないと思われるのです。詩は審美性や修辞、さらに言語の物質感や伝達性によってなり立つ、という考え方からもこれらは切れているとも見られ、「人を 殺さば」の「ぐさり! と/やつて みたし//人を ころさば/こころよからん」にはわずかに石川啄木の短歌の反映が認められるように思われますが、「草に すわる」の「わたしの まちがひだつた/わたしのまちがひだつた/こうして 草にすわれば それがわかる」や、「おもひ」の「かへるべきである ともおもわれる」はいったい何を詩にしているのか。これをキリスト教信徒八木の信仰的「原罪」意識と見るのはうがちすぎで、詩に道理を求めすぎた見方でしょう。八木は小学生にも理解できるような平易な文体で書いていますが、小学生はおろかあいだみつおにも理解できないような内容があるのはどなたにも明らかで、八木が詩論、批評を一切書き残さなかった詩人なのもこうした詩の作者ならばこそ、と思われます。戦後詩人の故・吉野弘氏は「かへるべきである ともおもわれる」の「おもひ」を八木のもっとも印象的な詩編に上げています。実際八木の詩に時代を超えた要素があるのも(『秋の瞳』収録詩編の執筆は1921年~24年で、ほとんど100年前の詩集です)それが詩ではなかったからかもしれないのです。

(引用詩のかな遣いは原文に従い、用字は当用漢字に改め、明らかな誤植は訂正しました。回ごとの論旨のまとまりの便宜上、記述・引用の重複はご容赦ください。)
(以下次回)