人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2019年1月25日~27日/サイレント短編時代のバスター・キートン(5)

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 前回の3編「キートンの船出」「キートンの白人酋長」そして「キートンの警官騒動」が揃ってキートンらしい奇想と悪夢感、さらに完成度のいずれも完備した傑作だっただけに、今回ご紹介する3編はややこぢんまりとした出来(「キートン半殺し」「キートンの鍛冶屋」)だったり、規模は雄大ですが構想ほど効果を上げているとは思えなかったり(「キートンの北極無宿」)しますが、キートンはメトロ映画社に配給を委託していた第8作「キートンの強盗騒動」'21.May.からファースト・ナショナル映画社に配給委託を移籍した第9作「キートンの即席百人芸」'21.Oct.までに半年のブランクがあり、「キートンの即席百人芸」は公開順で第16作になる「キートン電気屋敷」'22.Oct.撮影中の事故のためトリック撮影を多用しアクションの少ない作品にしたそうですから、第9作から第16作までは必ずしも製作順と公開順が一致していないと考えられます。
 この時期キートンを苦しめたという新妻ナタリー・タルマッジ(1896-1969)の実家との確執(「キートン半殺し」に反映しているとされます)は'21年5月のタルマッジとの結婚直後から続いていたそうですし、「キートンの警官騒動」に影を落としているとされるキートンの師、ロスコー・アーバックル(1887-1933)のパーティー強姦致死疑惑事件は'21年9月上旬ですからその影はファースト・ナショナル映画社移籍後の全般におよんでいるとも言え、また「キートンの北極無宿」は「キートンの即席百人芸」でもあてこすりを寄せたワンマン・プロデューサー兼監督のトーマス・H・インス(1882-1924)映画の「アメリカ映画史上最初の西部劇スター」ウィリアム・S・ハート(1870-1946)主演西部劇のパロディとされますが、ハートはインスの下'17年の「窄き路」や'19年の「開拓者」(ともにランバートヒルヤー監督)ですでにトップスターになり、'20年代には徐々に人気が下降していた頃なので(インス逝去翌年の'25年には引退してしまいます)、むしろ同作はエーリッヒ・フォン・シュトロハイム(1885-1957)の空前の超大作『愚なる妻』'22.Jan.のシュトロハイム本人が主演した人妻誘惑者カラムジン偽伯爵にキートンか扮する、という方が注目されますが、空前の製作費をかけて製作された『愚なる妻』は公開前から盛んに宣伝されていたようですし、カラムジン偽伯爵のキャラクターや扮装はシュトロハイムの長編第1作『アルプス颪』'19とほとんど同じですから、そうしたキートンの私生活上の事件、映画に見られる同時代映画のパロディも製作順の特定には結びつかないので、トリック撮影に凝った「キートンの即席百人芸」を話題性から配給委託移籍第1弾にしたあとはそれぞれ趣きをがらりと変えた自信作の傑作「キートンの船出」「キートンの白人酋長」「キートンの警官騒動」を「キートンの電気館」までの諸作の中で先行公開した、とも考えられます。やや後退した、と言っても第2作「キートンの囚人13号」から第7作(実は製作順では第1作)「キートンのハイ・サイン」までのキートン作品のつかみどころのなさ、煙に巻かれた感じは人を食った作風はそのままにもっと集中力を持ったイメージになっているので、'22年度作品の完成度を取るか'20年~'21年度作品のとりとめのなさをよりキートンらしいと取るかは少々微妙で、どちらがあってもいい観る方の好きずきになるかもしれません。その分今回は、あらすじのご紹介はなるべく詳しく書くように気を配りました。

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●1月25日(金)
キートン半殺し(キートンの猛妻一族、キートンの飴ン棒、キートン華麗なる一族)」My Wife's Relations (監督・脚本=キートン&エディ・クライン、First National'22.May.)*22min, B/W, Silent : https://youtu.be/0bnszWJUxNA

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 本作は字幕タイトル「序文/その地域にはあらゆる人種があらゆる言語を使いながら住んでおり」「誤解で満ちあふれていた」と始まり、やや中年のカップルが電話をかけているシーンから始まります。事務所の男が電話を受けます。まず異国語の字幕が英語に変わり「ポーランド語で結婚式を挙げたいんですが」とカップルの男。また異国語の字幕が英語に変わり、「大丈夫ですよ、私もポーランド語しかわかりませんから」と事務所(婚姻届係らしいとわかります)の男が答えます。「その地域に住む若き芸術家」と壁に引っかけたでかい透明粘土を懸命に練っている青年のキートンが映り、棒つきの飴を舐めながら男の子二人が戸口からキートンを見ており、引いたカメラのショットになるとキートンのいる部屋の窓には「CANDY COMPANY」と裏文字で看板が描いてある。キートンが練っていたのは透明粘土ならぬ飴だった、とわかったところで飴を延ばしたり練ったりと四苦八苦のキートンに、郵便屋が葉書を配達に来ますが、飴を練ったまま取ろうとしたキートンはころんで郵便屋を巻き添えにし配達物が床にぶちまかれてしまいます。キートンは自分あてとおぼしい封筒を上着の内ポケットに入れると郵便屋から逃げ出しますが、通りの角で追ってきた郵便屋が投げた石が角の家の窓を割り、何事かと林檎のカゴを提げて出てきた巨体の女(ケイト・プライス)とキートンは衝突し、巨体の女はキートンを引っ張って役所に突き出しに連れて行きます。先ほどの婚姻届係の男が二人を迎え、ポーランド語で結婚宣誓式を行って署名させ、キートンたちに結婚証明書を渡して出て行く。女は巨漢の男ばかり5人の同居家族のいる家にキートンを引っ張っていき、私の夫になった男だよ、と父親(モンテ・コリンズ)、兄弟(ジョー・ロバーツ、トム・ウィルソン、ウィーザー・デル、ハリー・マディソン)たちに紹介します。この一家はどうやら腕っ節自慢の横柄なアイルランド系移民一家らしく、早くも「あんな男じゃ三日も持たんぞ」と、父親。キートンはあっという間に肉の奪い合いになる夕食、ボロボロの組み立て式ベッドと格闘しながら最初の晩を迎えますが、翌朝気を失って目を覚まさない。妻は胡椒をキートンの鼻に振りキートンはくしゃみとともに目覚めますが、部屋じゅうに胡椒が舞って家族全員くしゃみが止まらなくなります。キートンの服を取りに行った兄弟の一人は上着の内ポケットの封筒を見つけ、10万ドルの相続の通知だったので仰天し、一家で一転してキートンを持ち上げキートンを家長に召使い・メイドつき高級アパートに転居します。そこでもすったもんだの上、封筒の汚れをこすって「何てこった!別人あての手紙だよ!」わが家は破産だ、まずあいつを殺して金を取り返すしかあるまいと、にわかに命を狙ってくる一家からキートンはかろうじて身ひとつで逃れて、リノ(テキサス州の、離婚調停手続きが簡便なので有名な町)行きの汽車に飛び乗って逃げ、エンドマーク。
 前書きの通りキートンの最初の結婚は新妻ナタリー・タルマッジの実家との確執もあってうまくいかず、のちに離婚調停でキートンは一方的に不利な条件を突きつけられて離婚することになりますが、キートン自身が家庭の夫としては無責任すぎ、かなり問題があったようです。キートンが芸人一家出身だったようにタルマッジ家も両親がステージ・ペーレンツだったようで、ノーマ・タルマッジを長女に次女ナタリー、三女コンスタンスの三姉妹は揃って映画女優デビューしましたが、ナタリーはキートンとの結婚を機に一時引退して'23年に長編『荒武者キートン』1作のみヒロインに起用されるので、本作は恋人の家と因縁の敵対家系で知らずに訪ねて一家全員に命を狙われることになる『荒武者キートン』の原型といえ、同長編は19世紀初頭に設定を置いていた時代劇コメディですので設定が上手くはまりました。もっともこの設定は使いやすいものなので、バスター・キートン・プロダクション最後の長編『キートンの蒸気船』'28で現代ものにしても港町の台風災害と絡めてキートン長編中の傑作として『荒武者キートン』と拮抗する出来になっていますから、本作の場合キートン作品には珍しく愛想のかけらもない不美人の巨体のコメディエンヌ、ケイト・プライスに魅力がないのが映画の艶の欠如となっています。まるでチャップリン助演のキーストン社のアメリカ映画史上初の長編喜劇映画『醜女の深情け』'14(同作は舞台の人気巨体女優、マリー・ドレスラーの主演映画でした)のようですが、もっとも短編でこの花嫁をいつものヒロインにしてしまうとロマンス成就方向にしないとキートンの感覚を持ってしても観客にも説得力がないとは判断が利いたので、本作は『醜女の深情け』を連想させるくらい喜劇映画としては'22年にしては古いタイプの作風だったかもしれませんが、キートンの映画の直接の師だったロスコー・アーバックル喜劇もキーストン社由来の系統を継ぐものだったので、こぢんまりとはしていますが破綻はない短編です。また冒頭の無茶苦茶な結婚をキートンもケイト・プライスも平然と受け入れるのがキートンに限らずアメリカ喜劇ならではのとぼけ方なので、本作は本作として、キートンとしてはやや例外的な内容ながらちゃんとのちにキートンらしい長編『荒武者キートン』に直結する作品になっている。そういう意味ではこれはこれで習作の次元ではない完成された短編ながら、キートンにとっては予行演習的な作品になっている。その点で、シンプルなまとまりながら、キートン映画が好きな人ほどいろいろと読みとれる含みのある短編と言えそうです。

●1月26日(土)
キートンの鍛冶屋」The Blacksmith (監・脚=キートン&マル・セント・クレア、First National'22.Jul.21)*25min, B/W, Silent : https://youtu.be/7LwDewi6Y7E

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 田園コメディの本作は村の鍛冶屋の助手キートンが蹄鉄を打つ鍛冶と見せかけてベーコンエッグを焼いている場面から始まり、さて食べるかと鍛冶台に移したところを親方(ジョー・ロバーツ)に見つかり、キートンはすかさず皿ごとベーコンエッグを粉々にハンマーで打ってごまかし、蹄鉄の鍛冶に戻ります。キートンのヘマだらけの様子に腹を立てた親方は店の前でキートンを締め上げますが、保安官が暴行かと見とがめ、キートンと親方の間に割って入って保安官バッジを見せようとしますがバッジは店の看板の巨大磁石の蹄鉄に吸い寄せられて気づくとなくなっている。ロバーツはあざ笑い、保安官は怒ってピストルを構えますがピストルも巨大磁石に吸い寄せられてなくなってしまう。ロバーツはますます反抗的になり、保安官は通りかかった保安官助手たちを呼んでロバーツをお縄にかけようとしますが、巨漢のロバーツは暴れて手に負えません。キートンは見上げて保安官バッジとピストルが看板の蹄鉄型の巨大磁石にくっついているのを見つけ、登って取ろうとしますが巨大磁石ごと真下に落下、親方のロバーツをのしてしまいます。保安官は助手とともに気絶したロバーツに手錠をかけて連行し、親方の留守の店はキートンの好き放題になります。白馬に乗った貴婦人(ヴァージニア・フォックス)が馬に新しい蹄鉄をお願い、と来て、キートンはサイズを測ってよりどりみどりの蹄鉄を合わせますがなかなか馬の好みがうるさく、百貨店の倉庫棚よろしくレール式の梯子のついた蹄鉄棚からあれこれ合わせ、ガラス張りのショーケースでリボン飾りのついた蹄鉄がお好みと決まるまで馬とのやり取りが続きます。美女が白馬を引き取りに来る前に車のホイールに油を挿そうとしたキートンは、注油ポンプの底が抜けて背後の白馬の横腹に真っ黒な汚れをつけたのに気づかず、受け取りに来たフォックスも気づかず乗っていってしまいます。次に来た女性客は乗り心地の良い鞍を所望して、キートンは「当店製作」の木製のバネつきの鞍を売りつけます。女性客が満足げに乗っていったあと、メンテナンスを頼む、と青年紳士が純白のロールスロイスを乗りつけます。キートンはあちこちを調整しようとしてまたもや油で黒くあちこちを汚し、点けっぱなしで置いたガスバーナーが車を焦がすのにも気づかず奮闘しているうちに親方ロバーツが帰ってきます。ロールスロイスを挟んで追っかけあいから窓をぶち抜いての投げあい、ついにドアを引きはがして振り回してくるロバーツに、さらにバネ式の鞍を売りつけた女性客が棍棒(どうやら木の枝に頭をぶつけた様子)を持って文句を言いに来て、さらにロールスロイスの客の姿を見たキートンはさっさと店からおさらばします。街頭で白馬の貴婦人が知人の女性にあいさつし、白馬の左側の腹が黒い油汚れだらけなのを言われて初めて気づき、キートンは線路を渡ろうとしてキートンの前で猛突進してきた汽車はぴたりと停車し、そこに通りかかった貴婦人にキートンはすかさずプロポーズして、二人は汽車に乗ろうと歩き出し、エンドマーク。
 本作も牧歌的とも言えるような設定で、こういう作風はハロルド・ロイドが長編『ドクター・ジャック』'22、『田子作ロイド一番槍』'27などで得意にする、というかロイドの好人物のキャラクターが生きる舞台設定なのでキートンだと本作のような破壊コメディにするしかないのかな、と面白いなりにキートン向けの設定ではないような感じがします。だからこそ何の伏線もない唐突なハッピーエンドが生きている、とも言えますし、以前の短編「キートンの案山子」の名犬リュークや、のちの短編「成功成功(キートンの白昼夢)」の犬猫病院のエピソードでも見られるように、キートンは動物とのかけ合いが実に上手い。本作では馬が相手ですが、キートン自身が無表情がトレードマークのキャラクターなので、本人が無表情に喜怒哀楽をこめる演技が抜群で、それが本来無表情ですし実際無表情な動物相手に受けの演技で動物から人間相手の演技以上に共感の通った情景を引き出していて、人間相手の場合キートンはいつも意志疎通が成り立っているのかわからないような風情でいるのですが、動物相手だとぴたっと決まるのです。チャップリンにも「犬の生活」'18と最高の愛犬映画がありますが、あれは犬を人間化しているから出てくる情緒なので、キートン最高の動物映画は雌牛がヒロインの長編『キートンの西部成金』'25ですが、キートンにはそういう擬人化された動物との情感というのとは違う感覚があります。キートン映画のヒロインはヒロインの魅力という点ではチャップリンやロイドのように女優を生かしているとは言えず、サイレント時代で言えばサイレント長編最後の『キートンの結婚狂』'29がキートンが女優に対等になった唯一の例と言ってよく、『キートンの西部成金』の雌牛が最高のヒロインになったと言えるくらいです。本作はキートンのサイレント短編19作中エディ・クラインではなくマル・セント・クレアが共同監督・共同脚本についた2編のうちの1編(もう1編は「キートンの強盗騒動」)ですが、ジョー・ロバーツとの敵対関係といい馬とのかけ合いといい、鍛冶屋での破壊ギャグ、唐突な結末といい、キートンの他の短編と基本的な演出はまるで変わりはなく、本作の村の鍛冶屋という趣向にヴァリエーションがあるだけです。その点でもキートン短編の共同監督・共同脚本クレジットはかたちだけで実質的にはキートンの単独監督・脚本だったのをせいぜいプロデューサー代理か、スタッフ・チームの代表としてエディ・クラインなりセント・クレアなりがクレジットされていたのだろうと見なせる実例になってもいますし、プリントの重版年代によってはクラインやセント・クレアのクレジットはなく、キートン単独監督・脚本のクレジットにされている短編が多いのもうなずけます。公開順でいうと前作「キートン半殺し」と本作は小さく手堅くまとまっていることでキートンらしい爆発力がやや不足していて、もっともとりとめのないキートン短編が「キートンのハード・ラック」であれはあれで過剰に変な映画すぎたのを思えば、バランスというのをキートン映画の基準とするのは杓子定規のような気もします。

●1月27日(日)
キートンの北極無宿」The Frozen North (監・脚=キートン&エディ・クライン、First National'22.Aug.28)*17min, B/W, Silent : https://youtu.be/XU3ovEzqjTc

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 地下階の地下鉄終点の標識からキートンが現れたのはアラスカらしき氷原で、「地下鉄出口(SUBWAY EXIT)」と出口小屋には看板が出ています。カウボーイで二丁拳銃のガンマンのキートンは氷原の街を歩いていき、ルーレットや飲み食い客で繁盛している酒場を窓から覗くと、通りにかかった等身大の拳銃を構えた指名手配強盗の板をナイフでくり抜き、窓に強盗の板を立てて酒場に入り、ホールドアップした客たちに帽子を回して金を集めますが、窓ぎわの酔っぱらいがふらふらと強盗の看板を担いで店の中に持ってきてしまい、キートンは帽子から金を出して逃げ出します。通りを歩いていくキートン。家の中の暖炉の前で抱きあいキスする男女が映り、踏みこんだキートンは二丁拳銃で男女を狙撃しますが、倒れている女を見て(字幕タイトル)「しまった、俺の家でも俺の妻でもなかった!」と慌てて逃げ出します。キートンは自分の家に着き、キートンの妻(シビル・シーリー)が迎えに駆け寄りますが、キートンは妻に冷たくきびすを返し、シーリーは大仰に泣き出します。シーリーは壁に倒れかけ、花瓶が頭の上に落ちて気絶します。キートンは気づかず一瞬ちらりと見て、それからまた通りへ出ようとします。たぶん先のカップルへの狙撃を調査しに通りかかった警官はシーリーの悲鳴を聞いて、キートンの家のドアをノックします。キートンは蓄音機にレコードをかけ、気絶した妻と踊るふりをします。その様子を見て警官は立ち去り、キートンは妻を床に落とします。窓の外を見たキートンは、可愛い隣人の女性(ボニー・ヒル)を見ます。キートンはすぐに優雅な白いスーツを着て「遠くで」花を摘み取ってきます。キートンヒルを誘惑にかかりますが、ヒルは怯えてキートンを退けます。ヒルの夫(フリーマン・ウッド)が忘れものを取るた戻ってきます。ヒルの夫は妻と二人きりで家にいるキートンに激怒し、にらみ合いの一瞬からすぐ妻を連れて出ていきます。ヒルの夫が北へ向かった橇の跡を見つけたキートンは友人(ジョー・ロバーツ)が運転する犬橇つき自動車で追跡しますが、犬橇つき自動車の故障でキートンは馬橇つきタクシーに乗り換えます。キートンの乗ったタクシーは交通違反でプロペラ機つきハーレーダヴィットソンのオートバイ機体に乗った交通監視員に止められますが(これは映画のギャグではなく、実際に交通監視員用2当時のアラスカで使われたものだそうです)、キートンはプロペラを逆回転させて交通監視員を追い払います。やがてキートンとロバーツは北極点近くで迷ってしまい、屋敷を見つけて避難します。キートンは壁かけの北極鹿の剥製の角に帽子を掛けますが角はしなって帽子は転げ落ちます。キートンとロバーツはエスキモー式に釣りをしようとし、ロバーツがラケットをわらじにしたのを真似てキートンは両足にギターをわらじ代わりに履きます。キートンは氷を鋸で切ってくり抜いた穴に落ち、釣りを始めますが背後で釣りをしていたエスキモーの大量の獲物を水中で絡まったのに気づかず釣り上げ、次に背後のエスキモーと釣りあいになってエスキモーを釣り上げてしまいます。ロバーツは屋敷の中で追っていたヒルの夫のウッドを見て逃げ出し、一方キートンはコーラを割らないウイスキーに見立てて一気に飲んでヒルに迫る決意をします。ウッドが金を発見して屋敷に戻ってくるとキートンはドアのかんぬきに自分の腕を通して入れまいとしますが、ドアは逆側の蝶番から何でもなく開いてしまいます。キートンはジャンプして窓の外に逃げ、雪だるまに隠れてウッドの追跡をくらまし屋敷に戻ります。キートンヒルに迫り、一瞬エーリッヒ・フォン・シュトロハイム(1885-1957)の映画『愚なる妻』'22.Jan.のシュトロハイム自演の誘惑者カラムジン偽伯爵の姿になります。夫のウッドはロバーツと格闘してナイフで刺されながらナイフを奪って屋敷に戻り、床に泣き崩れる妻を見下ろして立っているキートンと対決します。キートンはウッドの背後から窓ごしにヒルに撃たれ、夫妻は抱きあいます。床に横たわる負傷したキートンはポケットからピストルを取り出しウッドに向けますが、その瞬間にキートンは映画館の前列で映画館の従業員に揺さぶられて目が覚め、夢オチでエンドマーク。
 この映画館従業員がエディ・クラインで、字幕タイトルは「起きなよ、映画は終わったよ(Wake up, Movie's over)」という夢オチはキートンの夢オチ映画の中でも良く効いていて、映画パロディが全編におよんでいる短編だからこそ生きてきます。本作の発展と言える長編の傑作『キートンの探偵学入門』'24は恋人の家族から詐欺の疑いをかけられた映画館映写技師のキートンが、映画の映写中に眠りこんでしまいキートンから抜け出した影が映画のスクリーンの中に入りこんで名探偵シャーロック・ジュニアとして大活躍する、目が覚めてみると恋人がキートンを起こしていて、キートンにかけられていた冤罪が晴れている、というメタフィクション映画でした。キートンは文学的手法ではなく映画の面白さだけを追求して本作や『キートンの探偵学入門』を作ったので、グリフィスの『イントレランス』'16が人類史4,000年の4つのパラレル・プロットを3時間を超える超大作に作ったのが文学のモダニズム運動より早く、しかも文学的発想の排除の徹底の度合いが強烈なのは、『イントレランス』の(製作の噂を聞きつけて企画を先取りして先行公開を狙った)フォロワーだったインスの『シヴィリゼーション』や、グリフィス作品の評判から直接にはグリフィス作品を観ずにフランスから出たアベル・ガンスの『戦渦の呪い(戦争と平和)』'19やその発展作『鉄路の白薔薇』'23の文学性への依存(フランス映画はむしろガンス讃美者だったレルビエ、デリュック、エプステンによって純粋な映画的発展を見ます)とは対照的です。ソヴィエト監督ながら特権的にジョイスの『ユリシーズ』'22をいち早く取り寄せて読むほど各ジャンルの芸術運動に貪欲な関心があったエイゼンシュテインがグリフィスを称揚しガンスの文学性を批判したほどには、キートンの文学的発想に依らない映画作りは自覚的ではなかったでしょう。エイゼンシュテインもグリフィスと同等の最高のアメリカ映画監督は方法的な自覚を備えたチャップリンと見なしていました。キートン映画は見世物の面白さの基準で作られたものでしたが、ジェイムズ・ジョイスエズラ・パウンドのような実験的前衛文学者とは無縁にチェコプラハの福祉課役人として市民たちのさまざまな生活問題に接し、同人誌にせっせと変な短編小説をひっそり発表して、没後に発表の予定もなく書いた膨大な遺稿中短編・長編小説を残したアマチュアのマイナー作家、フランツ・カフカ(1883-1924)が突然変異のように書いていた、まったく文学常識を無視した内容・構成の悪夢的作品(しかも没後発表された膨大な遺稿は、カフカ自身は没後焼却を遺言していたものでした)に近く、幻の短編だった「キートンのハード・ラック」が'80年代末に旧チェコスロバキアで発見されたくらいですから晩年のカフカキートン短編を観ていた可能性はあるにせよカフカ自身は'10年代前半から同人誌に短編を発表しています。生前刊行の著書は薄い小冊子の短編集が2冊、中編「変身」'15しかありませんが世界的な注目を集めたのは没後に遺稿長編、中短編集が陸続と刊行された'20年代後半からで、サイレント時代のキートン作品が戦後には「Kafka-esque」(「キートンの警官騒動」にいたっては「Very Kafka-esque」)と評されるようになったのはカフカキートンに共通する、決して主流にはならないマイナーな(しかし根源的な)存在感、異端性にあったと目せ、本作は「キートンのハード・ラック」や「キートンの即席百人芸」に負けず劣らず、見方によってはそれ以上に支離滅裂な短編ですが、ウィリアム・S・ハート西部劇やシュトロハイムの背徳誘惑ドラマのパロディ作品だから支離滅裂になったというよりキートンにとってはこれが自然だったのでしょう。ハート西部劇は「善良な悪漢」の話がパターンなので悪漢のハートは不正を正し弱者を助けて改心するキャラクターですから、改心どころか好色な誘惑者シュトロハイムにまで変身する本作のキートンはパロディだとしたらハート作品への悪意が行き過ぎています。単にアラスカを舞台にした北極西部劇という頭のネジの飛んだアイディアがあり、無法者キートンの活躍を描くうちにハート西部劇のパロディ色が強くなり、他人の女房に懸想するという当時のアメリカ映画ではまだタブーだったので、シュトロハイムの第1長編『アルプス颪』'19が大センセーションを呼んだのもシュトロハイム演じる職業姦通詐欺師の悪行というタブー破りの頽廃した背徳的内容にありました。なので後半キートンが誘惑者になってからはシュトロハイム映画を下敷きにし、これはパロディというよりキートンがもっとも尊敬していたグリフィスの助監督出身のシュトロハイムへのオマージュで、軽蔑していたインス映画の代表的スターのウィリアム・S・ハート映画へのパロディ意識とは異なっていたでしょう。つぎはぎだらけの本作ですが第2作「キートンの囚人13号」(これも夢オチ)の系譜に連なる出たとこ任せの構成をアラスカ西部劇(!)という奇想に乗せてブラックな笑いを誘う短編でもあり、暖炉の前で抱きあいキスするカップルを二丁拳銃で狙撃(射殺?)して近寄り「しまった、俺の家でも俺の妻でもなかった!」とさっさと逃げるシーンの馬鹿馬鹿しさには唖然とします。最初に観るキートン映画としてはまるで向きませんし、もっと面白い仕上がりにも出来たかもしれない企画倒れの観もありますが、サイレント短編19編の中では思い切った異色作として落とせない、上位クラスの作品でしょう。キートン映画、特に短編時代は登場人物は役割を振られた記号でしかなく、その傾向の極みにあるような作品ですから観る人によっては観客を馬鹿にした映画に見えるかもしれませんが、少なくともキートンにはその意図はなく、キートンは映画で人間を描こうなどとは露とも考えていなかったというだけのことです。キートン映画のすがすがしさも大衆性の限界もそうした態度にあるでしょう。