◎『アンドリエーシ』Andriesh (Studios Dovjenko, Kiev, Ukiana'55) : https://youtu.be/mMmtfQBpWlM (Full Movie, English Subtitle)*59min, B/W
◎『ウクライナのラプソディー』Ukrainskaya rapsodiya (Studios Dovjenko, Kiev, Ukiana'61) : https://youtu.be/FLu4RcygUmk (Full Movie, French Subtitle)*83min, Color
◎『石の上の花』(Studios Dovjenko, Kiev, Ukiana'62) : https://youtu.be/v9ltGG32eec (Full Movie, No Subtitle)*72min, B/W
『火の馬』Tini zabutykh predkiv (Studios Dovjenko, Kiev, Ukiana'64)*92min, Color : 日本公開昭和44年3月22日 : https://youtu.be/rb6GMSG2cEY (Full Movie, English Subtitle) : https://youtu.be/OeIzpWNG23Y (Trailer)
[ 解説 ] ウクライナの文豪ミハイル・コチュビンスキーが1911年に発表した小説をセルゲイ・パラジャーノフとイワン・チェンディが脚色、セルゲイ・パラジャーノフが監督にあたった。撮影はユーリー・イリエンコ、音楽はM・スコリクが担当した。出演はイワン・ミコライチュク、ラリサ・カドチニコワほか。
[ あらすじ ] ウクライナの南、カルパチア山地に生むペトリュクとグデニュクの二つの氏族間には、何世代にもわたり争いが続いていた。そしてある日、両家の車軸がふれあったことから争いが起きグデニュクの斧がペトリュクの頭上に打ちおろされた。瀕死のペトリュクの脳裏を、真っ赤な火となった馬が空の彼方に走っていく。敵同士であるはずの両家の子供たち、イヴァン(イワンコ)・ペトリュク(イヴァン・ミコライチュク)とマリーチカ・グデニュク(ラリーサ・カドチニコワ)の二人は幼い頃よりの親友。大人になった二人は愛し合うようになった。しかしイヴァンには、お金がない。村を離れ、一人、出稼ぎに行った。その留守中のことである。マリーチカは羊の子を救おうとして足を踏みはずし、高い崖から落ち、急流にのまれてしまった。かけつけ、茫然とたちつくすイヴァン。それからの彼は乞食同然の、おちぶれかただった。そして数年、村人たちは彼を立ち直させるため、パラーグナ(テチャーナ・ベスターイェヴァ)という娘と結婚させることにした。幸せそうな日々が続いた。しかしイヴァンはマリーチカの面影を忘れることは出来ない。パラーグナの悲しみ。彼女は、その悲しみをまぎらすため、ユーラことユーリチカ(スパルタク・バハシュヴィリ)という男と親しくなっていった。イヴァンはユーラと争い、手斧で、ユーラの頭を傷つけた。よろめきながら外に出たイヴァンの目に、マリーチカの墓がうつった。そして彼女の霊にみちびかれるように森の中をさまよい、マリーチカが落ちた崖へと近づいて行った。
――本作は'60年代初頭のヨーロッパ映画の潮流を受けた手持ちカメラによる長回しの移動ショットや意表を突く主観ショットへの切り替え(映画冒頭で倒木のシーンがありますが、木の視点から人物に向かって倒れる大胆なショットです)、素早いモンタージュやアニメーションの挿入(人物の流血シーンや離れて暮らす恋人同士が夜空の同じ星を眺めるシーン)など当時共産主義国家圏にもフランスのヌーヴェル・ヴァーグ以降に広まった技法の応用が見られ、一方描かれているのは非常に地方色の強い土着的な前近代的生活様式に暮らす人々なので、手法と題材の取り合わせでも異色な作品になっている。同時期にポーランドやチェコスロバキアなどの共産圏の新しい映画で行われた映画の革新運動はフランスのヌーヴェル・ヴァーグ同様都会生活を描いたものが主流でした。『火の馬』の映像革新と土着文化への着目はむしろブラジルの土着的な映画運動に近いのですが、ブラジル映画の場合土着性への着目は政治性の強い反体制映画に結びついているので、『火の馬』の純粋なフォークロア的関心とは方向は異なると思えます。『火の馬』がソヴィエト政府の不興を買ったのはむしろ社会改革的啓蒙の意図がなく、しかも描かれた土着文化は社会経済学に立脚するソヴィエト共産党が禁制にしている宗教的要素が非常に強いものだった。パラジャーノフの意図はウクライナのカルパチア山地の山林・遊牧地帯で自然と同化して生活しているウクライナ民族には伝承信仰や儀式も日常であり、それを描かずには憎みあう一族や恋人たちの悲劇も、そうした登場人物たちのドラマすら自然現象のように信仰と儀式によって受け入れてしまうウクライナのカルパチア山地民族の心も描けないという認識や洞察があったでしょう。本作は主要人物のほとんどが死んでしまう悲しい物語が、民族の信仰や儀式とともに民族衣装と歌と躍りを交えて、12の章に分けて描かれます。「カルパティア」「イヴァンとマリーチカ」、「牧場」「孤独」「イヴァンとパラーグナ」「働く日々」「クリスマス」「明日は春」「呪術師」「居酒屋」「イヴァンの死」「ピエタ」が12の章=シークエンスをなしており、この形式は以後のパラジャーノフ作品ではより極端に断章化されて踏襲されます。本作ではまだ章ごとの断片性は強くありませんが、それでも一般的な劇映画と較べると章ごとの飛躍は大きく、映画全体を貫く視点人物はいないので主要人物たちのドラマというより一地方(ウクライナのカルパチア山地民族)の群像劇によって一つの民族を描いた映画という観が強い。そうした意味では、ハワイの恋人たちの悲劇を描いたムルナウとフラハティの『タブウ』'31が劇映画の形式をとったハワイ民族のドキュメンタリー映画だったように、『火の馬』も劇映画を含んだウクライナのカルパチア山地民族のドキュメンタリー映画であり、その限りではリアリズム作品とも言えるものです。しかし当時のソヴィエト政府の方針ではこのリアリズムは望ましくない因襲をそのまま描いた不穏当なものとされたので、今日では名誉回復されたにせよ次作ではパラジャーノフは一気にリアリズムを無視した、フォルマリズム的作風に進むことになる。その萌芽は本作にもあったとはいえフォルマリズムではなくより情感に満ちた映画の方向にも道はあったはずで、しかしそうした本作の土着的リアリズムが海外では評価されてもソヴィエト本国では認められなかったのが次作での徹底的なフォルマリズム様式に向かう振り幅を招いたと思われ、しかもそれはあまりの極端な形式化のために難解で危険な作品と見なされ、パラジャーノフを15年間ものあいだ、映画製作が許されない環境に追いこむことになるのです。
●3月29日(金)
『ざくろの色』Nran guyne (Armenfilm, Armenia'69)*78min, Color : 日本公開平成3年4月21日 : https://youtu.be/lNJC3YZyIFU (Full Movie, English Subtitle) : https://youtu.be/YR-yEXUPePI (Trailer) : https://youtu.be/Rgjicual-eA ('71 Yutkevich's Edit Cut Version, English Subtitle)
○アンディ・ウォホール『チェルシー・ガールズ』Chelsea Girls (Andy Warhol's Factory'66) : https://youtu.be/d9DjdqYwl8M (Full Movie)*210min, B/W
○ヴェルナー・シュレーター『アイカ・カタパ』Eika Katappa (Werner Schroeter Production'69) : https://www.youtube.com/playlist?list=PLAlaOM9YeRfZ5XjY_Q3iK9V6P-tXGMxfx (Extracts)*144min, Color
○ヴェルナー・シュレーター『マリア・マリブランの死』(Werner Schroeter Production-ZDF'71) : https://youtu.be/yYloLMIzU9Q (Full Movie)*104min, Color
もし『ざくろの色』とパラジャーノフ映画にご興味お持ちの方がいらしてシュレーター作品未見でしたら、ぜひ『マリア・マリブランの死』なりともご覧になっていただければと切に思いますが、比較はあとに回して、日本では『ざくろの色』は'71年の(助監督セルゲイ・ユトケーヴィッチの再編集による)一般公開版と、もともと『サヤト・ノヴァ』というタイトルで'69年に完成試写されるも映画省からの批判で一部の短期上映に終わり回収されたパラジャーノフ自身による完成版は失われているので、残存フィルムと一般公開版からパラジャーノフ版をほぼ復原して定着したタイトル『ざくろの色』に改めた復原版の2種類が公開・映像ソフト化されています。ただし復原版も完全な'69年版の復原ではなく一般公開版(ユトケーヴィッチ編集版)を生かしてあるそうで、いわば折衷版なのですが現在ではこの一般公開版より5分長い復原版=折衷版を標準とするようですし、活人画的映像の連続する作品ですのであらすじ上でも観較べてもほとんど印象は変わりません。ユトケーヴィッチ編集版の方が台詞や字幕挿入が少し多いかな、と思う程度ですが、復原版でもフィルムの欠損部分は編集版からの台詞や字幕で補ってあるらしいので復原版では無言のショットが少しふえたかな、というくらいです。それにパラジャーノフの没後、つい近年まで絶大な評価を受けて語り継がれていたのは一般公開の編集版なので、復原版といっても実はそれほど変わっておらず、ユトケーヴィッチは『火の馬』でも助監督だった人ですから当局に駄目出しをくらった『サヤト・ノヴァ』を『ざくろの色』と改題し問題のありそうな箇所は直しました、と改訂したふりをして大していじっていなかったとも取れるので、台詞や字幕挿入はいかにも「改訂しました」という目くらましではないかと思える。実物はリンクでご覧になれますので、日本公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきます。
[ 解説 ]('71年助監督セルゲイ・ユトケーヴィッチ再編集版日本劇場公開時) 18世紀のアルメニアの詩人サヤト・ノヴァの生涯にオマージュを捧げた八章の美しい映像詩編。伝記ではなく、その時代の人々の情熱や感情を台詞のほとんどない映像言語で描いている。静物画のような題名がしめす通り、絵画的な美しさを放ち、また神秘的で謎めいた儀式性と様式美の面でタルコフスキーの「鏡」と並び称される作品である。監督は、「火の馬」「アシク・ケリブ」「スラム砦の伝説」のセルゲイ・パラジャーノフ。また、ゴダールはこの作品から多大な映画的信仰を与えられ、後年「パッション(1982)」を撮ったと伝えられている。
[ 解説 ]('69年オリジナル・アルメニア版復原版自主公開時) 宮廷詩人、サヤト・ノヴァの生涯を描いたセルゲイ・パラジャーノフの代表作。当初、製作された作品がソ連当局の検閲を受け、セルゲイ・ユトケーヴィチの再編集により公開された作品。サヤト・ノヴァの詩的世界を台詞なしの美しいイメージ映像で描く。【スタッフ&キャスト】監督・原案:セルゲイ・パラジャーノフ 撮影:スレン・シャフバジャン 美術:ステパン・アンドラニキャン 音楽:ティグラン・マンスーリャン 助監督:R・ヤムカリャン 出演:ソフィコ・チアウレリ/メルコプ・アレクアン/ヴィレン・ガレスタイン
[ あらすじ ] 18世紀アルメニアの詩人サヤト・ノヴァの生涯にオマージュを捧げた美しい映像詩。サヤト・ノヴァの生涯を全8章に分けて追い、愛と才に溢れた詩人の生涯を宮廷や修道院を舞台に描く。そこに映し出される人々の情熱や感情を、台詞のほとんどない映像言語で描いている。それは豊かな詩であり、舞踏であり、そして全編動く絵画である。絢爛な美術品のような美しさを放ち、また神秘的で謎めいた儀式性と様式美に彩られている。「第1章・詩人の幼年時代」雷雨に濡れた膨大な書物を干して乾かす日常の風景。幼いサヤト・ノヴァ(メルコプ・アレクヤン)の、書物への愛の芽生え。「第2章・詩人の青年時代」宮廷詩人となったサヤト・ノヴァ(ソフィコ・チアウレリ)は王妃(ソフィコ・チアウレリ)と恋をする。彼は琴の才に秀で、愛の詩を捧げる。『第3章・王の館』王は狩りに出かけ、神に祈りが捧げられる。王妃との悲恋は、詩人を死の予感で満たす。『第4章・修道院』詩人(ヴィレン・ガレスタイン)は修道院に幽閉された。そこにあるのは婚礼の喜び、宴の聖歌、そしてカザロス大司教の崩御の悲しみ。『第5章・詩人の夢』夢になかに全ての過去がある。幼い詩人、両親、王妃がいる。『第6章・詩人の老年時代』彼の眼差しは涙に閉ざされ、理性は熱に浮かされた。心傷つき、彼は寺院を去る。『第7章・死の天使との出会い』死神が詩人(G・ゲゲチコリ)の胸を血で汚す、それともそれはざくろの汁か。『第8章・詩人の死』詩人は死に、彼方へと続く一本の道を手探りで進む。だが肉体が滅びても、その詩才は不滅なのだ。
――今回キネマ旬報の紹介文で読むまでゴダールの『パッション』が本作へのオマージュとは知りませんでした。活人画映画を撮る撮影クルーを描いたあの『パッション』はてっきりコメディ映画を意図したものだと思っていたのですが、ゴダールはあれを真面目にパラジャーノフに敬意をこめて作ったのか。ちょっと素面であんなものを作っていたとは思えないので、何か大きな誤解があるような気がします。スタイルの上で『火の馬』から極端に変わった点では、本作はすべてフィックス・ショットの上にカット数も少ないこと。台詞も極端に少なく、人物名と状況を示す程度にしかない。8つのシークエンスはぶつ切れでほとんどオムニバス構成といえるほどで、かといってシークエンス単位で短編映画をなすほどのドラマ性もなく主人公の生涯の段階を断片的に切り取っただけになっている。子どもの頃、青年時代、中年期はそれぞれ別の俳優が演じるので「第5章・詩人の夢」などはいっぺんに出てくる。しかも「第2章・詩人の青年時代」で宮廷詩人になった主人公と生涯の夢の女性となる王妃はどちらも同じ女優ソフィコ・チアウレリが演じていて、チアウレリは映画全編では男女の性別問わず6役を演じている(同じ手法は断章形式とともに、ウォホール、シュレーター作品でも行われています)。そのため宮廷詩人時代のラブシーンはカメラに正面を向いた詩人役のチアウレリと王妃役のチアウレリが交互にカットされて相対しているという演出になる。全編がそういう具合で、近世アルメニアの美術や小道具、衣装を再現した活人画映像による18世紀の宮廷詩人(生い立ち、王妃との恋愛から修道院に幽閉され、死を迎えるまで)の伝記なのですが、いわゆるリアリズムの劇映画の演技はなくて、人物の動作もほとんど左右対象のフィックス・ショット内での様式的な振りつけに限定されている。アンディ・ウォホールやヴェルナー・シュレーターの実験的アンダーグラウンド映画と手法はほとんど同じことを国家予算製作の歴史映画でやっている。『火の馬』でも西洋文化圏の感覚では異様な色彩感覚がカラー映画(ソヴィエト映画だからアグファカラー・フィルムでしょう)で堪能できるのが魅力でしたが(恋人マリーチカが事故死した次のシークエンス前半だけB/Wになる、という趣向もありました)、本作は近世アルメニア美術、壁画、小道具、衣装と赤を基調にした美術映画で、儀式や風習の宗教性を上回って全編が様式化されている。おそらく欧米諸国の映画人にはこのエキゾチシズムが強烈だったので、また本作のような映画製作がソヴィエトでは困難で実際弾圧すら招くようなものという事情も加味したのが本作への高い評価になったのでしょう。しかし本作からエキゾチシズムを除けば本質的には何が残るか疑問になるのが欧米にもロシアにも同じくらいとは言わずともそれぞれに懸隔がある日本人から観た印象で、ウォホールの『チェルシー・ガールズ』やシュレーターの『アイカ・カタパ』『マリア・マリブランの死』はエキゾチシズムの意識が意図されていない分もっとストレートに観客に訴えてくる映画になっている。『ざくろの色』のパラジャーノフは美術効果のエキゾチシズムにあまりに映画を託しすぎていて、これでは映画が動くからくり写真だった時代と変わらないではないか、とも思えてきます。観ている最中には楽しめますが、観終えると何も残らない。それに較べれば『チェルシー・ガールズ』や『アイカ・カタパ』『マリア・マリブランの死』は観る前と観たあとでは世界が変わって見える。映画を観ることが観賞にとどまらず体験になるだけの力をそなえた映画だからです。『ざくろの色』は観客に観賞以上のものを与えてはくれない、という不満がある。『チェルシー・ガールズ』は製作費3,000ドル(!)で作られたそうですがおそらくシュレーター作品も同程度でしょう。『ざくろの色』は少なくともその数百倍の予算はかけて作られた映画でしょうが、良くも悪くも芸術映画になりきってしまっている。それだけではとても'60~'70年代ソヴィエト映画の最高水準を示す映画とは思えない。またこれを危険視した当時のソヴィエトの映画状況も過剰反応に思えるのです。