人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

集成版『偽ムーミン谷のレストラン』第一章

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  (1)

 第一章。
 ムーミン谷にレストランができたそうだよ、とムーミンパパが新聞から顔を上げると、言いました。今朝のムーミン家の居間には、
・今ここにいる人
・ここにいない人
 のどちらも集まっています。それほど広くもない居間に全員が収まるのは、ムーミン谷の住民は人ではなくトロールで融通が利くからです。
 そうだ、わが家は食事のふりならずっとしてきたが、それは家庭という雰囲気の演出のためであって実際に食事をしたことはない。そうだねママ?
 そうですよ、とママはおっとりと答えます。
 私がパイプをくゆらせ安楽椅子で新聞を読んでいるのもそうだ。毎日新聞ムーミン谷版は半年に一度しか出ない。半年に一度の紙面を年中読むのを新聞と呼べるだろうか。ムーミン谷にはタウン誌というものもないのだ。
 それで、ねえパパ、新聞にレストランができたって載ってたの?と偽ムーミンが無邪気を装って尋ねます。その頃ムーミンは全身を拘束され地下の穴蔵に幽閉されていました。
 かなり冷え込み、また拘束のストレスもあり恒温動物なら風邪をひくような環境ですが、トロールなのでただ動けないだけです。容貌は瓜二つなので、なにか弱みを握るたびに偽ムーミンムーミンを脅して入れ違い遊びをしてきましたが、弱みを握られる側にも落ち度があると考えて現状を肯定してしまう卑屈さがムーミンにはありました。
 ねえ、レストラン行くの?と再び偽ムーミン。よく見ると頭部のつむじにあたる部分からアホ毛が三本生えていることでも偽物だと気づくはずですが、ムーミン谷の人びとは細かいことは気にしません。
 そこだよ問題は、とムーミンパパ。レストランに行くには、あらかじめいくつかの条件がある。まず正当な連れがいること、これは問題はない。ムーミン一家だからな。正当な連れ?おかしな組み合わせでレストランに入ったら変だということだよ。たとえばママがスナフキンとミイの三人でレストランに行ったらミイをアリバイにした不倫のように見えるだろう?
 あなた止めてくださいよ、とムーミンママがおっとりたしなめます。
 なら簡単に言おう。ムーミン、きみはお腹が空いたことがあるか?
 うん。そうか。でも一家で食卓につくともう空腹ではなくなるだろ?私たちムーミントロールは食事のふりをするだけでいいのだ。だがレストランでは実際に料理を食べなければならないのだぞ。


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 案外手間はかからなかったようだな、とムーミンパパはレストランのドアの前に立ち、ムーミンムーミンママを振りかえりました。ムーミン、実は偽ムーミンムーミン家の居間の会話中、危険を察してトイレに立ち、本物のムーミンと入れ替わっていたのです。
ムーミンが抱いた疑惑とは主に、
・情報源があやしい
・謎のレストランという設定がくさい
・特上の料理が出る
・挙句に食材にされる
 その根拠としては、半年に一度の新聞が今朝届いたとは思えませんし、ムーミンパパの頭はどうも不思議な電波を拾っているらしい。顧客を肥らせ食材にする話はいくつか知っている。偽ムーミンムーミン谷の公立図書館に隠れて勝手に住んでおり、女性司書とも肉体関係があるので耳年増なのです。ムーミン谷の識字率は小数点を越えてマイナス値に達していますので、これほど偽ムーミンに好都合な施設はありません。
さらに、
ムーミン谷には通貨がない
 ――というのも偽ムーミンの抱いた疑惑の根拠でした。正確には現在は通貨がないが、過去には1ムーミン2ムーミンという単位が存在していたらしい。だがこれはかつて貨幣経済が行われていた、というよりも人身売買経済がムーミン谷の制度だったのではないか、と半ばタブーになっています。おそらくそれはムーミン族が高次意識体たるトロールに到達する前で、食事や運動、買い物、排泄、性交、入浴などはトロール化以前の生活習慣の名残ではないか、と偽ムーミンは性交中に女性司書から教わりました。そんなの学校じゃ習わなかったよ。学校で教わることなんてみんなウソなのよ(笑)。
 ただし偽ムーミンはおいしいところはいただくつもりでしたので、注文が済んだらトイレに立つようにムーミンを脅してありました。トイレで入れ替わり、食事が済んだら食後のコーヒー中にまたムーミンと入れ替わる。そうすればお勘定は1.25ムーミンでございますという事態にも居合わせずに済む。家族三人の片足・片腕ずつでいいかね?それでは勘定に合いません。パパどうするの?何ならいいのかね?臓器などはいかがでしょうか?
 それに若い臓器ほど高くお引き取りいただけます、と偽ムーミンは想像し、親友の不運に憐憫を禁じ得ませんでした。
 その頃、ムーミンパパはメニューを開いて給仕に尋ねておりました。はい、と給仕、それはロールシャッハ・テストと申します。


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 ……気まずい沈黙が流れました。無礼者、それがムーミン族の長たる私への答えか!とテーブルの上に片足をあげて恫喝の態度に出かねないのがムーミンパパの性格です。能もないのにプライドだけは高いんだからこの野郎と、ムーミンママはエプロンの裏に隠したフライパンの柄を握りしめました。ムーミンパパがムーミン谷の長というのは都合のいい時だけ持ち出してくる理屈で、ムーミン谷はその呼称からもわかるようにムーミンの存在を中心とした空間でした。
 だからといってムーミンがいなければ存在しなかった世界ではなく、元始からスナフキンスナフキンであり、ニョロニョロは目障りな場所に野生し、ミイは昔から金切り声をあげていました。ムーミンパパとムーミンママもそうです。ムーミンに合わせてお茶の水博士に造られたような存在ではなく、人の世のパパやママが潔く子供を基点にした関係代名詞的呼称を受け入れているのと事情に差はないことでした。
 しかしこのトロール棲息特区が代表的個体の名称に基づいてムーミン谷と公称されるからには、ムーミンパパが一族の長と自称し増長するのも無理からぬことです。目に余る事態に至ればムーミンママの適切な判断で頭部にフライパンの一打が下され、人格の初期化が行われてきました。その技は居合の達人級ですので、ムーミン谷の人びとには一瞬ムーミンパパの表情が硬直し、それまでの饒舌が突然寡黙になる現象、としか見えません。
 ただしムーミンママは別にこれを隠れて行っているつもりはないので、偽ムーミンが隠し撮り解析してそれとなく脅迫した時もふふ、どうかしらね、と退けることができました。別に露呈してもムーミン谷の秩序を揺がすような秘密ではないからです。かえって偽ムーミンの方が立場を危うくするのに気づき、以後はムーミンママの挙動は一切不問に付すことにしました。
 レストランの食事に期待がかかるのも図書館司書はコンビニ弁当以外の食事を出しませんし、ムーミン家の食卓は虫のついたままのサラダや腐臭のするスープ、吸殻や毛や輪ゴムの入ったコロッケやハンバーグなどで、これはムーミントロールは食事の必要はなく毎日生ゴミにしては料理しなおしているからです。まともなのはインスタントコーヒーくらいでした。
 その頃レストランではようやく具体的に注文をまとめる決議が取り行われておりました。


  (4)

 ムーミンパパは給仕からメニューの仕組みを聞き出すと、注文が決るまで下がってよろしいと紳士的な態度でしたので、ムーミンママも安心して凶器から手を離しました。ごめんなさいあなた、私難しくてちゃんと聞いてなかったの。
 ぼくも、とムーミン。やれやれママはともかく中学受験も控えて、それでは困るぞ。ムーミンはやはり偽ムーミンの脅しから入れ替わり、大半の授業は習えずに進級したので、釈明できないことでした。
 要するにここのメニューはロール……ロールシャッハ・テスト方式なのだ。ムーミン谷の住人は、見栄は高いが読み書きはまるでいかんからな。テストって何?この図形が何に見えるか、だよ。たとえば私には豚の骨盤に見えるが、それではあんまりなのでスペアリブのフルコースにした。
 ぼくには蝶々に見えるよ。私は潰れたヒキガエルに見えますけど。それは困ったな、とムーミンパパは給仕を呼び止め、今流れているのはなんていう歌かね?少々お待ちください。パパが時間稼ぎするからその間に考えるのだぞ。
 給仕はLPのレコード・ジャケットを持って戻ってきました。解説書を取り出し、先ほどお客さまがお尋ねになった曲はこれです。


「ここからぬけだす道があるはずだ」と/ぺてん師がドロボウにいった/「あまりにもややこしく息つくひまもない/経営者たちはおれのブドー酒をのみ、/農民たちはおれの土地をたがやす/そいつらのだれひとりとして/そのことの価値をしらない」

「そう興奮しなくてもいいさ」/とドロボウはいたわって、いった/「おれたちの仲間でも多くのやつが生きることは/ペテンにすぎないとおもっているさ/だがあんたとおれはそんなことは卒業したし、/これはおれたちの運命じゃない/ウソをしゃべるのはよそう夜がふけてきた」

見張塔からずっと王子たちが見張っていた/すると女たちはみんな出たり/はだしの召使いたちもそうしていた

とおくのほうではヤマネコがうなった/ウマにのった男がふたり近づき/風がほえはじめた


 私は外国語は読めんが、とムーミンパパ、どうもこれは違う歌詞のようだぞ。翻訳でございますから。翻訳?外国語を別の外国語にしたものでございます。臆病者をチキンと言うようなものかね。まあそんなところでございます。
 私チキンソテーにします、とムーミンママ。ぼくも、とムーミン


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 注文を終えて安堵した様子の両親にムーミンは自分も何か言おうとしましたが、その時ふと気づくと、ムーミンパパもムーミンママもあらぬところを凝視しているので、つい忘れて自分もそこに見入りました。
 ムーミンパパは気を取り直し、そうだねママ、それにムーミン、と息子に目をやると宙の一点を見つめているので、はて、と自分も目をやります。
 ムーミンママもハッと気づきましたが、とかく突飛な言動が目立つ夫はともかく息子までが夫と同じ虚空に目を凝らしているのは尋常と思えず、同じ視線の先を見つめました。
 見つめるうちにムーミンもハッと気づきました。何か大事なことにです。
 それをきっかけにつられてスノークも見つめました。つられてフローレンも見つめました。つられてヘムレンさんも見つめました。つられてヘムル署長も見つめました。つられてスティンキーも見つめました。つられてミイも見つめました。つられてミムラも見つめました。つられてジャコウネズミ博士も見つめました。つられてトフスランとビフスランも見つめました。あのスナフキンすらつられて見つめました。
 それでもやっぱりムーミンは自分も何か言おうと思いましたが、ムーミンパパもムーミンママもあらぬところを凝視しているので、つい忘れて自分もそこに見入りました。
 ムーミンパパは我にかえってふたたび妻子に目をやると、やはり宙の一点を見つめているので、はて、と自分も視線を戻します。
 ムーミンママもハッと気づきましたが、夫の奇行は病癖としても息子までが夫と同じ虚空に目を凝らしているのはやはり尋常とは思えず、ふたたび同じ視線の先を見つめます。
 見つめるうちにムーミンもハッと気づきました。今度は忘れるとやばいことでした。しかしその目は宙の一点にすえたままです。
 それをきっかけにまたもやスノークも見つめました。またもやフローレンも見つめました。またもやヘムレンさんも見つめました。またもやヘムル署長も見つめました。またもやスティンキーも見つめました。またもやミイも見つめました。またもやミムラも見つめました。またもやジャコウネズミ博士も見つめました。またもやトフスランとビフスランも見つめました。あのスナフキンすらまたもや見つめました。
 ですが、みんなが視線の先の空間に気をとられている間に、陰謀は着々と進行していたのです。


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 ではご主人さまはスペアリブ、奥さまとお坊ちゃまはチキンソテーをメインに、すべてフルコースでよろしいですね、と、給仕。
 お坊ちゃまですって、笑っちゃうわよねー。やめなさいミイ、と姉のミムラがたしなめます。だーってみんな笑いをこらえているじゃない、とミイが言う通り、ムーミン谷の人びとは爆笑寸前とまではいかずとも、おのおのの形態に応じて苦笑や失笑の体を呈しておりました。もちろんレストランの中でです。物見高いムーミン谷の人びとは毒を食らわばとばかりに、こんなところまでムーミン一家についてきたのでした。
 物置小屋程度のレストランだったのにはさすがのムーミンパパですら一瞬驚きましたが、そこはトロールですから状況に応じた縮尺になれば良いのです。また、トロールは不可視にも不感知にもなれますから、ムーミン谷中の人びとが壁や天井からムーミン一家の一喜一憂を見学しているのを、ムーミン一家の三人は知りません。
 それでもカンとは働くもので、給仕が厨房に去り、ははは、ご主人さまと奥さま・お坊っちゃんときたもんだ、まるでわれわれは人間みたいではないか、と笑いながらもムーミンパパの目はなんとなく空中を向いていました。
 あら、けっこうなことじゃありませんか、とムーミンママも微笑みましたが、ムーミンパパの視線に気づくと、なぞるように宙に目をやります。
 両親のやり取りを聞いていたムーミンは自分も何か言おうと思いましたが、ムーミンパパもムーミンママもあらぬところを凝視しているので、つい忘れて自分もそこに見入りました。
ムーミンパパはそうだねママ、だろムーミン、と息子に目をやると宙の一点を見つめているので、はて、と自分も目をやります。
 ムーミンママもハッと気づきましたが、とかく突飛な言動が目立つ夫だけならともかく息子までが夫と同じ虚空に目を凝らしているのは尋常と思えず、同じ視線の先を見つめました。
 見つめるうちにムーミンもハッと気づきました。
 つられてスノークも見つめました。つられてフローレンも見つめました。つられてヘムレンさんも見つめました。つられてヘムル署長も見つめました。つられてミムラも見つめました。つられてちびのミイも見つめました。スナフキンすらつられて見つめました。
 その間にムーミンは、またトイレで偽ムーミンと入れ替り、そしらぬ顔で戻ってきたのです。


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 ムーミンムーミンパパとムーミンママが宙の一点を見つめて硬直しているのには気づかず、当然いるはずはないスノークがつられて見つめているのも、つられてフローレンも見つめているのも、つられてヘムレンさんも見つめているのも、つられてヘムル署長も見つめているのも、つられてスティンキーも見つめているのも、つられてミイも見つめているのも、つられてミムラも見つめているのも、つられてジャコウネズミ博士も見つめているのも、つられてトフスランとビフスランも見つめているのも、あのスナフキンすらつられて見つめているのも気づきませんでした。
 というのもムーミンムーミンであり、もっとも無知で無害な者を治者にまつりあげるのはあからさまな権力逃走を避けるためによくある少数民族の制度だからです。市井の学者であるヘムレンさんによって異なる種族と解明されるまで、ムーミン族はカバの一種と誤解されていた時期がありました。しかし古代の貨幣単位にすらムーミンの名が用いられているところを見ると、このカバもどきの種族が代々ムーミン谷の象徴であったことは、ほぼ確実です。ムーミン族は代々例外なく間の抜けた男子をもうけることでも特徴があり、怜悧な女子はスノーク族と似通っています。
 ムーミン族とスノーク族は遺伝子形質の99.998%までが一致しており、その差がいわゆる知性なのではないか、とムーミン族以外の誰もが(ムーミン族も女性は)推測していますが、口にするのをはばかるのはフローレンならともかく、カツラ自慢の兄スノークが増長するからです。
 スノークのうぬぼれの強さが知性なら、ことあるごとにこのハゲ!ハゲではないカツラはおシャレなのだ!このカバ!私はカバではない、ムーミンたちに言いたまえ。ムーミンがカバならあんたもカバじゃん!私がカバならお前はバカだ、はっはっは。
 そんな見苦しい応酬をミイ相手に毎日のように繰り返すスノークが、ムーミン谷には文明などは私の部屋にしかない、などとヘムレンさんやジャコウネズミ博士までも嘲っている様子を見ると、嫌味な知性などない方がましだ、とムーミン谷の誰もが思うのでした。
 そうだ注文が済んだんだ、とムーミンは思い出し、トイレ、とひと言言って席を立ちました。そんな事情で誰もがムーミンの中座に気づかなかったのは僥倖というものでしょう。


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 偽ムーミンがテーブルに戻ると意外にもレストランはごったがえしており、スノークとフローレンは兄妹で同じテーブルに、ヘムレンさんとジャコウネズミ博士は学者で同じテーブルに、双子夫婦トフスランとビフスランは双子で同じテーブルに、ヘムル署長とスティンキーは手錠でつながれて同じテーブルに、ミムラとミイは35人の兄弟姉妹と揃って同じテーブルに、あの孤高のスナフキンすらニョロニョロの繁るテーブルで退屈そうにしていました。もちろん、ここにいない人もです。
 話が違うぞムーミン、まあ後で殴るか、と偽ムーミンは頭のアホ毛をなびかせながらムーミン声モードに喉をととのえ、自然な第一声を考えながらテーブルの間を横切ります。
 ちょうどムーミン家のテーブルにはスープが運ばれてきたところでした。まだムーミンが戻りませんよ、とムーミンママ。ならばなおのこと味見しておこう、とムーミンパパはムーミンの皿からえぐるようにしてすくい、おや、これは虫入りのシチューなのだな、ママのコロッケやハンバーグにもよく入っているアレと同じだ、テレビでよく、一匹見かけると30匹います、と言っているアレだ。レストランでも出すのだかられっきとした食用昆虫だったのだな。一匹見かけると30匹なんて、まるでミイの兄妹みたいですねえ。まったくだ、はっはっは。
 その時ムーミンパパたちはまだ周囲に忽然とムーミン谷の人びとが現れたのに気づかなかったので、あのカバ夫婦!とミイがいきり立つのも、待ちなさいミイ、とミムラが止めるのも気づきませんでした。でも。ここでは駄目、殺るなら外で殺りましょう。
 とにかくパパ、とムーミンママ。ひと匙だってそれはムーミンのスープなんだから盗み飲みは駄目。仕方ないなあ、とパパは匙からスープを戻して、スプーンを舐めるくらいならいいだろう?駄目か?ではテーブルクロスの端で拭くぞ。
 じゅー、っとテーブルクロスの端は音をたててスープのしずくを吸いこみ、みるみるうちに変色して溶けていくと、焦げ目のような跡を露出したテーブルに残しました。
 化学反応ってやつだな、とムーミンパパ。面白くなってきたじゃないか。どうやらレストランの料理というものはわれわれが知っているつもりのものとはまるで異なるようだぞ。
 あらどこへ行っていたのムーミン、とムーミンママはおっとりと、偽ムーミンに言いました。


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 トイレだよ、と偽ムーミンはやや低い声で返答しました。今回は体ごとではなく精神だけを遠距離交換したので肉体は本物のムーミンですから、他人の体は発声ひとつとってもすぐには扱いづらいのです。
 本当はいつものように肉体ごと、もっともトロールの体を肉体と呼べれば、まるごと入れ替わりたかったのですが、事情が許さなかったのです。だからトイレというのもウソでしたので、善悪を超越した偽ムーミンの心にも、トロールの意識を心と呼べれば、少し小さなトゲが刺さりました。
 つい先ほどムーミンはレストラン全体の放心状態のなか、まんまとトイレに立ったのですが、ここのトイレは一旦廊下に出る配置でした。ムーミンのような低能児でもトイレくらいはわかります。ここだな、とドアの前に立つと、貼紙に、
・万年掃除中
 とありました。ムーミンは偽ムーミンとの約束と鉄拳制裁を思い浮かべて途方にくれましたが、なんとかしなければとトイレに入りました。
 掃除なんかしてないぞ、おかしいなあとムーミンが作業にかかろうとすると、個室から引きつったようなうめき声がしました。セックスかな?するとガラスの擦れあうような音もします。あっ、そうか。
 ジャンキーだ!こうなるとトイレでボヤボヤしていられません。踏みこまれたらムーミンまで捕まってしまいます。こういうのは案外警察の事件捏造工作なのはヘムル署長からたまに聞きます。ムーミン谷では麻薬犯は無条件で死刑か完全な終身刑。法外ですがその方が面白いからです。
 ムーミンにしては珍しく機転と実行力が一致して、咄嗟に洗面台の鏡を叩き割ると素早く大きなカケラを二枚選んで廊下に飛び出しました。ムーミンは悪を知らない種族なので公衆道徳クソくらえなのです。
・用具室
 にムーミンは入ると、苦心して鏡のカケラを合わせ鏡にして自分の顔を映しました。一瞬遅れて、遅かったじゃないか、と鏡に偽ムーミンの顔の半面が映りました。それに全身が入っていないぞ。意識の交換しかできなかったのはそういうわけです。
 ムーミンの言い訳と状況説明をフンフンと聞き、罵詈雑言をあびせ、ついでに戻る時はトイレでやるぞと脅して、二体のムーミンは精神交換しました。頭からは偽ムーミンを表すアホ毛フラグが立ちました。
 さてムーミンも戻ったし、とムーミンパパ、食事を始めようじゃないか。


  (10)

 ムーミンパパはさりげなく家族に告げただけですが、そのひと言でスノークとフローレン兄妹もぎょっとムーミン一家を見つめ、ヘムレンさんとジャコウネズミ博士もムーミン一家を学術的に見つめ、双子夫婦のトフスランとビフスランも双子だからそっくりな顔で見つめ、ヘムル署長とスティンキーもおまわりと泥棒の垣根なく見つめ、ミムラとミイも35人の兄弟姉妹集団で見つめ、あの孤高のスナフキンもニョロニョロの繁るテーブルで伏せていた顔を上げました。もちろん、ここにいない人もです。
 つまりそれまで不可視のバリア、もしくはズレた位相空間からからムーミン一家の様子をうかがっていた断層が一瞬にして閉じたので、空気がその一瞬破裂し、レストラン内の食客たちの鼓膜が張ると、やがてじいんじいんと耳鳴りを残しながら回復していきました。ほとんどの人が、とは言えトロールですが、思わず耳を押さえました。
 ムーミンママだけは命にかけても大切なハンドバッグを膝の上で握りしめていました。まれに紛失でもしようものならムーミンママは狂乱してムーミン谷中を大パニックに陥れますが、なにしろ中にはムーミンママ本人が被写体のあらゆる時期に渡る猥褻写真が匿してあるのです。彼らの夫婦関係にどこかすきま風が吹いているのは、ムーミンパパ(元冒険家)がシベリアへの無謀な新婚旅行中の遭難事故で、昏睡している新妻の荷物に何か役に立つものはないかとハンドバッグの中身を知ってしまったからでした。
 当然ムーミンママはこのサノバビッチ!と罵り激怒して成田離婚を主張しましたが、どうせ私は捨て子育ちさ(事実)、そもそも海難事故で溺死寸前のママを助けた(それも事実)のがわれわれのなれ染めではないか、とムーミンパパが開き直るので、ムーミンママもならばいっそかかあ天下で通す口実ができたようなものでした。
 そして沈黙。今度はムーミン一家、スノークとフローレン、ヘムレンさんとジャコウネズミ博士、トフスランとビフスラン、ヘムル署長とスティンキー、ミムラとミイと兄弟姉妹35人にあの孤高のスナフキンまでもが腹の探りあいです。ニョロニョロはサンポールを撒かれる前にさっさと姿を消しました。
 こういう時こそ出番です。ねぇみんなどうしたの?やあムーミン、と一堂は偽ムーミンのひと言でたちまちなごやかになりました。しめしめ。
 第一章完。


(五部作『偽ムーミン谷のレストラン』第一部・初出2013~14年、全八章・80回完結)
(お借りした画像は本文と全然関係ありません)