人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

集成版『偽ムーミン谷のレストラン』第四章

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 第四章。
 実は私も同じ疑問を持っていたのだ、とムーミンパパは言いました。それがいつからのことかは憶えていないが、他人と話題にしたこともある。だが確証をつかんだのは一度もないのだ、とムーミンパパは頭をかかえました。しかしこれではあまりに話が飛ぶので、もう少しこれまでの会話をさかのぼってみましょう。
・五分前
 食事マナーの悪さを始め、日頃の礼儀作法までムーミンママと偽ムーミンに責められるに及んでは、ムーミンパパも開き直る手に出たのです。ふーん私はどうせ教養ないし、フィンランド政府のムーミン特別手当だけが収入の宿六さ。一応学校に通いはしたが、施設育ちだから義務教育からは逃げられなかっただけだ。
そういうものなの?
 ムーミン、パパの言うことは昔の話よ、とムーミンママが即座につくろいます。今は勉強も遊びもどちらも大事なの。パパだってああ見えてそれほど馬鹿じゃないのよ。
 馬鹿だと?どさくさ紛れとはいえ自分の亭主を馬鹿とはなんだ!
 と、こうしてつらねていくとムーミンママの暴言もいかにも唐突なので、もう少し会話をさかのぼってみた方がいいでしょう。
・10分前
 ところでムーミン、学校の成績がこの頃思わしくないそうじゃないか?とムーミンパパは嬉しそうに言いました。学校は楽しくないのかい?
 そんなことを言われても偽ムーミンは悪戯を目的にしか学校になど行ったことがなく、表向きにはムーミンとして入れ替っているだけですから、自分はともかく学校がムーミンにとって楽しいかはわかりません。偽ムーミンにはフローレンといいなずけ同士など虫酸が走るので極力冷淡な態度で接していましたが、冷淡にすればするほど馴れ馴れしくしてくるのがフローレンでした。しかも多少はムーミンのため、というよりムーミンらしさを装うために友好的な態度をとろうとすると、今度はフローレンの方が(偽)ムーミンなど眼中にない様子。若い女にはよくあることよ、と情婦には笑って済まされても、偽ムーミンムーミンになりすます唯一の不愉快はフローレンでした。
 返事がないのでムーミンパパはムーミンママに話を向けました。われわれの小さい頃も学校の教師よりスナフキンが先生だったようなものだな。ということは、スナフキンはいつからこの谷にいるのか?本人ですら知らないのではないか?


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 最初、人びとはスナフキンの存在に気がつきませんでした。あるいは、気がつかないふりをしていました。気づくとはすなわちその存在を認めることであり、認めてしまえばそれは間違いだ、認識の違いだと言ってもあとの祭りです。
 ですが認識の違いにも種類はあり、たとえばカップルの一方が関係に倦怠を感じて商売女、あるいはホストに入れ上げた場合、
・この浮気者
 と責めるのと、
・本気じゃないからm*_m
と詫びるのは同一事件をめぐる混乱ですが、
・解釈の相違!
 と追い打ちをかけるのはどちらにも可能で、ならば両者は修辞上意見の一致をみたはずです。でも実際はそれで治まる男女関係とは現実ではごく稀で、針の穴からラクダを覗いて、
・針の穴からラクダが通るぞ!
 と主張するようなものですが、ムーミン谷には現在ラクダはいないのです。一応現在と断るのは、ムーミン谷はどうやら極度に高度な発達をとげた文明の跡地に拓けた谷らしく、過去の文明の痕跡もまた現代のムーミン谷に属するとすればラクダがいなかった、とは断言できない。ただし現在はラクダはいない、ラクダに類似したトロールもいないというわけです。
 いないものを例にあげていいのなら、クジラの場合はどうなるでしょう?ラクダを覗くにも六畳一間の対角線くらいの距離はとらねばなりませんが、この際だからモビー・ディックくらいはでかいクジラを想定したいと思います。白鯨というくらいですからシロナガスクジラを指すとして、シロナガスクジラは絶滅種の恐竜などを含めても、地球上最大の体長を誇る生物として知られています。観測された最大の個体は34メートルの体長に及んだそうですから、確かに陸地で生きるには不向きでしょう。
 ラクダを覗いた要領でクジラ、それもシロナガスクジラを針の穴から覗くとなると、普通に両眼の視野に収めるにも相当の距離をとらなければなりません。ですがムーミン谷とはどのくらいの幅と長さを持つ地勢なのか、これまで多くの試みが素人によってなされましたが、全長ボート大から長野県大までさまざま、まちまちでした。市民プール大ではシロナガスクジラ自体が入らず、ムーミン谷以外の場所で試みてもそれはムーミン谷の真実にはならないのです。
 そこで測量技師が呼ばれました。名前はスナフキン、ですがスナフキンが着いた頃には、依頼は忘れられていたのです。しかもトロールの地で生きることはトロールと化すことでした。


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 ホッピーで乾杯というのも間が抜けておるが仕方があるまい。しかしジョッキとはすまんな。容器自体に重みがあるから利き腕で持たんとつらかろう。
 それはあっしも気づきませんでした。でも瓶のホッピーなぞありますかね?だいたいホッピー自体、他人が飲むのを見たことはあるが自分じゃまず飲みませんですからね。
 私もだ。ひょっとしたら私はこれが記念すべき初ホッピーかもしれんぞ。
 記念するようなことかはわかりませんが、たぶんあっしもです。手下どもにどさくさ紛れに飲まされていたら別ですが。
おたがい初ホッピーか。法を表と裏から支えるわれわれがそんなケチくさいことで一致するとは、実に景気の悪い話だな。なんだか大事なものを失ったような気がしないか?
 いやあ、あっしは物盗り専門なんで、失うものは命しかないです。でも物盗りの立場としても、近ごろの景気の悪さはねえ。税率を上げて吸い上げた金も景気を上げるどころか、世間をケチにしているだけじゃないですか。
 それにはわれわれも困っていてね、なにしろ経済政策と言っても、過去には独自のシステムがあってなんとか維持してきたからこそ現在のこのコミューンもあるのだが、今やわれわれは先進国のシステムを模倣するしかなく、その先進国さえもことごとく破綻をきたしておる。ではわれわれが自給自足だった頃のシステムを取り戻せるかといえば、後戻りはとうてい無理なほどコミューンの性格は変質している。だからきみたちプロの知恵を借りたいわけだ。
 そうですねえ、これも先進国の手口ですが、司法の活気のために犯罪の再生産を促進する手がありますね。まず刑期を短くして再犯率を高めます。
 いいな、それから?
 禁止条例を増やし、一般市民を手頃な程度の軽犯罪者にして検挙数を上げます。密売品なら売人をはびこらせて売人との連携で違法物所持の現場を押さえます。ホテルの一室や路上駐車なんかがいいですな。つまりは、もっとプロを活用してくださいよ。職業犯罪者は泳がせておき市民を誘導してガンガン検挙する、その辺はまだ先進国から学ぶ余地はありますよ。
 うむ、きみもさすが裏の世界の親分だけあるな。
 たとえば今、外食禁止条例を出せばこの店の客は一網打尽ですぜ。
いや、とヘムル署長は苦笑しました。その条例は一度施行され、廃されたことがあるんだ。スティンキーくんが来る前だがな。知りたいかね?


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 これはなんだろう、たぶん誰でも立ち寄っていい種類の祝賀会、おそらく立食パーティが催されているに違いない。そう確信したスナフキンは、中からにぎやかな人声が聞えてくる建物の開け放したドアから玄関をくぐりました。最後の食事にありついたのはいつのことだったか、もう思い出せません。
 食事をとらない生き物は徐々に衰弱していきますが、食事をとらないトロールはさまざまな変化をきたします。これには種族差もあれば個体差もあって一律には言えませんが、トロールにとって食事はエネルギー代謝のために必要なのではなく、いわば個体という概念の維持のために必要な行為なので、フィジカルまたはヴァイタル的な衰弱ではなく概念的衰弱、即ち、
・形態が崩れる
・矮小化する
・影が薄くなる
 などの現象が起ります。ですからスナフキンの存在は尋常にはほとんど誰からも見えない状態になっていました。光線や風の、ほんのちょっとした屈折や反射がかろうじて見えないスナフキンの輪郭を映し出すことがあるきりでした。これを日本の諺では、
・柳の下に幽霊
 と言うのは当らずとも遠からずといえるでしょう。それはさておき、
 スナフキンは仕事の依頼があってこんな土地まで来たのですから、到着さえすれば当然然るべき応対を受けて宿にも食にも日用品にもありつけるものと、水筒一本携えてきませんでした。近頃の洗濯機は入浴中に洗濯から乾燥まで完了しますから、着替えも用意してありません。依頼された仕事はやや長期に渡る可能性がありましたが、住民のいる土地なら商店くらいあるでしょう。ごく少額の貨幣しか持参しなかったのは現地の通貨と換金できるか不明でしたし、契約では衣食住は保証されるはずだったのです。
 つい先ほどにはスナフキンは周囲にこの土地のあちこち、主にじめじめして薄汚れ、悪臭すら地表から漂ってくるような場所をどうも好むらしい、おそらく陸生のカツオノエボシやマヨイアイオイクラゲのような原始的群体トロールの一種ではないかと思われるそれが辺りに生えている池から、帽子で水を汲みました。濁った水面ですが周囲の木々は映ります。スナフキンは手をかざし、水面を覗いてみました。ついにおれは着衣もろとも見えなくなったのか。
 そんなわけで、スナフキンが入りこんだのがムーミン家の結婚披露宴会場だったのです。


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・卑怯もの!
 とフローレンはいつもより低く、ですがレストランのすみずみまで響きわたる声で罵りました。それは普段の彼女を知るなら唖然とするような豹変ぶりで、居丈高ではないだけ冷酷に真実を突いた鋭さを感じさせました。それは決して彼女が口にしたことのない言葉でした。
 卑怯もの?なんのことか、ぼくにはちっともわからないよ、と稚拙な受け答えをしたのはムーミンです。フローレンとは対照的に、とぼけてみせるムーミンはいつものムーミンでした。きみは頭でも痛いのかな?幸いここはレストランだし、幸い隣には薬局がある。
・看板『国民薬局』
 国民薬局、非国民薬局、どうでもいいわ。いま私に必要なのは頭痛薬じゃない。でももし薬局にあれば…
 わかった、便秘薬だね。
 違うわ!あなたには女の心はわからないのよ。
 そんなことないわ!私でも女言葉くらい使えるわよ。でも彼氏がおネエしゃべりしていたらあなただってヤよね?
 お願いだから止めて…。
 で、頭痛でもない便秘でもないなら、他にはなあに?水虫かい?
 あなたにはその程度の想像力しかないのね。国民薬局で買えるもので治せないものはないと思って?
・コクミン薬局はあなどれないゾ
 あの店はね、F1のチケットと居酒屋のドリンク券でお腹の薬を譲ってくれるんだゾ。だてに国民薬局というんじゃないんだゾ。
 私も聞いたことはあるわ。でもそれは相手がブタの場合だけでしょ?
 どうしてブタの場合だけなんだい?
 そうでもしなきゃ追い払えないからよ。コマンタレブーとかホザいて座り込みでもされたら嫌でしょ?
 それならぼくはカバのふりをするよ。ゴネるカバも同じくらい嫌だろ?
 あなたの場合フリしなくてもカバでしょ?(嘲笑)
 (絶句して)きみたちスノーク族がそんなこと言えるのか!ムーミン族とスノーク族は代々の婚姻で事実上混血じゃないか。やめよう、馬鹿馬鹿しいよ。カバ似のトロールどうしがカバと罵りあってもらちがあかないよ。LOVE NOT WAR!っていうじゃないか。それより不純異性交遊でもしようよ、フローレン。
 ……それはプロポーズと受け取って良くて?
 そうさ。
・店中の客の拍手
・フラッシュのシャワー
 照明が点き、新郎新婦が舞台を降りました。スナフキンはぼーっと壁にもたれていました。そこは当時谷で唯一のレストランでした。


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 せっかくの夕べなのであえて話題にはしなかったが、とヘムレンさん。アレをいわゆる黒歴史と言うのだろうな。ここまで言えばきみには通じると思うが。
 ああ、アレかね、とジャコウネズミ博士。おたがいアレには悩まされたものだ。私もムーミン谷の紀元までは精通してはいないし、文献によると1917年という解明されていない年号や、それ以前にはレーニンという伝説がどうも視察に来た様子があり、このレーニンとはどうも1917年10月にワルプルギスの夜と化したらしいが、なにしろデータ不足で因果関係がよくわからん。きみの方が詳しいんじゃないかね?
 半端なところで下駄を預けるのか(笑)とヘムレンさんは頭を振って、1917年が何を意味しているのか、要するにわれわれトロールの文化は紀元という風習を廃棄してしまったからな。いったい一年とはどこからどこまでを指すのか、一か月とはどのくらいの長さか、われわれはもう考えることを止めたのだ。ただし一日だけはどうにもならん。陽が上ってニョロニョロが生え(失礼、許してくれ)、陽が沈んでニョロニョロが消える。これだけは、ね。
 学問的な考察に礼儀作法はいらんよ。私だってそいつに言及することはあるさ。腐女子の前では特にね。
 まあジェンダーに関わる話題は避けようや。そこで話を戻すと、この店に来てふと思ったのだよ。文献によると1917年以前は帝制時代と呼ぶらしい。帝制時代……どういう意味かな?
 今後の研究課題、資料発掘を待つしかないな。で?
アレ……きみとははっきり話そう、かつてあった谷唯一のレストランは、その帝制時代の遺産だったのではないか?
 アレがか?
 そうだ。あの店は谷で唯一トロール文化に違和感をもたらす諸悪の根源だった。結局われわれムーミン谷評議会でヘムル署長に外食禁止条令を施行してもらい、店が夜逃げしてから条令を廃止した。あの時は治安維持法の適用まで検討したのは危なかったな。
 ただし廃止した以上同じ条令は二度と使えなくなったがね。危険は同じさ。
 だがあの店より危険な店があるかね?あのコックの料理は殺人的だった。カブラのズンドコ煮とかトンビのパッパラ揚げとか思い出してみたまえ。
 その頃、ウェイターは厨房に注文を伝えていました。ハーイすぐにネ、と応えた料理人こそ、そのコックカワサキだったのです。


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 ここはレストランなのだということは、看板の文字が読めないスナフキンでも外装で気づきましたし(宿屋も同様)、漠然とパーティの余興に田舎芝居でもやっているんだな……と思いながらムーミンとフローレンのやり取りを客席から離れた壁にもたれて見ていましたが、それは椅子にかけていたら見えないスナフキンの膝に誰かが座るかもしれないからでした。そうすればきっと座った誰かは、スナフキンの存在を押し除けて腰をおろしてしまうでしょう。
 同じ空間を同時に別々の存在が占有することはできません。スナフキンの存在はその瞬間に消滅してしまいます。見えない、ということはそういうことか、とスナフキンはうそ寒い気持になりました。女湯を覗き放題とか、そういうことじゃないんだな。しかも、
・宿屋に女湯はなかった
 それにこの土地には通貨という概念もないのがわかった。あの若い男、執事の息子というスノークには屈辱的な扱いを受けたが、宿屋のおやじも通報義務に従ったまでだろう。要するにおれは、契約の時点で入国許可が下りたと思っていたのが早計だったのだ。
 というより、そもそも入国許可が問題となるなど事務所の誰もが思いもしなかった。ましてや通貨という概念が存在しないとなると、契約書にあった滞在中の生活の保証とは賃金の前払いという意味ではない。契約書の作成には立ち会っていないから確かなことは言えないが、おそらくこちらが用意した書式に先方が了解しただけなのだ。
 通貨がないなら賃金はどうなる?もちろん賃金の奴隷になりたい者はいない。そしてわれわれを奴隷にしているのは賃金だが、では賃金を廃止すればいいとでもいうのか?
 優秀な測量技師が欲しい、という依頼で技師会からおれが選出された。おれは優秀な測量技師なのだ。酒や女より測量が好き。だがただ働きはしない。そのための契約であるはずだ。
 ……そんなことももちろん重大だが、今はとにかく食い物をどうにかしなくては。スナフキンはこの土地にも少しはある商店を見かけて住民が買い物をする姿は見ましたが、どうやら財産を担保に掛け売りしている様子でした。おれは資産を証明できないどころか、姿すら相手に見えない!
 すると、スナフキンは店中にひどい悪臭が漂いだしたのに気づきました。料理が運ばれてきたのです。


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 どこまで話したっけ?そうだ、この本についてだ。私も面食らったさ。だが私がAmazonヤフオク、「日本の古本屋」で検索してみてもムーミン谷レストランの歴史なんて本の出品はない。つまりムーミン谷立図書館にこれが一冊あるだけなのかもしれん。だとすれば、この本の著者は外部の好事家ではなく、われわれの谷の住民なのはほぼ確実だろう。
 お兄さまはときどき難しい言葉をお使いになるわね。外部の何ですって?
 こうずか、好事家だよ。物好きのことだ。そうかお前は自分の名前や固有名詞を少し読めるだけだったな。ろくに言葉を知らなくても仕方ない。
 これでもライトノベルくらいなら読めるのよ。
 ノベルじゃなくてノヴェルだろ?片腹痛いわ。そんなものは昔はジュヴナイルと呼んだのだ。だいたい新語とは見せかけだけ新しくして旧態依然としたものを売りつけるために捏造されるものさ。ライトノベルだの自己啓発書だのは自分の知性に自信がない者が読むものだ。そういう輩はたとえ学習しても内的必然を欠いた理論家にしかなれないばかりか、おのれの内発性の欠如を学問的態度と思い込むから話にならん。
・お前が言えた義理かよ
 ……でも知らないことは読めない、なんていう本があるのはおかしいわ。だって本は知らないことを知るためにあるものでしょう?
 そう、お前がそういうのももっともだ。確かに読者にとっては本とは知らないことを知るためのものだ。だが著者にとってはどうだろうか。読者は自分が手に取る本の筆者は書いてあることを知り尽くしている、と思って読むわけだ。ここまではいいね?
 ええ、そう思います。
 では著者にとってその本はというと、単に自分の知っていること、理解していることを読者に伝えるように噛み砕いて、または圧縮して述べたのにすぎない。すると著者にとってはそれは本としての意味を失う。なにしろ知らないことを教えてはくれないのだからな。だから……
 おそらく著者お手製の、世界に唯一のこの本は、その点で読者にとっても著者にとっても公平なのではないか。つまり筆者を含めあらゆる読者に公平であるためには、知っていることしか読めないというのが唯一の条件ではなかろうか。
 でもお兄さま、これがそういう本なら、いったいなんの役に立つの?
 そうだな、とスノークは言いました、われわれはまだレストランとはなにか知らないということがわかる。


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 この店にはウェイターはいないらしく、どうやら調理師自身が料理を運んできたようでした。玉子型の胴体の頂点が頭部に当るのか、いわば玉子に目鼻と手足をつけた姿です。この土地でスナフキンは相当異形の姿形にも馴れていましたが、中でもこの調理師はデフォルメの具合が激しい部類でした。
 頚椎に当る部位がないということは、とスナフキンは理系らしく(技師ですから)思いました、後ろを向く時不便だろうな。よく幼児が背後の大人に振り向こうとしてバランスを失い激突するが、あれは首が大人のように要領よく回らないので体ごとひねるからだ、と保育士資格も持っているスナフキンは思いました。子供どころか人嫌いのスナフキンがなぜそんな資格を取ったかといえば、母国が福祉推進国家で保育・医療・介護関係の資格取得を単位に選ぶと奨学金が気前良くおりるのです。スナフキンは理系ですが人の心には関心があり、大学の一般教養で数合わせに受講した発達心理学で幼児〜児童期の人格形成には興味をそそられました。医療は専門的すぎますが、保育と介護から選ぶなら、
・ガキの子守の方がマシ
 と考えたのです。スナフキンはソフトでハンサムでしたので、実習先の保育所でも子供やママさんたちにも人気、実習先の保育士や実習生にもモテモテになり、しまいには全員の女性と関係しましたが(子供以外)、それがバレなかったのもスナフキンの人徳あればこそでした。
 それにしてもこの悪臭は、とスナフキンはけげんに思いましたが、リヤカーまたは猫車のようなワゴンにずらりと並んだ皿やお椀、それらはどれも半球状の蓋がしてあり、宿屋から追い出されてから、いや実際は赴任する途上で食べたサンドイッチ以来何も食べていないスナフキンには、蓋さえ透視できるような気がしました。
 食器が異なるのは料理も異なるに違いない。あのワゴンは見かけはみすぼらしいが、おそらく調理師の側からは数段収納できるようになっていて、最上部に乗っているものだけでも20種類近くはあるようだ。
 しかし料理が着いたのに飲み物が配られている様子はない。ここの連中は乾杯もしないのか?いや、飲み物も一緒に運ばれてきたのかもしれない。すると、
・ハーイお食事ですヨー
 と調理師が口を開くやいなや、店内の空気が殺気立ちました。その声はスナフキンにすら激しい嫌悪感を催させました。
 次回第四章完。


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 われわれにはついに解明できなかったが、最終的に下した判断の正当性は間違いはなかったと信じている。あれは、言うなれば一種の汚染のようなものだった。しかもわれわれはうかつにも外側からではなく、内側から蝕まれていたということに気づくのが遅かった。あまりに酷い有様だったのでわれわれは長い間、それは単にわれわれの目にする現実にすぎないと思いこんでいたのだが、それこそわれわれの自惚れや油断から来る錯覚だったのだ。われわれはあまりにお人好しすぎた。
 もちろんわれわれはおたがいを責めあう必要はない。残されているどんな記録よりもあれは古い歴史を持っていた。記録という習慣が芽生えるよりもさらに昔からあれは存在していたに違いない。またはわれわれの願望があれをいつしか呼び寄せたとも考えられる。だとすればわれわれは汚染されるのを望んでいたのだ。どのように望んでいたかが具体的なかたちであのように現れたのだとすれば、あのような脅威をわれわれが霧消させるにはまったく手を汚さないわけにはいかなかった。
・そして手を汚した
 われわれはそれを実行し、それまでさらされていた誘惑や危機から離れることができたはずだった。平安が退屈だとしても腐敗に浸るよりはいい。
 だが一度はその存在を抹消したはずの不吉、放置しておけばまたわれわれを貪欲と不満が循環する負のスパイラルへと巻き込むあの悪習が今また姿を微妙に変えてわれわれのもとに現れたとなると、これはしばらくは様子を観察しないではわれわれは意見の一致を見ないだろう。
 以前われわれは法の力を借りて危機を遠ざけることができた。それ以外のやり方でわれわれの法より先に存在していたものを排除できないから法に新たな追加をしたのだ。だが追加された条令自体が危機から逃れたわれわれにとっては違憲である、というパラドックスが生じてこの追加条令は廃止された。
 われわれのような国家形体では廃止した条令を再び施行するのは困難で、事実上不可能と言ってよい。そこに今回のような事態が生じる隙があった。だからわれわれはこれがかつてのような脅威の再来ではないことを願うしかない。われわれは学習ということを知らないから、同じ条件であれば同じ過ちをいとも簡単に反復してしまうのだ。
 ……そこでスナフキンはハッと目醒めました。ああ、この悪夢は以前にも見たことがあるぞ。
 第四章完。


(初出2013~14年、全八章・80回完結)
(お借りした画像は本文と全然関係ありません)