人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2019年6月13~15日/続『フランス映画パーフェクトコレクション』の30本(5)

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 コスミック出版『フランス映画パーフェクトコレクション』続刊3セット30本からの年代順視聴は今回から'40年代作品に入ります。'40年代と言ってもフランスは'39年~'45年は第二次世界大戦下だったのでこの時期の新作映画製作本数は減少しており、戦後も'48年にようやく復興が見えてきたというところで、これは北半球で第二次世界大戦に参戦した諸国で唯一アメリカ以外の国では一様に陥った状況でした。逆に言えば本土が戦地にならなかった唯一の大国アメリカ合衆国だけが戦時下でもいっそう戦争映画のみならず娯楽映画を量産していたので、映画産業発祥の当初から優位に立っていたアメリカがますます他国を引き離す映画量産国になったのは第二次世界大戦が国力増産の好機にも働いたので、第二次世界大戦アメリカ合衆国が国際的に政治・経済・文化いずれにおいても世界に冠たる大国として国際情勢を左右する存在になったのも元凶は20世紀の二度の世界大戦による、と言えます。戦時下では現役監督はもとより新人監督のデビューも非常に題材・内容にデリケートな選択が迫られたのは今回の3作が各監督の実質的なデビュー作であり、戦況がどう変化するかも考慮に入れて故意に現代フランスからずらした設定で構想され仕上げられた作品であることでも苦渋の痕が見られ、いずれも腕の立つ監督なのがのちには認められるようにどれも輝かしいデビュー作と言える完成度の高い佳作ばかりですがどこか隔靴掻痒のもどかしさもないでもない。またそうなるのも覚悟の上で作られたような映画とも思え、戦時下の作品という事情が有利にも不利にも働いていると考えられます。後世の観客にはそれが直には伝わらないので、映画自体は戦争を描いたものではないだけに戦時下の作品なのが映画にどんな負荷をかけているか想像するしかない。もどかしいというのはそういう事情です。

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●6月13日(木)
最後の切り札』Dernier Atout (L'Essor Cinematographique Francais=Pathe'42.9.2)*100min, B/W : 日本未公開、映像ソフト発売
◎監督:ジャック・ベッケル(1906-1960)
◎主演:ミレーユ・バラン、レイモン・ルーロー、ピエール・ルノワール、ジョルジュ・ロラン
○警察学校で揃って首席となったクラレンスとモンテス。事件を担当し、先に解決した方を首席にすることとなる。そんな中、高級ホテルで殺人事件が起こり……。J・ベッケルの長編デビュー作。

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 ジャック・ベッケルは父が大手モーター会社社長の富裕階級の家庭出身で、幼少期にポール・セザンヌの紹介で12歳年上のジャン・ルノワールと知りあい、家業のかたわらルノワールの映画には『十字路の夜』'32から『ラ・マルセイエーズ』'38までの9作の助監督に就きました。いわばルノワールの愛弟子と言うべき監督で、本作はルノワールのハリウッド亡命後にベッケルの初の長編劇映画監督作品となったものですが、つづく『赤い手のグッピー』'43、『偽れる装い』'45、『幸福の設計』'47、『エドワールとキャロリーヌ』'51などとともにルノワールの甥っ子か、夭逝したベッケルより1歳年上のジャン・ヴィゴ(1905-1934)がさらに円熟した作品を撮りつづけていたらこんな映画だったろうかと思わせるもので、『赤い手のグッピー』ではいっそう巧みに、『エドワールとキャロリーヌ』ではすでに一家をなした成熟が感じられますが、本作はデビュー長編(短編、共同監督作は本作以前に数作あり)だけに性急な荒っぽさも魅力になっていて、助監督歴がものを言って完成度は高いものの観客が理解するより映画のテンポが速いため理解が追いついて整理する速度がズレるので映画にムラがあるようにも見える面もあります。しかしこれはデビュー長編だからこその意気ごみなので、こういう映画を作りたかったんだという長年のアイディアをこれでもかと詰めこんだ結果、熟考しただけちゃんと辻褄は合っているもののかなり慌ただしい語り口の映画になった印象があり、初めて観るベッケルの映画には向いていないでしょう。長編第2作『赤い手のグッピー』以降はベッケルは緩急心得た語り口を身につけるので、その後のベッケル作品を数作観てからの方が一見目まぐるしい本作も丁寧で控えめな演出や描写が派手な犯罪サスペンスの随所に行き届いているのがわかります。現代映画やテレビドラマの過剰な説明に馴れていると気づきづらいことですが、ことさらクローズアップや切り返しショット、モノローグやナレーションを入れずにさりげなく観客に注意点を気づかせる旨味のある演出が随所にあり、逆に言えば現代映画やテレビドラマ、アニメーションなどはくどいくらい斜め観の観客にもここが見所というのをクローズアップや切り返しショット、スローモーション、モノローグやナレーションなどで強調する作りになっているのが痛感される。本作はラテン文化圏の架空の国家(とは言え実際は当時のフランス、背景は南仏のまま)の都市を舞台にした犯罪サスペンス・スリラーで、警察学校の同点主席卒業生2名がどちらかひとりを主席に決めるためギャング組織壊滅を目標にクラレンス(レイモン・ルーロー)がギャングのふりをした潜入捜査官に、モンテス(ジョルジュ・ロラン)が捜査指揮官になって連絡を取りあい内と外の両面から共同捜査に当たる、というもので、ストーリー自体はあまり重要でなく前半のクライマックスでギャングの手引きをする女・パール(カトリーヌ・カイヤット)が口封じのために街頭で抹殺され、ギャングの大ボス・ルディ(ピエール・ルノワール)の妹・ベラ(ミレーユ・バラン)と恋仲になったクラレンスはギャング組織を嫌うベラに正体を打ち明け彼女の協力のもと偽の警察情報を流したり組織の犯罪計画を漏洩してモンテスの捜査網をうながす、というものです。師のジャン・ルノワールの兄の俳優ピエール・ルノワールはベッケルが初めて助監督に就いたルノワールの『十字路の夜』ではメグレ警視役で名演を披露していましたが、本作はギャング組織の大ボス役で凄みの効いた、主役の若造ルーローとロランを食う存在感があり、ピエール・ルノワールとミレーユ・バランが兄妹とは無理にもほどがありますが『望郷』'36や『愛慾』'37のヒロインだけあってバランの存在感もまた絶大で、捜査官側の俳優はいわば視点キャラクターくらいの役割です。本作は日本未公開作品なので、キネマ旬報のデータベースでは日本盤DVD発売時にごく簡単に紹介されています。
○解説(キネマ旬報外国映画紹介より) ジャック・ベッケル監督のデビュー作となったフィルムノワール。ギャングのボスの相棒が宿泊先のホテルで射殺される。事件を調査することになった新米刑事・クラレンスはボスの妹と恋仲になり、事態は警察とギャングの血で血を洗う抗争へと発展する。【スタッフ&キャスト】監督:ジャック・ベッケル 出演:ミレーユ・バラン/レイモン・ルーロー/ジョルジュ・ロラン/ピエール・ルノワール
 ――キネマ旬報の紹介はこれだけで、脚本、撮影、美術、音楽などのスタッフはあまり知られた人たちではないので脚本家のひとり、モーリス・オーベルジェの映画オリジナル原案なのだけを追記しておけばいいでしょう。小説原作ではなく映画オリジナル原案ならばベッケル自身の原案ではなくても複数案からプロデューサーとともにベッケルが選んだと見なしていいので、フランスの映画批評界で'40年代以降のアメリカの犯罪映画ブームが「フィルム・ノワール(暗黒映画)」と呼称されるようになったのは1946年ですから、批評家によるフィルム・ノワールの発見以前にアメリカの現代犯罪映画の潮流に対応するものをいち早く(本作の架空国家は「Coca-Lora」と、いかにもそれっぽいアメリカ映画のパロディを表明しています)目をつけて作り上げたベッケルの才覚が冴えています。これもフィルム・ノワールを先取りした『十字路の夜』の助監督だっただけはあり、ずばりフランス人がフランスで作ったアメリカ映画にもなっていれば、師ルノワールの『十字路の夜』を継ぐ規格外のフランス映画にもなっている。ガストン・モドーがシカゴから来たギャングの親分と言うことになっていますから本作の舞台はあくまでアメリカではありませんし、『十字路の夜』には出てきた謎の悪女というフィルム・ノワール必須要素はヒロインのバランが捜査官側につくため本作にはありませんが、本作の性急なテンポやサスペンスの持続感は師のルノワール作品でも『十字路の夜』が例外的だったほどで、トーキー以降のフランス映画としては当時異例なものだったでしょう。サスペンスの持続感は引き継いでもテンポの性急さは次作以降のベッケル作品からはもっとじっくり腰を据えたものになるので、デビュー長編ならではの荒っぽさとも意図的な実験とも取れますが1作きりの手法だったには違いなく、それを思うと本作はベッケルがこれを押し進めた作風で行く可能性もあった作品、という未知の領域も見えてくる。バランがさり気ない仕草でルーローの危機を察知しているのを知らせる、など心憎い演出はフランス映画らしい細やかさというのとは別にサイレント時代からの優れた映画にも見られるもので、ベッケルは世代的に20代前半までサイレント映画を観て育った世代です。むしろベッケルの良さは師のルノワールとともにサイレント映画の簡素な視覚的繊細さをサウンド映画時代にもなお十分に生かし得たことにあるのではないでしょうか。

●6月14日(金)
罪の天使たち』Les Anges du peche (Synops'43.6.23)*86min, B/W : 日本公開平成22年(2010年)2月20日
◎監督:ロベール・ブレッソン(1901-1999)
◎主演:ルネ・フォール、ジャニー・オルト
○元受刑者を修道女として迎え入れるドミニコ会修道院。罪深き者を救いたいという一心で修道女になった純真なアンヌ・マリーは、刑務所で一番の問題児テレーズに救いの手を差し伸べるが……。

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 ロベール・ブレッソンには『公共問題』'34という40分の中編映画が先にあるそうですがブレッソン自身によって廃棄処分され公開されていません。1901年生まれと言えばヒッチコックより2歳、ルイス・ブニュエルより1歳年少なだけで、20代で監督デビューすればサイレント時代から活動していてもおかしくない年代の監督です。戦前は画家、映画脚本家をしていたブレッソンは第二次大戦初期に従軍して捕虜にされ、そこで知りあった司祭から依頼されたのがドイツのフランス占領下(ヴィシー政権='40~'44年)中に作られた長編第1作の本作で、前書きに書いてベッケルの『最後の切り札』の感想文に書き落としたのは占領下の映画ならではの表現上の制約と韜晦です。『最後の切り札』が架空国家が舞台のアメリカの通俗娯楽映画みたいな趣向でリアリズムの映画ではないのも一種の現実逃避的内容で検閲の目を逃れるためではないかとひと皮被った印象を受けるのも、ブレッソンの本作が基本的には女性しか出てこない(男が出てくるのは刑務所の訪問場面、時折挿入される警察の場面だけです)カトリックドミニコ会修道院に限定されたドラマであることは、キリスト教カトリックに限らずこうした宗教施設は大半の宗教にありますから普遍的な題材とは言えますが、占領下の世相に触れないで済む格好の題材だったとは言えるでしょう。マルセル・カルネの占領下時代の公開作品『悪魔が夜来る』'42が中世の王国宮廷を舞台にした悪魔の登場するファンタジー作品、占領下に完成まで製作が進められた『天井桟敷の人々』'45が近世の芸人の世界を描いた作品だったのも戦後に芸術的抵抗作品として特に敗戦国(にもかかわらず戦争被害者意識の強かった)の日本ではもてはやされましたが、これも占領下の状況には直接コミットメントしない製作方針が感じられる。ジャン・グレミヨンの現代メロドラマ、庶民ドラマの『曳き船』'41、『高原の情熱』'43、『この空は君のもの』'44などはよほど占領下の抑圧された市民感情を正面から描いていて控えめな構想ながらサイレント時代から幾多の作風の変遷を経てきた監督の誠実さが感じられ、グレミヨンはルノワールとデュヴィヴィエの折衷的な存在だった監督ですがベッケルの第2作以降はグレミヨンに近い庶民ドラマになります。ブレッソンの場合、職業俳優を使わない製作方針はすでに本作『罪の天使たち』から始まっており、42歳の長編デビュー作で年齢的に20代いっぱいがサイレント映画の時代だっただけに、'30年代以降のフランスのサウンド・トーキー映画からではなく直にサイレント映画からブレッソン独自のトーキー映画を作り出した観があり、当時ブレッソンジャン・コクトーと新しい映画運動のために親交がありましたが、コクトーもまた実験映画『詩人の血』'30以来戦後に『美女と野獣』'46、『双頭の鷲』'48、『オルフェ』'50と製作した監督作品は「'30年代以降のフランスのトーキー映画の伝統」と無関係にサイレント時代から突如現れたコクトー独自のトーキー映画と言えるものでした。ブレッソンは職業俳優を起用しないキャスティングを全作品で貫いており(ブレッソン映画に出演したのがきっかけで俳優になった出演者もいますが)、長編デビュー作の本作からそれが始まっているのも演劇人からキャストが組まれるのが普通のフランス映画では異例で、前例はサイレント時代にしかなかったようなものでした。サイレント映画では滑舌や舞台劇的な演技力は問われなかったからですが、それよりもブレッソンの場合は映画に演劇臭を持ちこまない、伝統的な映画手法でなく完全にゼロから映画を作り出すことに意地があったと取れるので、サイレント映画の手法を踏まえることにも関心はなかったでしょう。本作は修道院ドラマですから礼拝曲の詠唱は所々に出てきますがサウンド映画だから歌や踊りという発想ではまったくなく、修道女たちが非礼の謝辞に極端な土下座をする(全身を床にうつ伏せる)のと同様のドミニコ会修道院の日常作法として描かれます。本作は犯罪映画でもあって、刑期を終えて出所したその足で自分に罪をなすりつけた男を射殺してきた女が、刑務所訪問で知りあっていた修道女の修道院に身を隠すため出家志願に入ってくる、というのが前科者の女の係になる献身的な修道女の献身に熱意を抱きすぎたばかりに起こる院内での孤立のドラマと絡んできます。本作は戦後65年あまりを経た2010年にようやく正式に日本公開されましたので、キネマ旬報の紹介を引いておきましょう。
○解説(キネマ旬報外国映画紹介より) 元服役囚を受け入れているドミニコ会女子修道院を舞台に、修道女たちの葛藤や憎しみ、友愛を描く。「田舎司祭の日記」のロベール・ブレッソンによる長編監督デビュー作。脚本に、フランス演劇界の重鎮ジャン・ジロドゥが参加している。出演は、「パルムの僧院」のルネ・フォール、「どん底」のジャニー・オルト。フランス国立映画センター復元版。
○あらすじ(同上) ブルジョワの娘アンヌ=マリー(ルネ・フォール)は修道女になるため、自ら望んでドミニコ会修道院に入る。その修道院は、刑務所で服役していた女性たちも受け入れていた。アンヌ=マリーは刑務所を訪れ、若くて反抗的なテレーズ(ジャニー・オルト)という受刑者と出会う。テレーズに関心を持ったアンヌ=マリーは、出所したら修道院に来るよう彼女を誘う。篤い信仰心と使命感を持ったアンヌ=マリーと、不幸な犯罪に手を染めたテレーズの対峙は、修道女たちの葛藤や憎しみ、友愛を浮き彫りにしていく。
 ――女ばかりのモノセックスな世界を描いて息詰まるような本作は、キリスト教信仰(特にカトリック)に何となく憧憬を抱いているような日本人(特に中年以降の女性)には暴露的な内容に見えるかもしれない嫌な映画です。女性ばかりの集団に起こりがちな派閥や腹芸、捏造の風評や陥れが修道院の中にも満ち満ちていて、危険な前科者は遠巻きにするがその担当者でもっとも純真な信仰と使命感を持つヒロインは周囲の策謀で孤立していってしまう。特異な限定的環境の集団劇とはいえ本作は普遍的な社会の縮図を濃密に描いているので、カトリックドミニコ会修道院といっても決して俗世を超越しているどころかいびりといじめが横行する寄宿制女学校のような環境なのがこれでもかと描かれた作品です。カトリックならではの階級制度やまわりくどい宗教儀式もしっかり描かれており、ラテン文化圏のカトリックに対してアーリア文化圏ではもっと世俗的信仰を目指してプロテスタントが生まれたのも、結局どんな宗教も人間を根源的な救いに導くことにはならない徒労感も伝わってくる。本作のヒロインが抱いている信仰は他の修道女たちが抱いている信仰とは違う、あくまでヒロインだけのもので、集団からうとまれ排除されてしまうのはそれが原因なのですが、双方とも自分の方に理があると頑なに信じているので事態は悪化こそすれ好転しない。また実際、前科者の女の庇護者になろうとするヒロインよりも危険視して距離を置く修道女たちの勘の方が正しくて、前科者の女は殺人の隠れ場所に修道院に来たにすぎないのです。ルイス・ブニュエルは本作を抑圧された女たちのエロティック・サスペンス映画として大いに気に入り、特に謝罪のためヒロインが上司の修道女の足に接吻するシーンを激賞していますが、カトリック国のスペイン人ブニュエルは当然ヒロインがもっとも残酷な運命をたどるのはその信仰がもっとも熱烈だったため、それこそがヒロインの罪であることをちゃんと見抜いており、これはプロテスタントピューリタン的風土では出てこない(救済の対象になる)発想です。カトリックやむしろキリスト教以前のユダヤ教では信仰の過剰による傲慢を無自覚で最大の罪と見なす考え方もあるので、こじつければドイツ占領下フランスではプロテスタント国の侵略に対する宗教的回答と取れなくもない。しかし、だとすれば本作はカトリック信仰に対する内部批判も含んでいるので両刃の剣でもあります。そうした微妙な屈折はありますが、ブレッソンの映画はあとになるほど厳しいスタイルで複雑なニュアンスに富んだものになるので、最初に観るブレッソン作品としてはもっともシンプルでストレートな小品佳作としてお薦めできます。なお現行フィルムの原盤状態も、ベッケルの『最後の切り札』が劣化気味だったのに対して本作は新作のように鮮明な画質で観られるのも魅力になっています。

●6月15日(土)
『密告』Le Corbeau (Continental Films'43.9.28)*91min, B/W : 日本公開昭和25年('50年)11月11日 : キネマ旬報ベストテン9位
◎監督:アンリ=ジョルジュ・クルーゾー(1907-1977)
◎主演:ピエール・フレネー、ジネット・ルクレール
○ある小さな村で「カラス」と名乗る人物から、ジェルマン医師を誹謗中傷する怪文書がばらまかれる。看護婦のマリーが疑われて逮捕されるが、怪文書はいっこうに収まらず酷くなるばかりで……。

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 アンリ=ジョルジュ・クルーゾーはフランス人監督ですが映画界に入ったのはドイツで、これはサイレント時代からパテやトビスなどフランスの大映画社はドイツ資本でドイツに本社があったので、内陸国ドイツは海洋国フランスでも映画社を設立し同じ映画のフランス語版とドイツ語版を作っていた事情があります。フランス製作の作品のドイツ語版が作られる場合もあればドイツ製作の作品のフランス語版が作られる場合もあり、クルーゾーはドイツでフランス語版も平行して作られる映画のスタッフとして映画界に入り、ドイツ映画の共同監督で監督になっていました。もっとも時代はすでにナチス政権下です。クルーゾーがフランスで単独監督の第1作のミステリー映画『犯人は21番に住む』'42で好評を博したのもナチス政権下のドイツが占領したヴィシー政権時代のフランスなのですが、キネマ旬報では戦後の日本初公開時「クルーゾーがドイツ占領下で作った一作。占領軍の指令で作られたこの映画は、フランスの地方都市の腐敗を描くという初目的がゲシュタポ批判に変ってしまっているとの理由で上映を禁止された」と紹介され、昭和25年のキネマ旬報外国映画ベストテン9位にランクされる好評を得ました。しかしのちの、キネマ旬報社刊の『フランス映画史』(岡田晋、田山力哉共著・昭和50年刊)ではクルーゾーの本作がフランスの田舎町を舞台にした風刺的なサスペンス映画だったことからドイツの映画会社によってフランス人の狭量な気質を描いた映画と喧伝され、「そのためクルーゾーは、戦時一時、対独協力者のようにいわれたが、政治的センスをもたぬ作家が、政治に利用されたとみるべきだろう」と、対独レジスタンスの寓意をこめたとされるマルセル・カルネの『悪魔が夜来る』'42への高い評価への前振りにされています。しかし映画としてはるかに面白いのは『悪魔が夜来る』より『密告』の方で、ベルギーの推理小説の映画化作品『犯人は21番に住む』は一種の無国籍映画でドイツ映画としてドイツ時代のクルーゾーが作ってもおかしくない。それに較べて「どこでもいいフランスの田舎町……」と字幕から始まる『密告』は小さな町の匿名脅迫状(Blackmail)ものとして田舎町に舞台を限定することで社会的広がりを持っており、ブラックメールものというのは現実にも起こるのは稀にせよ消えてなくならない、現代で言えばネット炎上のようなものだったようで、ミステリー小説でもサイレント時代のスリラー映画でもブラックメールものという趣向は頻繁だったのがロン・チェイニー主演作品の傑作『影に怯えて』'22、ヒッチコックサイレント映画最終作『ゆすり(Blackmail)』'29などでもうかがえる。アガサ・クリスティ作品でも何作かあったはずです。クルーゾーの本作は主人公の医師が子供嫌いなのに小学校に間借りして住んでいるように占領下の時代のフランスの田舎町の雰囲気がよく出ていて、本作にドイツ人やドイツ兵は出てきませんが占領下フランスの閉塞的な状況が田舎町の人々をいかがわしい匿名脅迫状が飛びかうだけでいかに疑心暗鬼にとらわれていくかが、主人公の医師が過去を隠した正体不明のパリから来た他所者で、しかも複数の女と関係を持つ品行方正とは言い難い人物だけにプライヴァシーの侵害ばかりかあらぬ疑いまでかけられていく様子を真綿で首を絞められるような嫌なムードで描いており、クルーゾーのフランス映画第1作としては面白いけれど型にはまった探偵映画『犯人は21番に住む』より本作を起点と見る方がクルーゾーの映画の皮肉の効いたセンス(『犯人は~』にもありましたが)を堪能できるように思えます。問題の日本初公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきます。
○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より) アンリ・ジョルジュ・クルーゾーがドイツ占領下で作った一作。占領軍の指令で作られたこの映画は、フランスの地方都市の腐敗を描くという初目的がゲシュタポ批判に変ってしまっているとの理由で上映を禁止された。
○あらすじ(同上) フランスの田舎町。公立病院のジェルマン医師(ピエール・フレネー)のところに、からすというサインのある投書が舞いこんだ。精神科の部長ヴォルゼ(ピエール・ラルケ)の妻のローラ(ミシュリーヌ・フランセイ)との火遊びを指摘した中傷の手紙であった。これをきっかけにしてからすの投書が町の人々にくばられ始めた。入院患者のひとりは"からす"にガンであることを知らされ自殺した。ローラの姉で看護婦をしている醜女のマリー(エレナ・マンソン)が疑われ、逮捕された。しかし"からす"の投書は相変らず続き、どの投書にもジェルマン中傷の文句が入っていた。マリーは釈放された。筆跡鑑定もはっきりした結果は出せなかった。愛人ドニーズ(ジネット・ルクレール)の家にいったジェルマンは「ドニーズはお前の子を妊娠した、からす」という手紙を見つけた。問いつめると彼女は自分の妊娠をジェルマンに告げるために、にせの"からす"の投書を作ったのだといった。ローラの机の中から"からす"のサインのある吸取紙が発見された。彼女は狂人と見なされ、精神病院に送られることになった。そのあとでジェルマンはあることに気づきヴォルゼの部屋を訪れると彼は自殺していた。「ローラは罰せられた。呪いはとかれた。か…」という書置があった。"からす"はヴォルゼであった。
 ――同じ映画が戦中には占領国ドイツによってフランスの腐敗を描いた映画と称揚され、商業的にも成功し、戦後にはゲシュタポ弾劾の抵抗作品(しかも上映禁止作品扱い)として日本に紹介されたのち実は対独協力映画という批判があったと判明したというのは映画の内容に輪をかけて皮肉な話で、本作はアメリカでオットー・プレミンジャーが『The 13th Letter』'51として正式にクルーゾー作品を原作と明記してリメイクもしています。プレミンジャーもなかなかのもので舞台はカナダのケベックに移されていますが、プレミンジャーの意図がアメリカ戦後の「赤狩り」に向けられていたのは明らかで、そうでなければわざわざケベックにする必要がありません。主人公の医師は暗い過去を持った男で女性関係がいかがわしいのも過去の反映で荒廃した内面を抱えており、またパリから来た他所者なので田舎町に溶けこめないでいる。主人公の女性関係を弾劾する密告状が発端になり次々と町の人々の不正を暴く密告状が飛びかい、田舎町は一触即発状態になっていくのですが、この嫌な感じは確かに新しさがあって、町の人々の描き分けも巧みです。ドイツ映画界で仕事を積んできた監督だけあってフランス映画というよりドイツ映画的粘着質な、陰鬱な感覚がある。また青年時代をドイツで過ごしてきたのがフランス人への意地悪な視点を育んだとも言えそうなので、そういう意味ではドイツの占領政権によるフランス批判映画として働いたのも無理はありません。クルーゾーはヒッチコックと比較されますが、ヒッチコックもイギリス流のブラック・ユーモア感覚はありますが視点人物に観客を共感させるのだけは映画のコツとして譲らなかった監督です。ヒッチコックの考え方は正統的な映画作法なので、普通は映画は主人公に観客が感情移入してこそ手に汗握る作りになっている。クルーゾーの本作はその点主人公の、ピエール・フレネー演じる医師本人があまり感じの良くない、観客が感情移入しようにも何を考えているのかわからない、素性のわからない人物として出てきます。アメリカのフィルム・ノワールでも主人公の行動原理は能動的にせよ受動的にせよ明快かつシンプルなのが普通ですが、本作のフレネーは人物像が結末近くまで明かされないためそのあたりもはっきりしない。フレネーが不倫しているのは同じ病院の老精神科部長ヴォルゼの妻ですが、この老精神科医を演じるピエール・ラルケも悪くないのですがミシェル・シモンみたいなのが良いので、いっそミシェル・シモン本人だったら良かったのにと思えるのが無い物ねだりですが、デュヴィヴィエの戦後のフランス帰国第1作『パニック』'47はシモンが疑われる下町犯罪疑惑もので、どうもデュヴィヴィエは戦後作品となる『パニック』を後輩クルーゾーの本作の影響下に作ったように見える。本作はキネマ旬報のあらすじには書いてある通りですが、密告状で余命宣告されて剃刀自殺した難病青年の老母が密告状脅迫者「カラス」に怨恨を抱いていて、容疑者の謎の死と館から去って行く老母の姿を主人公が見つける場面で終わっているため、容疑者の死で事件の決着はついても事件の全容は解明されないで終わります。映画はクライマックスに向けて「カラス」の便乗犯が次々と明かされるので、主人公の視点から暴かれた分だけが事件の全容ではないのも暗示されている。全能者の視点からの全容解明がなされないまま終わるので、悪く言えば思わせぶりですが本作のリアリティはその線で一貫しているとも言えます。キネマ旬報のあらすじは「"カラス"は彼だったのか……?」と閉じられる方が妥当で、彼または彼女でもいいですが田舎町を狂わせたのは次々と便乗犯になった町中の(加害者にも被害者にもなる)カラスだった、というのが本作のテーマでしょう。占領下のフランスでは実際にこうした陰険な疑心暗鬼がフランス人同士の間にも起こり、ゲシュタポ批判よりも同朋同士の抑圧下の分裂を描くのが本作の主旨だったと思われ、それを前面に出せなかったため本作は鮮やかな群像劇ながらモヤモヤとした印象が残る映画になったと考えられます。しかし本作は従来のフランス映画とは違う、戦後映画を予告した内容と技法のもので、占領下の韜晦だけではない明解な狙いを感じさせます。ルネ・クレマンとともにクルーゾーが戦後映画の第一線に立ったのはこの技巧のキレによるでしょう。