『犯人は21番に住む』L'Assassin habite... au 21 (Continental-Films, Liote=Films Sonores Tobis, 1942)*79min, B/W : 1942年7月8日フランス公開
監督:アンリ=ジョルジュ・クルーゾー(1907-1977)、主演:ピエール・フレネー、シュジー・ドレール
・パリで連続殺人事件が起きる。犯人は死体のそばに必ず「ムッシュー・デュラン」と書かれた名刺を残していた。殺人鬼デュランが、ジュノ大通り21番にある下宿屋の住人だという情報を手に入れた探偵ヴェンスは……。
[ 解説 ]「椿姫(1934)」「幻の馬車」のピエール・フレネーが主演する探偵映画で、S・A・ステーマン作の探偵小説を作者と監督のアンリ・ジョルジュ・クルーゾオが共同脚色したもの。クルーゾオは脚色者であった人、撮影は「にんじん」「最後の戦闘機」のアルマン・ティラール、音楽は「われ等の仲間」のモーリス・イヴェンの担当である。助演者は新進のシュジ・ドレール、「港の掠奪者」のピエール・ラルケ、「奥様は唄に首ったけ」のノエル・ロックヴェール、「珊瑚礁」のフロランシー、ジャン・ティシェ、オデット・タラザク、マクシミエンヌ、「どん底」のルネ・ジェナンらである。
[ あらすじ ] モンマルトル界隈で奇怪な殺人事件がひん発した。死体にデュラン氏と記した名刺が添えてあるのが常である。しかも警察は犯人の目星さえつかない。そこで本庁の名探偵ウエンス(ピエール・フレネー)が登場する。彼の愛人ミラ・マルウ(シュジ・ドレール)は女優志願だが、興行主に世間をアッといわせたら採用するといわれ、探偵の助手となった。六人目(ルネ・ジェナン)の殺人があった夜ウエンスは現場附近で、殺人者は二十一番地に住んでいることを知る。探偵はジュノオ街二十一番地の下宿屋に見当をつけ、神父に変装して下宿人となる。彼につづいてミラも下宿する。下宿屋ミモザ館の下宿人は小説を書いている老女キュック嬢(マクシミリエンヌ)、ララポール教授(ジャン・ティシェ)と名乗る奇術師、医者だというランツ(ノエル・ロックヴェール)、コラン氏(ピエール・ラルケ)、盲目の拳闘家キッド・ロバート(ジャン・デスポー)、その情婦ヴァニヤ(ユゲット・フィフィア)等奇妙な者ばかりで、女将ポアン夫人(オデット・タラザク)も変人に近い。ウエンスが何者であるかもすぐに見破られ、正体を見せざるを得なかった。皮肉にもキュック嬢の死体が浴槽の中で発見され、新聞活字でデュラン氏と名刺代りに置いてあった。 探偵のモネー(ルイ・フロランシー)はランツを疑ったが、ウエンスはコランを逮捕した。ところがその翌朝ウエンスは部屋の戸の外で、デュラン氏の名刺を握っている死体を発見した。コランは釈放された。勝ちほこったモネーはランツを逮捕した。そして責められたランツが白状した時、デュラン氏署名の殺人がさらに行われてランツは釈放された。下宿人が皆、疑いが晴れたので、ポアン夫人はミモザ館で祝賀会を開いた。ウエンスとミラも招待された。コランとランツとララポールはベートーヴェンの三重奏をはじめた。ウエンスは思い当る所があり外へ出たが、ララポールがピストルをつきつけ、建築中のビルの中庭に連れ込んだ。コランとランツも現れてウエンスの逃げ場はない。殺人者は三位一体であった。ウエンスが危くみえた時、ミラ・マルウが案内した警官隊が乗り込んだ。三悪人は手を挙げた。
――アメリカ推理小説の近代化をなしとげた推理作家ヴァン・ダインに推理小説の不文律を論じたエッセイがあり、その本旨は推理小説でこれをやるとアンフェアで読者は興醒めになるという推理小説読者の立場に立った説得力のある具体的な指摘なのですが、意外性のために下男や女中など脇役的な人物や小説の視点人物を犯人にしたり、共犯者や秘密の抜け穴・隠れ家を謎の決め手にしたり、未知や架空の武器や毒物による殺人や自殺は読者には推理しようがなく、犯罪動機は現実的で単純な方がよく(よって狂人や殺人狂を犯人にするのは正道から外れており)、連続殺人の犯人は単独犯であるべきで複数犯にするのはあまりに安易であると原則的には至極もっともな意見でした。アガサ・クリスティーや横溝正史は片っ端からヴァン・ダインの不文律を破って名作を書きまし、ヴァン・ダイン自身が上記の原則を必ずしも厳守しているとは言えないのですが、ステーマンの場合は不文律を破って迷作を書くのが芸風という面白い人で、本作では殺人現場に必ず犯人が名刺を残すという悪趣味な趣向が実は犯人側のトリックになっているのはいいのですが、ヴァン・ダインの不文律を逆手に取ったら何だか結局犯人は何が目的で犯行をくり返していたのかよくわからないような、動機にまったく説得力の欠けた連続殺人事件になってしまいました。アンフェアなだけでなく作者のハッタリだけが空回りしている珍品なのはそのせいですが、推理小説のようなエンターテインメントではそういうのもありなので、映画ではなおのこと生身の人間の演じるドラマで見せてくれるのですからなまじ本格推理小説仕立てのプロットだけに「なんちゃって本格ミステリー」ぶりが皮肉なユーモアさえかもし出しています。ステーマンの原作は本気で推理小説の常道を逆手に取った凝った作品を目指したものだと思いますが、クルーゾーの映画化は本格ミステリー映画の要素を満たしつつそのパロディにまで踏みこんでいて、そもそもクルーゾーが脚本家時代からステーマン作品の映画化に熱心だったのもステーマンの推理小説が豪快に出鱈目だったからに違いなく、6人の連続殺人などという『六死人』にしても、映画冒頭で6人目(!)の被害者の殺害シーンがありさらに3人が殺される本作も殺害人数だけでも冗談に近いので、現実の殺人事件はただただ陰惨なだけなのを思えばクルーゾーの映画はブラック・ユーモアの感覚で描かれた一種のユートピア映画で、このユートピアとは殺人事件が面白おかしいエンターテインメントとして展開される世界です。クルーゾーやルネ・クレマンが食えない職人なのはその点で、強烈な問題作を巧みに作りながら実は技術的な完成度だけを磨き上げた映画であることもこの両者には共通していて、クレマンの『禁じられた遊び』'52はブニュエルが手放しで絶賛した映画でありクルーゾーの『悪魔のような女』'55はヒッチコックが嫉妬した映画でした。もちろんそれはオーソン・ウェルズがデ・シーカの『靴みがき』'46を賞賛したのと同様、映画監督がちっとも私情を持ちこんでいない映画だからで、新しがりの谷崎潤一郎は70歳過ぎて『悪魔のような女』の日本公開をいち早く観て面白くてたまらず、改装したばかりの日本では最新の自宅の水洗トイレに大便を済ますたびに死体が風呂場から浮いてくる『悪魔のような女』の場面を思い出しながら水中のウンコをしげしげと眺める、というのをわざわざ短編小説に仕上げていますが、クルーゾーの映画では殺人事件は排便、死体はウンコのようなものなので谷崎潤一郎の悪趣味な感動は正確に勘所を押さえています。『犯人は二十一番に住む』はフランスがドイツ軍の占領下にあった時期の製作・公開ですが、これを正義による秩序の回復物語としてフランスのレジスタンス精神の暗喩と見るのはそれこそ悪い冗談でしょう。たとえクルーゾーにそういう媚びがあったとしてもです。
●9月12日(水)
『悪魔が夜来る』Les visiteurs du soir (Productions Andre Paulve, Scalera Films, 1942)*120min, B/W : 1942年12月5日フランス公開
監督:マルセル・カルネ(1906-1996)、主演:アルレッティ、マリー・デア、フェルナン・ルドー
・ユーグ公の城でアンヌ姫とルノーの婚約の祝宴が開かれていた。そこへジルとドミニクという美しい吟遊詩人が現れるが、正体は悪魔の使いだった。二人はそれぞれアンヌ姫とルノーを誘惑し、幸せを壊そうとするが……。
[ 解説 ] 戦後「楽園の子供達」で名をあげたマルセル・カルネの戦時中の一九四二年監督作品で、彼の処女作「ジェニイの家」の脚本を書いたジャック・プレヴェールが、ピエール・ラロシュと協力してシナリオを書卸した。撮影・装置ともに「悲恋」と同じくそれぞれロジェ・ユベール及びジョルジュ・ヴァケヴィッチが担当している。音楽は「山師ボオトラン」と同じくモーリス・ティリエ作曲、シャルル・ミュンク指揮で、パリ・コンセルヴァトワール交響楽団が演奏している。出演者は「あらし(1939)」のアルレッティ、「港の掠奪者」のジュール・ベリー、新人マリー・デア、アラン・キュニー及びマルセル・エラン、老朽フェルナン・ルドウ、ガブリエル・ガブリオ、ピエール・ラブリ等の顔ぶれである、なおこの映画は一九四二年フランス映画コンクールに第一席を占めた作品である。
[ あらすじ ] 十五世紀、中世の騎士道はなやかであったころのフランス。ユーグ男爵(フェルナン・ルドウ)どのの壮大な城では、姫のアンヌ(マリー・デア)と騎士ルノオ(マルセル・エラン)の婚約ひ露の宴がたけなわであった。近郷はもとより遠い旅の芸人たちも多勢集められて、色々の余興が席をにぎわせている中に、吟遊詩人の兄弟もまじっていた。しかし、まことは兄弟でも吟遊詩人でもなく、かつては恋人同志であった男女で、悪魔(ジュール・ベリー)に魂を売り、悪魔の命令をうけ、アンヌとルノオの幸福を破壊するためにつかわされた、悪魔の使者であった。男はジル(アラン・キュニー)、女はドミニック(アルレッティ)といった。ジルの歌はたちまちアンヌの心をとらえ、ドミニックの美しい脚はルノオの眼を奪った。宴も終って参会者一同が、みやびやかなダンスに打興じ始めたとき、ドミニックが静かに琴を鳴らすと、楽士は音楽を、踊る人々はダンスを、ピタリとやめて石像のように動かなくなった。ジルはアンヌの手を、ドミニックはルノオの手を、それぞれとって庭に立出で、恋をささやくと二人は恋の奴となり、婚約のことも忘れて了う。その夜ドミニックは男やもめのユーグ男爵の部屋に姿をあらわし、女であることを示して男爵の胸にも愛のほのおを燃え立たせた。しかしジルはひたむきに彼を愛するアンヌのまごころに動かされ、使命を忘れ果てて人間の本心にもどって彼女を愛する。悪魔は怒って旅の貴族を装って雷雨の一夜、城に乗込む。狩の日ルノオはドミニックと男爵のランデヴーの姿を見ると、しっとは烈しい仲たがいとなり、二人は決闘をすることとなった。野試合に事よせて真剣の勝負をしたが、悪魔の力添えで男爵が勝ち、若いルノオがあえなく殺された。男爵はもはやドミニックのとりこであった。悪魔の命令で城を去って行く彼女を追って、狂気の如くユーグ男爵は馬を走らせた。違約したジルはろうにつながれ、ろう番にむちうたれてもアンヌを愛する誠を捨てない。悪魔はジルを自由にしてやるから、おれのいうことをきけと彼女を口説いた。その甘言にのるなと叫ぶジルの痛々しい姿を見ると、やさしいアンヌは恋人をこれ以上苦しませたくないばかりに、悪魔の申出でを承知した。開放されたジルは一切を忘れて、アンヌがだれだかも分らず、城を出てゆく。アンヌはそれを見ても彼を愛する一念はかわらず、狩の日ジルと初めてキッスを交した泉のほとりへ、ただ一度だけ行かせてと悪魔に頼む。悪魔は怒ったが、彼女の願をかなえてやる。アンヌがジルに泉の水を手にくんで飲ませると、彼は愛するアンヌを思い出した。二人の愛が復活したのを見ると、悪魔はかんべん成らぬとばかり、二人とも石になれ!とのろった。ジルとアンヌは相抱いたまま石像となったが、二人の心臓は生きていて、一つに化し、一つの鼓動をうっている。狂ったように怒った悪魔は石像を烈しくむちうつ。しかも石像の心臓は鼓動し続けた。悪魔をあざけるようにいつまでも。
――キネマ旬報外国映画紹介、気合入っています。「ジルとアンヌは相抱いたまま石像となったが、二人の心臓は生きていて、一つに化し、一つの鼓動をうっている。(中略)……悪魔をあざけるようにいつまでも」と、戦前のセンスのままのサイレント映画の弁士口調です。カルネが監督デビュー作からずっとコンビを組んできたジャック・プレヴェールは詩人かつ名脚本家と名高い人ですし、デュヴィヴィエの『望郷』'37をすぐさま換骨奪胎したカルネの『霧の波止場』'38が『望郷』とは各段にきめ細かい映画になったのはプレヴェールの手腕が大きいですし、カルネ作品以外にもジャン・グレミヨンの名作『曳き船』'41は『霧の波止場』と同じジャン・ギャバンとミシェル・モルガンを主演にさらにしみじみとした情感のにじむ作品でした。しかし甘ったれた歴史メルヘン的寓話劇『悪魔が夜来る』はプレヴェール脚本でも最悪で、それを演出映像化したカルネのセンスも最悪なら、美術、撮影、音楽、俳優の配役と演技もこれほどひどい映画はすぐさま思いつかないほどで、カルネ作品でも戦後の凋落の一歩とされる『港のマリィ』'50でもまだ本作よりは軽い狙いの分ましではないでしょうか。何がどう間違ってこんな幼稚な発想の学芸会映画を力みかえって作ったものか、これがもし「レジスタンス精神」というものならのぼせ上がって客観性を失った錯乱の産物としか思えません。これだけ今回ひどい映画と見えたなら次に観る機会があればその時はまだしも見所が見えてくるでしょう。今回だって映画の冒頭しばらく、現実音と劇中音楽しか使わない演出に多少は期待して観たのです。映画をけなすのは本位でないので、本作を好きな方はごめんなさい。筆者はインテリの映画ファンではないのでこういう映画は苦手だというだけのことです。