(佐藤春夫<明治25年=1892年生~昭和39年=1964年歿>)
我が一九二二年
目次
秋刀魚の歌
秋衣の歌
憂たてさ
浴泉消息
或る人に
冬の日の幻想
同心草拾遺
つみ草
別離
龍膽花
散文(掲載略)
蓴雨山房の記・あぢさい・杏の實をくれる娘・高橋新吉のこと
序
私達の友人は既に、彼の本性にかなはない總ての物を脱ぎ棄て、すべての物を斥りぞけた。そして彼自らの手で紡ぎ、織り、裁ち、縫ひ上げたところの、彼の肉體以上にさへ彼らしい輕羅をのみ纏ふて今、彼一人の爽かな徑を行つてゐる。
他の何人に對してよりも、自分自身に對して最善の批評家であるところの彼は、つねにただ、彼の子供として恥しくない子供だけを生み、より恥しくない子供だけを育て上げてゐる。彼のと異つた藝術を要求することは固より許されよう。彼のにまさつて完全なる(或は完全に近い)藝術といふものは、たやすく現代の世界に見出されないであらう。
彼の藝術は、詩に於て最も彼らしきところを、最も完全なるところを示してゐる。
今の詩壇に対する彼の詩は、餘りにも渾然たるが故に古典的時代錯誤であり、餘りにも溌溂たるが故に未來派的時代錯誤であることを免れない。
嗚呼、この心憎き、羨望すべき時代錯誤よ。時代錯誤の麟鳳よ。永久に詩人的なるものよ。
『永久に詩人的なるもの』私達の友人よ、ねがはくは彼によりて、彼を取りまける總ての者が、詩の天上にまで引きあげられて行くことを。
一九二三年一月十四日 生田長江
月をわび身を佗びつたなきをわびてわぶとこたへんとすれど問ふ人もなし。
芭蕉翁尺牘より
「秋刀魚の歌」
あはれ
秋風よ
情(こころ)あらば傳へてよ
――男ありて
今日の夕餉(ゆふげ)に ひとり
さんまを食(くら)ひて
思ひにふける と。
さんま、さんま
そが上に青き蜜柑の酸(す)をしたたらせて
さんまを食ふはその男がふる里のならひなり。
そのならひをあやしみなつかしみて女は
いくたびか青き蜜柑をもぎて夕餉にむかひけむ。
あはれ、人に捨てられんとする人妻と
妻にそむかれたる男と食卓にむかへば、
愛うすき父を持ちし女の児は
小さき箸をあやつりなやみつつ
父ならぬ男にさんまの腸(はら)をくれむと言ふにあらずや。
あはれ
秋風よ
汝(なれ)こそは見つらめ
世のつねならぬかの團欒(まどゐ)を。
いかに
秋風よ
いとせめて
證(あかし)せよ かの一ときの團欒ゆめに非ず と。
あはれ
秋風よ
情あらば傳へてよ、
夫に去られざりし妻と
父を失はざりし幼児(をさなご)とに
傳へてよ
――男ありて
今日の夕餉に ひとり
さんまを食ひて
涙をながす と。
さんま、さんま、
さんま苦いか鹽つぱいか。
そが上に熱き涙をしたたらせて
さんまを食ふはいづこの里のならひぞや。
あはれ
げにそは問はまほしくをかし。
(大正十年十月)
(初出「人間」大正10年=1921年11月)
「秋衣の歌」
その一
去年立秋ののち旬餘の或る日、机に凭りて「情史」を繙き偶々巻二十四を開きしになかに洞庭劉氏といふ一項あり、
「洞庭劉氏 其夫葉正甫 久客都門 因寄衣而侑以詩曰、情同牛女隔天河 又喜秋來得一過 歳歳寄郎身上服 絲絲是妾手中梭 剪聲自覺如腸斷 線脚那能抵涙多 長短只依先去様 不知肥痩近如何。」
これに比ぶれば謝恵連が擣衣の篇のごとき徒らに美辭を弄(もてあそ)ぶものといふべし。われは三誦して秋夜の寡居に感はことのほか深かり。
織姫と身をなして
おもふ人いと遠し、
歎きつつ織るものは
なつかしき人に着られよ。
幾とせぞ 天の川
逢ふことぞ待たるるよ、
秋ごとに君に行き
君にそふ衣ころもねたまし。
絹裂けば音(ね)にぞ聞く
わが胸の千々(ちぢ)の切なさ、
縫ひゆけばなみだ落ち
縫ひきしむ針ぞ憂たてき。
桁丈(ゆきたけ)は昨(きぞ)のままぞも
わが心咋のままぞも、
憂れたくも痩せ給へりや
憂れたくも肥え給へりや。
もとより即興の戯れにして原詩の哀切に對して恥づ。
その二
洞庭劉氏の詩を三誦してよりのちまた月余、或るゆふべ身に秋冷をおぼえて自ら秋衣をさぐるに事によりてわが思ひ凄然たるものあり。その夜筆をとりて「秋衣の歌」をつづれども意はありて詩は遂に成らず。これを筐底に投じ去りぬ。今年また秋衣の候となる。われは假そめながら病に伏して他家に身を寄せたり。秋宵只一人の為めに長く孤愁は時に甚だ堪ふべからず。つれづれのあまり旧稿を思ひ出でて再び見んことを願へども協はず。蓋し轉轉たるわが流寓のうちに失はれたるなり。乃ちこゝろにこれをたづねつつ漫吟し得て些いささか意を遣りぬ。詞の稚拙は既に恥ぢざるなり。
灯かげとどかぬ小暗(をぐら)さに
さすらひ人の行李(かうり)より
ひとり索ればわびしさよ
秋風に著る秋ごろも、
劉氏を妻に持たぬ身の
わがとり出づる古ごろも
ころもをとればそぞろにも
おもかげぞ立つ 憂き人は。
わりなきことを言ひいでて
恨むよしなき佳き人よ
汝がいとし子の秋ごろも
裁つ手をしばしやめよかし、
絹を二つに裂かんとき
こほろぎの音をしばし聴け
そのかそけさを胸に知れ
つれなき人とならじかし。
人目を怖おぢて 汝れはそも
あわただしくも運ぶ手に
そのほころびをつくろひし
ころもは曾て無かりしか、
今日をかぎりの別れの日
吐息とともに汝が置きて
くつがへりたる味噌汁に
しとどなる膝なかりしか。
劉氏は人の妻なれば
ひとりとり出しわがころも
濯(そそ)ぐべき人もとめねば
絲目もふるし古ごろも、
秋の灯かげにすわるとき
新らしく着る古ごろも
膝なる汚點(しみ)はわりなくも
いみじき汝を怨めとぞ。
(大正十一年九月)
「憂たてさ」
(アアネスト ダウスン)
我は悲しめりとには非(あら)ず、我は泣くこと協(かな)はず
わが思ひ出のすべては、はた、眠につきつつ。
見守りつ、ゆく水の白く異(あや)しくなりまさりゆくさま、
日ねもす夕暮まで我は見守りつ、川面(かはのも)の変りゆくさま。
日ねもす夕ぐれまで我は見守りつ、雨の
窓がらすのうへ打ちたたくそのうれたさ。
我は悲しめりとにはあらず、ただ我は
かつてわが願ひなりしもの皆に倦(う)んじ果てぬ。
かのひとの脣や、かのひとの眼や、ひねもす
わが身には影の影なるものとはなりつ。
君がこころに焦がるるわが渇きは、ひねもす
忘れられしものとはなりつ、夕べの來るまでは。
かくて我は悲みのさなかに遺されつ、泣かんとす
夕べは目覺めそむるわが思ひ出はかずかず。
(初出「新潮」大正11年=1922年8月・原詩 = アーネスト・ダウスン「Spleen」)
「浴泉消息」
1 大ぶん熱が出ました
隣室の客は男ふたりだ。
酒をのんで、いつまでも
何だかくだらない議論をしやがつた。
やつと寝たと思つたら
ひとりは直ぐと怖ろしいいびきだ
ひとりは又すばらしい齒ぎしりだ
これではまるでさつきの議論のつづきぢやないか。
そのいびきをかうして聞いてゐると
自然、豚のことが思ひ出されるし
齒碾(はぎしり)の方はまるで柱時計のぜんまいを巻いてゐるやうだ。
おれは豚小屋の番人になつて
番小屋の柱時計に油の足りないねぢをかけてゐるのか知ら………
ゆうべの寝汗のしみ込んだこの掛ぶとん
何だかほし草のにほひがして來た……
2 だんだんよくなつて來るのです
浴泉は毎日わたしのおできの
岩苔のやうにこびりついた奴を洗ひ落すが
谷川の水は毎晩、私の心に流れこんで
それが心の古疵(ふるきず)に何としみるかよ。
ひとりぼつちの部屋へ月がさすから
電燈を消したら
おれの目から温泉が出たつけ。
3 よほど快方に向ひました
秋になつたら
小さな家を持たう、
小榻一椽書百巻
さうして
煙草とお茶とのいいのが飲みたい、
そこには花畑がいる、
妻はもういらない
童子を置いて住まう、
童女でも惡くはない、
さうだ、それよりさきに
一度、上海へ行つて
支那の童女を買つて來よう、
おもちやのやうに、着飾つた
十三ぐらゐのがいい、
木芙蓉の莟(つぼみ)のやうな奴はいくらぐらゐするだらう?
(大正十一年八月)
(初出「明星」大正11年=1922年9月)
「或る人に」
あなたの夢は昨夜で二度しか見ないのに
あなたの亭主の夢はもう六ぺんも見た。
あなたとは夢でもゆつくり話が出來ないのに
あの男とは夢で散歩して常談口を利き合ふ。
夢の世界までも私には意地が惡い。だから
私には來世も疑はれてならないのだ。
あなたの夢はひと目で直ぐさめて
二度とも私はながいこと眠れなかつた。
あなたの亭主の夢はながく見つづけて
その次の日には頭痛がする………
白状するが私は 一度あなたの亭主を
殺してしまつたあとの夢を見てみたい、
私がどれだけ後悔してゐるだらうかどうかを。
(大正十一年十二月)
「冬の日の幻想」
霜ぐもる十二月の空は
干ものやくにほひにむせび
豆腐やのちやるめら 聞けば
火を吹いておこすこの男の目に ふと
どこかの 見たこともない田舎町の場末の
古道具屋の四十女房がその孕みすがたで
釣ランプをともすのだ。
かかるゆふべの積み累ねに
聖(ひじり)ならぬわが厭離(おんり)のこころはきざした。
(大正十一年十二月)
(詩集書き下ろし)
「同心草拾遺」
「つみ草」
風 花 日 将 老
佳 期 猶 渺 渺
不 結 同 心 人
空 結 同 心 草
しづこころなくちるはなに
なげきぞながきわがたもと
なさけをつくすきみをなみ
つむやうれひのつくづくし
(初出「蜘蛛」大正10年=1921年8月・原題「支那の詩より」)
「別離」
人と別るる一瞬の
思ひつめたる風景は
松の梢のてつぺんに
海一寸に青みたり。
消なば消ぬべき一抹の
海の雲より洩るやらむ、
焦點とほきわが耳は
人の嗚咽(をえつ)を空に聞く。
(初出「明星」大正11年=1922年11月)
「龍膽花」
山路きて 君が指すままに
わが摘みしむらさきの花、
君が問ふままに その名を
わがをしへたるりんだうの花、
そのかの秋山のよき花を 今は
ただしばしば思ひ出でよとぞ
わが頼むことは わりなき。
(初出「明星」大正11年=1922年11月・原題「龍膽の花」)
我が一九二二年 畢
(大正十二年二月)
*
佐藤春夫は広く知られた作家で、その経歴と業績もウィキペディア等の電子辞書メディアに手際よくまとめられています。大正~昭和にかけてもっとも粋な存在感と顔の広さで「門弟三千人」と呼ばれた文壇のご意見番でしたが、その権威は作者健在の間に限り、晩年~歿後は急激に古い時代の詩人・小説家として読まれなくました。歿後すぐに刊行が開始された全12巻の全集の完結が結局10年近くかかり、1998年に完全版全集が企画されたら3倍の分量の全36巻に昇ったことでも晩年すでに過去の作家と見なされていたことがわかります。もっともこれは佐藤に限らず、鴎外・二葉亭・漱石・露伴・鏡花などを除き明治大正の作家の全集の多くは実質的には代表作の選集でした。再評価されて完全版全集が出ると数倍の規模に昇るのは珍しくはありませんし、選集程度の全集がある作家も多くはないのです。
大正時代すでに萩原朔太郎が佐藤の詩の古めかしさを指弾したのは有名で、一方佐藤は短詩によって萩原の批判を一蹴しています。大正15年(1926年)時点での全詩集『佐藤春夫詩集』(第一書房)初秋の「申し開き」がそうです。
夢を見たら囈語(うわごと)を言いませう、
退屈したら欠伸をしませう、
腹が立つたら呶鳴りませう、
しかしだ、萩原朔太郎君、
古心を得たら古語を語りませう
さうではないか、萩原朔太郎君。
萩原は1886年生れ、6歳も年長なのに上から目線です。萩原が同人詩誌にデビューしたのは27歳と遅く、一方佐藤は10代で与謝野鉄幹・晶子や石川啄木(萩原と同年生れ)から新鋭詩人として注目されていましたから偉そうなのです。しかもこの詩の直前に並んでいるのは人を食った偶成詩(即興的戯詩)の「なぞ/\」です。
やきもちやきの女とかけて何と解く。
闇に怯えてたける小犬と解く。
そのこころは?
うるさい。ばかばかしい。腹が立つ。
ねむれない。それでゐて不憫なのです。
うるさがたの日夏耿之介(1890年生れ、佐藤より2歳上)ですら、昭和5年の早稲田大学文学部講義録をまとめた『日本近代詩史論』(角川書店・昭和24年刊)所収の「大正詩壇の概見」の章で「大正十五年間の時代精神を抒情詩の発展に於てよく歌ひ得たるものは、萩原と高村(光太郎)と佐藤と日夏の四人であつた。外の何者でもなかつた。萩原は感覚的に佐藤は情緒的に高村齒感情的に日夏は神経的に大正の時代相を分担した。宰量した。表現した」と自讃がてら認めています。
中原中也(1907年生れ)は佐藤春夫が辻潤(1884-1944)と高橋新吉(1901-1987)の後見人的存在だったことから敬意を持ち続けていたので、日記にも佐藤への言及が頻出します。「佐藤春夫のいふことは、何だつて大抵賛成だ。併し岩野泡鳴だけは、佐藤春夫が考えるよりよつぽど好いものがあつた」(昭和2年1月24日)、「佐藤春夫のこと覚書」(同年1月30日)、「退屈読本 佐藤春夫 面白し愉快なり」(「一月の読書」6冊のうち。同年1月31日)、「玉仙花 佐藤春夫」(「二月の読書」9冊のうち。同年2月27日)、「指紋 佐藤春夫詩集 窓展く 佐藤春夫」(「三月の読書」13冊のうち。同年3月31日)、そして4月12日には「佐藤春夫の詩が象徴とならないのは彼の孤独が淡泊だからだ。純粋性がまだ足りないからだ。情熱の争闘から生れる詩だ。理性とやらが、含まれてることになる。理性とは私にとつて悉皆マンネリズムだ。けれどもなほ且彼の詩を私が手許へ置く所以は東洋的緻密さとたしかに濾されたものだからだ。美しい!」とあります。前後の7日には「人よポオを読まう」、11日には「ペエターなんてやはりつまらない」13日には「日夏耿之介は馬鹿だ」「堀口大學(中略)品性下劣」(一般的には日夏は佐藤の盟友、大學は私生活に至るまで佐藤の無二の親友と知られています)、14日には「野口米次郎--この馬鹿奴!」、16日には「リルケ詩抄を読む。(中略)こ奴には血がないのだ」、23日には「世界に詩人はまだ三人しかをらぬ。/ヴェルレェヌ/ラムボオ/ラフォルグ/ほんとだ!三人きり」と中原流の詩人観が集中し、6月4日には「岩野泡鳴/三富朽葉/高橋新吉/佐藤春夫/宮澤賢治」と書きつけられています。岩野泡鳴は蒲原有明の親友で象徴詩から豪快な自伝的私小説作家に進み47歳で急逝するまでスキャンダラスな文壇の名物男だった詩人・小説家で、三富朽葉はいち早くランボーとラフォルグを紹介し消化した作風を示しながら27歳で事故死した詩人です。この昭和2年は中原20歳で、代表詩「朝の歌」を書いて詩人としての確信を深めた重要な年でした。
また、萩原朔太郎を唯一の師として日夏や中原など眼中になかった西脇順三郎(1894-1982)は大学で2年後輩、同じ大学の教授に従事したことから佐藤と交際が深く、佐藤の急逝の際には「短歌の流れをくむ情念の詩人」「日本最大の天才的歌謡詩人」と微妙な称賛を捧げています。日夏、西脇、中原には詩観に何の共通点もないにもかかわらず、佐藤がこの曲者三者から一致して称揚されているのは他の詩人にはめったに見られない現象でしょう。
中原が指摘している佐藤の資質は、例えば次の「十三時」のような詩でしょう。これも『佐藤春夫詩集』初収録の短詩です。
客よ おどろくな
十三時だ。時には
二十三時も打つ。
だが針を見ろ 十一時だ。
このキテレツな時計こそ
部屋の主(あるじ)とおんなじだ。
かんぢやうは出鱈目の
メチャクチャだが
理性の針は正しいよ。
(原文では「かんぢやう」には傍点つき)
なんとなくおわかりいただけたでしょうか。気が利いていて品のよい程度に新しく、愛想も味もありますが、それだけなのです。岩野泡鳴や辻潤、高橋新吉のような本物のニヒリズムはなく、宮澤のような広大な想像力もなく、朽葉のような実存的な陰翳もありません。本質的には佐藤春夫の詩は不毛なのですが、先に引いた萩原朔太郎と佐藤春夫の応酬は萩原が大正14年に詩誌「日本詩人」7月号に発表した批評「一九二五年版『日本詩集』の総評」で佐藤に触れて「散文作家として今の日本文壇に珍しい詩人であり、私の畏敬する第一人者である」「しかし『詩壇の詩人』として佐藤春夫は過去の人である。第一に、彼の詩の言葉それ自体、言語の感覚それ自体が古臭いので、今の詩壇から本質的に遅れている」と書いたことに発します。これは原稿段階で佐藤に知らされたらしく、翌月号にはすぐに佐藤の反論「僕の詩に就て~萩原朔太郎君に呈す」が掲載されました。この反論文は中原中也の日記に出てきたエッセイ集『退屈読本』(大正15年=1926年11月刊、つまり中原は最新刊として読んだのです)に収録されています。この反論で佐藤は「貴君は、僕の詩を目して十年以前のものだと言はれた。残念ながらこの評語は当つてゐるとは同感しがたい。若し吾が高橋新吉の詩が今日のものであるならば十年以前のものは寧ろ貴君のものではないであらうか」「さうして僕のものは?/僕の詩はアアネスト・ダウスンとともに千八百九十年代以前のものであらう。多分三四十年以前のものであらう。僕自身はそのつもりである」と堂々と宣言しています。
さらに佐藤は「昨日の思い出に僕は詩人であり、今日の生活によつて僕は散文を書く。詩人は僕の一部分である。散文家は僕の全部である」「実に僕は古典派の詩家である。しかし僕はダダの詩をも、ヱスプリヌウボオの詩徒をも愛好する」と表明しています。これはダダやエスプリヌウボオ(モダニズム)に批判的だった萩原への皮肉でもあるでしょう。この論争は西脇順三郎による佐藤春夫追悼文にも引用されていますが、西脇はこの佐藤の発言の解説として佐藤は「詩作というと主として抒情詩で古文体で書き、その内容となる発想は和歌または俳句的なものであった。西洋的な詩情が表現されているのは小説か論説であって、皮肉な現象が起こっている」と的確に指摘しています。また佐藤が大東亜戦争~太平洋戦争中に多作した戦争賛翼詩集に就いても佐藤自身の自序にある「我等詩を志す者にありては、天は絶好の詩題を課して丈夫の歌を成さしむといふべし」(詩集『大東亜戦争』昭和18年刊)に伝統的な歌人的性格(和歌は本来国家の繁栄と伝統的美意識を詠う文芸ジャンルです)を中立的に偏見なしに見ています。西脇自身は、戦時中は一切の詩作を行わなかった人でした。
西脇順三郎が感嘆し、日夏耿之介や中原中也からも佐藤春夫の詩に賞賛が留保つきだったのは、まさに「詩人は僕の一部分である」という全人性の欠如にあったでしょう。萩原朔太郎が「言語の感覚それ自体が古臭い」「今の詩壇から本質的に遅れている」と不服を唱えたのも、萩原や萩原が先人として崇拝する石川啄木、尊敬する先輩の高村光太郎(萩原を師とする西脇順三郎は高村光太郎と中原中也を敵視していましたが)など、現代詩は技巧中心の発想から全人性の実現へと向かうというロマン主義的理想があったからです。それは形式や内容の匿名的な普遍性に向かう古典主義とは相容れないものでした。しかし自我の発露を願うロマン主義は形式の不安に常に悩まされているので、古典主義の安定性への愛憎半ばすることになります。佐藤春夫は古典主義とロマン主義の両方を巧みに着こなし、自己の手中であつらえられる領分でしか詩作しなかった人でした。その詩は本人の宣言する通り「僕の一部分」でしたから、詩人の実在そのものの永眠した後はますます自立性の乏しい、作者の姿の見えない詩の典型のようになったのです。
西脇が中立的に「天才的歌謡詩人」と呼んだのも万能である代わりに変化も発展も欠いたこの如才なさであり、それは萩原がどうしても宥せなかった佐藤の楽天的かつ受動的な融通性でした。古典主義もロマン主義もダダイズムもエスプリ・ヌーヴォーも可、というのは一見感性が幅広く寛容であるようでいて、そのいずれもに自己を託さない享楽主義的立場です。萩原や中原にとって詩はそれぞれに絶体絶命のものであり、日夏や西脇の詩は誰の理解も求めないものでした。佐藤は現代詩にあって意図的なアナクロニズムに徹することで例外的な詩人になったのです。今回ご紹介するのは大正12年(1923年)に刊行された佐藤の第2詩集『我が一九二二年』で、収録詩編は全9編(他4編のエッセイは後に『退屈読本』に転載されました)。三段組みの文学全集類では全編で3ページ強しかありません。これも現代詩の古典的詩集の一冊であり、善かれ悪しかれ一時代を画した作品です。大正12年刊行の詩集には萩原朔太郎『青猫』、金子光晴『こがね虫』、そして『ダダイスト新吉の詩』があります。それらがすべて自費出版で『我が一九二二年』が大手出版社刊行だったのが大正12年という時代だったのです。なお後に佐藤は詩篇だけを独立して本作を詩集としていることもあり、散文は掲載を略しました。
(旧稿を改題・手直ししました)