人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

チャーリー・パーカー Charlie Parker - バード・アット・セント・ニックス Bird at St. Nick's (Jazz Workshop, 1957)

チャーリー・パーカー - バード・アット・セント・ニックス (Jazz Workshop, 1957)

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チャーリー・パーカー Charlie Parker - バード・アット・セント・ニックス Bird at St. Nick's (Jazz Workshop, 1957) Full Album : http://youtu.be/HmdRCut0X2Q
Recorded at St.Nick's Arena by Jimmy Knepper(possibly), February 18 1950
Released by Jazz Workshop Records JWS-500, 1957

(Side A)

A1. I Didn't Know What Time It Was (Rogers-Hart) - 2:35
A2. Ornithology (Parker-Harris) - 3:27
A3. Embraceable You (Gershwin-Gershwin) - 2:18
A4. Visa (C. Parker) - 2:57
A5. I Cover the Waterfront (Heyman-Green) - 1:44
A6. Scrapple From The Apple (C. Parker) - 4:34
A7. Star Eyes (Andrew-Speaks) / 52nd Street Theme (T. Monk) - 3:02

(Side B)

B1. Confirmation (C. Parker) - 3:18
B2. Out of Nowhere (Heyman-Green) - 2:17
B3. Hot House (T. Dameron) - 3:45
B4. What's New (Burke-Haggart) - 2:43
B5. Now's The Time (C. Parker) - 4:14
B6. Smoke Gets In Your Eyes (Harbach-Kern) / 52nd Street Theme (T. Monk) - 4:46

[ Charlie Parker Quintet ]

Charlie Parker - alto saxophone
Red Rodney - trumpet
Al Haig - piano
Tommy Potter - bass
Roy Haynes - drums

(Original Jazz Workshop "Bird at St. Nick's" LP Liner Cover & Side A Label)

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 チャーリー・パーカー(1920~1955)には1980年代末にはすでに放送録音やプライヴェート録音をその時点で網羅した18枚組ボックス・セット『Charlie Parker Live and Private Recordings Chronogical Order』があり、日本盤は『チャーリー・パーカー・パーフェクト・コンプリート・コレクション』としてサウンドヒルズ社から発売されています。それからの30年余りでパーカーのライヴ録音の発掘はさらに進み、先の18枚組に収録漏れだった発掘ライヴと合わせるとCDにして50枚、アナログLP換算で100枚近い発掘録音がパーカーにはあることになります。パーカーの本格的な自己名義の公式デビュー録音は1945年でしたから、実働期間約10年(没年は3月逝去でほとんど活動がありません)でサヴォイ・レーベルにCD4枚分(別テイク、未発表曲含む)、ダイアル・レーベルにCD4枚分(別テイク、未発表曲含む)、クレフ=ヴァーヴ・レーベルにCD10枚分(別テイク、未発表曲、公式ライヴ含む)があり、さらに自己名義での活動前にジェイ・マクシャンのビッグバンド参加時の録音がLP3枚分、ディジー・ガレスピー(1917-1993)のバンドとレッド・ノーヴォのバンド、サー・チャールズ・トンプソンのバンドに客演したものが各々LP1枚分あり、以上を公式録音とするとCD換算で約22枚、LP換算で40枚以上になりますから、実働期間10年間はパーカーの生命力を確実に消耗させる過剰労働だったのを痛感します。

 パーカーの生前から1947年9月プライヴェート録音のライヴ『バード・アンド・ディズ』や、後に公式アルバム『サミット・ミーティング・アット・バードランド』に収められた放送録音のライヴ(1951年3月)はパーカーの生前から10インチLPの海賊盤で公式アルバム以上のプレミア価格で出回っていました。もちろん闇流通でしたが、パーカーは観客録音は歓迎で、熱心なファンは特別に良い席で堂々とマイクを立てて録音を許可されたといいます。特に後輩ジャズマンはスタジオ盤以上に奔放に飛翔するパーカーのライヴ演奏を珍重し、テープ保有者が集まってライヴ録音の鑑賞会を開いていたそうです。特にジミー・ネッパー(トロンボーン)が良質なテープを自ら録音して鑑賞会を熱心に主催していたのがジム・クロウ(ベース)の回想録『さよならバードランド』で証言されています。パーカーが1955年3月に急逝してチャールズ・ミンガス主宰のジャズ・ワークショップ・レーベルから本作がわずか2年後に発売されたのは、ミンガス・バンドのメンバーだったネッパー提供のテープがあったからでしょう。

 この『バード・アット・セント・ニックス』はセント・ニックス・アリーナで開催された単独コンサートからのライヴ録音で、'40年代~'50年代のジャズの発掘ライヴ、しかもプライヴェート録音を聴きなれない人には音質の悪さが気になると思いますが、パーカーの公式スタジオ録音をひと通り聴いたリスナーにはオアシスのようなアルバムとして密かに愛されている点で、パーカーの発掘ライヴでも最上位に数えられます。選曲もパーカーのベスト・アルバムと言ってよいほど充実したもので、パーカー絶頂期の終わりに近い時期のライヴとしても円熟した演奏が聴けます。ただし注意すべきは音質にプライヴェート録音ならではの限界があること、さらにパーカーの演奏パートを残してトランペットのソロもピアノのソロもカットしてあることでしょう。パーカーの先発ソロが終わると4小節くらいはトランペットのソロが聴けますが、そのままエンディングのパーカーとドラムスの4ヴァース演奏につなげられ(つまりトランペットのソロとピアノのソロは割愛され)、アルトサックスとトランペットのユニゾン・テーマで終わってしまう編集がされています。実際は各曲で本来1.5倍~2倍の演奏時間があったと思われます。バラードものなどは元々テンポが遅い上にエンディング・テーマはAA"形式の曲ならA"の後半8小節+コーダ、というのも普通ですから(バラードではエンディングでもテーマを完奏するとくどくなるからです)、パーカーのアルトサックスが引っ込んでトランペット~ピアノが引き継ぐ中間部をカットしてエンディングにつなげると、実際の演奏の半分以下の長さになってしまうのです。そんな具合に音質はライヴ会場のラジカセ客席録音並み、編集も不完全となると、下手をすればこのアルバムを聴いてパーカーが苦手になってしまう人もいるかもしれませんが、パーカーの音楽に病みつきのリスナーにはこれほど愛しいアルバムはありません。病みつきなくらいですから正規アルバムは全部、主な発掘録音も大半は聴いている、そんなリスナーは当然パーカー以外のジャズもさんざん聴いていますが、さてパーカーでも聴こうか、という時にそういうリスナーが手に取るのが多いアルバムがこの『バード・アット・セント・ニックス』なのです。スタジオ盤は端正だったりタイトですし、ライヴでももっとオーディオ的に良い音質や抜群な演奏内容のものは他にもあります。その点『セント・ニックス』はまるで客席にいるような臨場感と飲み食いしながらでも聴けるくつろぎがあり、パーカーも全力ではなく適度な力加減で吹いていて、おそらくパーカーにとってこれほど普通のパフォーマンスはないくらい平均的な内容です。パーカーが引っ込むとトランペット~ピアノのソロがカットされてエンディングにいきなりつながってしまうのも、リスナーが聴きたいのはパーカーの演奏ですから理にかなっています。ジャズ史の偉人などと意識せず、同時代にふらりとパーカーのライヴを聴けたならだいたいこんな演奏だったろう、という理想的な普通のパーカーがここにあり、もちろん演奏も名盤名演と定評がある数々のスタジオ録音やライヴ録音に引けはとりませんが、力みのなさと優れた演奏がここでは見事に釣り合いがとれているのです。パーカーといえど不調や手抜きのライヴ録音があり、またパーカー自身はまずまずだが共演ミュージシャンに足を引っ張られている場合が多々あります。その点でも本作はパーカー史上最上のメンバーによるライヴです。

 この『バード・アット・セント・ニックス』の良さはパーカー最後のレギュラー・クインテットの結束力を伝えるライヴでもあることで、パーカーがカンサスからニューヨークに進出してきた折は、カンサスに地方巡業に来たディジー・ガレスピー(トランペット)を頼りに双頭リーダー・グループを組んでいました。ピアノはジョン・ルイスやクライド・ハート、ジョー・オーバニー、ベースはスラム・スチュワートやカーリー・ラッセル、ドラムスはケニー・クラークやシド・カレット、シェリー・マンやルー・レヴィでした。このうちオーバニー、マン、レヴィは白人ジャズマンでした。この流動メンバーのグループはどちらかといえばディジー・ガレスピーがリーダーと言える時期でした。ガレスピーと並んで脚光を浴び、独立してリーダーとなったバンドを組んだ時、パーカーがトランペットに採用したのは18歳のマイルス・デイヴィス(1926-1991)でした。一方ディジーは念願のビッグバンド結成に向かいますが2年と続かず、再び小編成バンドに戻ります。この時テナーサックスに迎えられたのがマイルスと同年生まれのジョン・コルトレーン(1926-1967)で、他にディジーのバンドにはミルト・ジャクソンジョン・ルイスパーシー・ヒースケニー・クラークと、すぐ後にモダン・ジャズ・カルテットになる4人が在籍し、ギターにはケニー・バレルがいました。

 一方初代チャーリー・パーカークインテットはマイルスのトランペットにドド・マーマローザのピアノ、カーリー・ラッセルのベース、マックス・ローチのドラムスで始まり、ベースはトミー・ポッターに交替することもあり、ピアノはマーマローザからバド・パウエル、そしてデューク・ジョーダンに代わりました。1945年~1948年がそうで、1948年秋~1949年秋はトランペットがマイルスより2歳年長のケニー・ドーハムに代わります。ドーハムは安定感抜群のプレイヤーだった上にパーカーも私生活が安定していた時期で、メジャーのクレフ=ヴァーヴ・レーベルに移籍して弦楽オーケストラ作品の録音に力を入れていたためドーハム時代のスタジオ録音は少ないのですが、ジャズ・クラブのロイヤル・ルーストへの年間出演とラジオ中継から多くの公式ライヴ録音が残されています。ドーハムは若手の中でもすでに中堅ミュージシャンと認められており、パーカー・クインテット退団後セロニアス・モンクのブルー・ノート録音(1952年)まで活動にブランクがありますが、活動再開後はマイルス同様モダン・ジャズ界最重要ミュージシャンになっていきます。ドーハムの退団を受けてジョーダンとローチも独立し、ベースのポッターが残留しクインテットはトランペットにレッド・ロドニー、ピアノにアル・ヘイグ、ドラムスにロイ・ヘインズという最終ラインナップになりました。つまり本作『バード・アット・セント・ニックス』のメンバーです。

 1949年のクリスマス・イヴにカーネギー・ホールで行われたオールスター・コンサートはチャーリー・パーカーのニックネーム「バード(ヤードバード)」にちなんだジャズ・クラブ「バードランド」の開店祝いを兼ねたもので、バードランドの司会者に抜擢された人気タレントのシンフォニー・シド司会のもとにバド・パウエルマックス・ローチ・トリオ、さらにマイルス・デイヴィスソニー・スティット、サージ・チャロフらを加えたジャムセッションスタン・ゲッツ&カイ・ワインディング・クインテット、ジミー・ジョーンズのピアノ伴奏によるサラ・ヴォーンリー・コニッツとウォーン・マーシュをフィーチャーしたレニー・トリスターノクインテット、そして当然のようにトリを飾ったのがロドニー、ヘイグ、ポッター、ヘインズの新メンバーによるチャーリー・パーカークインテットの5曲でした。曲目は「オーニソロジー」「シェリル」「コ・コ」「バード・オブ・パラダイス」「ナウズ・ザ・タイム」ですべてパーカーの代表的なオリジナル曲、5曲できっかり30分でした。この時30歳のパーカーは人生の絶頂にいました。ですが常に斬新な企画が求められたクレフ=ヴァーヴ・レーベルでは、このメンバーでの公式録音の機会は与えられず、わずかにレッド・ロドニーが1951年8月のセッションで5曲に臨時編成バンドで公式録音に参加しているにすぎません(アルバム『スウェディッシュ・シュナップス』収録)。ですが51年の夏には、すでにパーカーのレギュラー・バンドは解散状態でした。翌1952年にはパーカーはヘイグだけを連れてカリフォルニア巡業をし、トランペットには22歳のチェット・ベイカー現地採用しています。ヘイグはロサンゼルスに留まり、ニューヨークに戻ったパーカーは急激な人気凋落からレギュラー・バンドの再結成を断念し、まだパーカーの盛名が根強いワシントンやボストン、シカゴや隣接圏のカナダ地方にチャールズ・ミンガス(ベース)とロイ・ヘインズだけを連れて現地採用ジャズマンと共演する活動形態に移らざるを得なくなりました。それから34歳で急逝するまでのパーカーの晩年は凋落の一途をたどります。

 ロドニー、ヘイグ、ポッター、ヘインズからなるパーカー最後のレギュラー・バンドはそれまでのメンバーと較べると一見小粒です。ですが今年95歳を迎えてなお現役のヘインズ(1925-)は、パーカー没後も常に新しいスタイルに適応できた第一線のドラマーでした。エリック・ドルフィーからチック・コリアパット・メセニーの諸作までロイ・ヘインズは貢献しています。ポッターの安定した実力は言うまでもありません。クインテットの5人のうち、ロドニーとヘイグの二人は白人でした。レッド・ロドニー(1924~1994)は白人ビッグバンドで働きながらパーカーとガレスピービバップに憧れていた新人でした。パーカー・クインテットが空中分解した後も地味な活動を続けていましたが、1958年に薬物禍で逮捕され2年3か月の獄中生活を送り、キャリアに壊滅的な打撃を受けています。釈放後も警察にマークされ、1963年には警官の暴行によって数本の歯を失い完治までほぼ10年を要した口唇の裂傷を負います(目や耳を傷つけず、また脳震盪を負わせずに顔面を打撲して抵抗を喪失させるため、警察官は顔面の下半分しか打撲しません)。また同年には実父を亡くし、その数か月後にラスヴェガスでの公演からの帰り、夫人の運転する車がハイウェイで事故を起こし大破しました。ロドニーは後部座席で眠りこんでいましたが、この交通事故で夫人と14歳の一人娘を亡くしています。その後もロドニーは音楽活動を薬物禍で何度も中断し、'70年代には治療院で受刑者仲間になったウェイン・クレイマー(MC5)に音楽を教えたりしましが、'80年代になって5枚の優れたビ・バップのアルバムを発表して注目を集め、生きた伝説としてチャーリー・ワッツ(ローリング・ストーンズ)主催のチャーリー・パーカー・トリビュート企画に特別待遇されました。

 またアル・ヘイグ(1922~1982)はガレスピーとパーカーがニューヨークで共同活動を始めてすぐに準レギュラーとして関わった白人バップ・ピアニストの草分けで、スタイルの確立は2歳年下のバド・パウエルに遅れてバドから強く影響を受けましたが、純粋なバップ・ピアニストではバドに次ぐ存在と言える実力者でした。ですが1954年の『アル・ヘイグ・トリオ』『アル・ヘイグ・カルテット』をインディーのピリオドに残しただけで以降は'56年にフィル・ウッズの『ザ・ヤング・ブラッズ』、'58年にチェット・ベイカーの『イン・ニューヨーク』の散発的参加がある程度になってしまいます。1965年に『アル・ヘイグ・トゥデイ』でカムバックしましたが、1969年に殺人事件で起訴されます。前年の1968年10月に再々婚した夫人が不審死を遂げており、ヘイグ自身は夫人は泥酔して自宅階段を転落したと弁明しました。事件は起訴猶予になりましたが、ヘイグは目だった音楽活動の再開を警戒せざるを得なくなりました。2007年にヘイグが再婚した未亡人が出版したヘイグの伝記には、ヘイグの家族や近親者からヘイグの家庭内暴力傾向の証言があり、ヘイグの家族はヘイグの暴力に備えて警報ベルを用意していたといいます。私生活の荒廃のために音楽活動からリタイアしていたヘイグに新作の録音を持ちかけたのは、ロドニーと同じく外国の熱心なジャズ・レーベルでした。ロドニーが1973年の『バード・リヴズ!』でカムバックしたのとほぼ同時期に、1974年の『インヴィテイション』でヘイグはカムバックし、歿年までの8年間に12枚のアルバムを残します。これもロドニーの13枚と釣り合います。黒人の音楽であるジャズの、さらにコアなビ・バップの世界にいち早く白人ジャズマンとして飛びこんだヘイグやロドニーがどれほどストレスの多大な環境にいたかは想像にあまりあります。1950年にはアメリカはアパルトヘイトの徹底した国家でしたし、州ごとにほぼ個別の法律制度を取っている点でも社会構造は封建的でした。黒人と白人の混成バンドはそれだけで憎悪されるため、人種差別の強い地方の巡業ではロドニーは黒人の白子(アルビノ)とステージで紹介されてアルビノ・レッドというニックネームを名乗らされていました。ヘイグはピアニストでしたから臨時雇いの白人と見なされ比較的観客の反感を買わずに済みました。ロドニーの薬物禍もヘイグの暴力癖も、ジャズ界での重すぎる重圧にさらされていた反動だったでしょう。

 マイルス・デイヴィスは自叙伝で、パーカーほど白人に対するコンプレックスを持たなかった黒人ジャズマンはいなかった、と証言しています。むしろそれまでの優秀すぎるメンバーたちよりも、ロドニーやヘイグが熱意と抑制の両方からかもしだす余裕のある雰囲気は、ガレスピーはもとよりマイルス、ドーハムら歴代黒人トランペット奏者、パウエルやジョーダンら黒人ピアニストの時代のパーカー・クインテットにはなかったものでした。バンドの自然消滅直後、西海岸巡業限定とはいえロサンゼルスで現地採用したのが白人ジャズマンならではの柔らかなトーンを持つチェット・ベイカーだったのもうなずけます。トミー・ポッターは'60年代初頭のジャズ不況で現役を退いたが、それまでに十分な実績を残しました。ロイ・ヘインズに至っては現役最長老ドラマーとして今なおジャズ界の頂点に立っています。ビ・バップの実力派黒人ジャズマンの多くは'50年代以降もスタイルを変化させながら生き延びていきました。アル・ヘイグとレッド・ロドニーはパーカー・クインテットに抜擢されたために、栄光とともに呪われた生涯を定められてしまった白人ジャズマンでした。トランペットとピアノのソロのほとんどをばっさりカットされてはいるものの、『バード・アット・セント・ニックス』はパーカーの代表曲を網羅した選曲の良さも加えて、このメンバーならではのクインテットの一体感を伝える最高のドキュメントになっています。ここでのパーカーのくつろいだ自由奔放な演奏は、10年後のオーネット・コールマンの出現すら予告する指摘すらあるほど、肉声に近いニュアンスを持っています。それも5人中2人がパーカーに私淑する白人メンバーだった、最後のレギュラー・バンドならではの環境によるものでしょう。

(旧稿を改題・手直ししました)