人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

第三の詩人・大手拓次(後編)

詩集『藍色の蟇』昭和11月(1936年)12月・アルス刊
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(大手拓次<明治20年=1887年生~昭和9年=1934年没>)
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(大手拓次の自筆原稿とイラスト)
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 生前まったく無名だった詩人・大手拓次(明治20年=1887年11月3日生~昭和9年=1934年4月18日没)は山村暮鳥(1884-1924)、萩原朔太郎(1886-1942)と並ぶ群馬三大詩人で、また拓次と朔太郎・室生犀星(1889-1962)は「(北原)白秋門下三羽鴉」と呼ばれた同世代のライヴァルたちでした。ですが山村暮鳥と較べてすら大手拓次は広く読まれているとは言えません。岩波文庫大手拓次研究の第一人者・原子朗氏の編集の『大手拓次詩集』があってすらそう思えます。まだしも暮鳥は郷土詩人・自然詩人として今でも詩集・童話が再版されており、生前にも詩集9冊を含め20冊あまりの著書がありました。それが生前にはことごとく不評だったのが暮鳥の不遇でしたが、暮鳥は身辺や後進詩人たちなどの熱心な愛読者に恵まれてもいました。

 一方、大手拓次は生前の詩集を持つ機会に恵まれませんでした。田舎牧師の暮鳥よりライオン歯磨広告部の拓次のほうが生計にゆとりはあったはずですが、生涯結核性の病弱に悩まされていたので自費出版すらかなわなかったのです。没後ようやく詩集『藍色の蟇』(昭和11年=1936年)・詩画集『蛇の花嫁』(昭和15年=1940年)が刊行されましたが、昭和45年(1970年)に全集が編まれた際に、さらにまだ4倍以上、総数2,400篇あまりの遺稿が確認されています。暮鳥の詩集未収録作は生前刊行詩集の1.5倍あり、犀星は早くから小説家に転じて詩集は刊行してから抹消する変わった人でしたが暮鳥に匹敵する多作家でした。朔太郎は生前刊行詩集収録詩篇299篇に対して未収録詩篇69篇と一見多そうですが、萩原朔太郎の詩作品は全詩集でも1巻本に収まるほどの分量です。おおざっぱに言って犀星と暮鳥は朔太郎の3倍以上、大手拓次は犀星や暮鳥よりさらに倍近くの多作家でした。大手拓次は萩原より早く、大正元年(1912年)、白秋主宰の同人詩歌誌「朱欒(ザンボア)」12月号に吉川惣一郎のペンネームで作品発表を始めました。最初の発表作が「藍色の蟇」「慰安」の2篇で、すでに独自のスタイルの確立を予感させてデビューした詩人です。ここではまだ翌大正2年~3年に見られる大胆な作風には踏みこんでおらず、白秋の第1詩集『邪宗門』(明治42年=1909年3月)と、同時執筆され出版は後になった処女詩文集『思ひ出』(明治44年=1911年6月)の影響が見られますが、レトリックに富むあまり詩がレトリックの次元にとどまりがちな白秋の詩よりも生々しく幻想的な、大手拓次独自のスタイルがほぼ現れています。もっとも白秋が童謡詩・歌謡詩で最高の手腕を示したのはそれらがレトリックだけに集中することで成り立つ詩だったからなので、白秋と大手拓次ではもとより異なる資質の師弟関係だったということでしょう。大手拓次大正3年いっぱいまでは吉川惣一郎のペンネームを使い、スタイルの確立に自信を持ったとおぼしい大正4年からは本名の大手拓次名義で詩作を発表します。

「藍色の蟇(ひき)」

 吉川惣一郎

森の宝庫の寝間(ねま)に
藍色の蟇(ひき)は黄色い息をはいて
陰湿の暗い暖炉のなかにひとつの絵模様をかく。
太陽の隠し子のやうにひよわの少年は
美しい葡萄のやうな眼をもつて
行くよ、行くよ、いさましげに、
空想の猟人(かりうど)はやはらかいカンガルウの編靴(あみぐつ)に。

(「朱欒」大正元年=1912年12月)

「慰安」

 吉川惣一郎

悪気のそれとなくうなだれて
慰安の銀緑色の塔のなかへ身を投げかける。
なめらかな天鵞絨(びろうど)色の魚よ、
忍従の木陰に鳴らすtimbale(タンバアル)
秘密はあだめいた濃化粧して温順な人生に享楽の罪を贈る。
わたしはただ、空に鳴る鞭のひびきにすぎない。
水色に神と交遊する鞭にすぎない。

(「朱欒」大正元年=1912年12月)

 さて、前回に大手拓次には幻視の詩人とフェティシズムの詩人の両面を特色とすると述べました。両方の系列が見事に一体となったのが渾身の絶筆「そよぐ幻影」だったのがわかるのですが、まず幻視の詩です。

「陶器の鴉」

 大手拓次

陶器製のあをい鴉、
なめらかな母韻をつつんでおそひくるあをがらす、
うまれたままのあたたかさでお前はよろよろする。
嘴(くちばし)の大きい、眼のおほきい、わるだくみのありさうな青鴉、
この日和のしづかさを食べろ。

(「地上巡禮」大正4年=1915年2月)

 次にフェティシズムの詩。包括的にはフェティシズムはエロティシズムと同様に官能の一部ですが、大手拓次の場合は官能的資質はすべてフェティシズムと言ってもいいでしょう。前回は女性の自慰行為を夢想した詩をご紹介しましたが、この場合はずばり足(脚)フェティシズムを題材にした詩です。

「窓ぎはにすわつてゐるもの」

 大手拓次

窓ぎはにすわつてゐるもの、
それはなんだらう。
それは 白いきれいな足の永遠だ。
つめたくつて、
ぴよぴよと鳥のなく音(ね)のやうにしづかにうごいてゐるのだ。
まつしろい足の永遠だ。
足ばかり見せて、ほかをすこしもみせないのはなぜだらう。
わたしはさつきからその足をみてゐるのに、
くさむらのしげみにとぶ木の葉のやうに、
そよそよとうごいてゐるばかりだ。
白い、きれいな足は、
なぜもつと全体をみせないのか。
さむい冬の夜の外には、
風がばうばうとあれくるつてゐる。

(大正9年1920年作)

 大手拓次はライオン歯磨本舗広告部の同僚の女性たちに何度か恋慕して実らなかったようですが、こうした眼で見られていては女性たちにも気味の悪さが伝わってしまっていたのではないかと思われます。大手拓次結核性の結膜炎と耳鼻科系の持病に生涯を悩まされ、結核で46歳の享年を迎えた気の毒な病弱の人でしたが(没後に「紅眼の詩人」と誤伝されたのは結膜炎症状からの誤解だったと思われます)、視覚的対象に明確に像が結ばず、朦朧とした妄想的な表現が大手拓次の詩の大半を占めるのも、そうした生涯の病状が原因をなしているように思えます。

 また、大手拓次は奇想に富んだ詩人でもありました。前回にまだ明治末の習作時代の怪作を載せましたが、名詞だけの詩や擬音だけの詩、ひらがな表記だけの詩とさまざまな、実験というよりも奇想と呼ぶべき系列の詩も没後刊行詩集『藍色の蟇』『蛇の花嫁』以外の詩集未収録詩には目立ちます。

「動物自殺倶楽部」

 大手拓次

この頃
まいばんのやうにおれの耳に映つてくるのは
なまなましい はてしない光景だ。
猿はくびをくくつて死に、
蛇はからみあつたまま沼に沈み、
馬は足を折つて眼をふさいだ。
犬は舌をだして息がたえた。
蛙はくさむらで姿を失ひ、
とかげは石の下に生きながら乾いてしまつた。
象は太陽の槍に心臓をやられるし、
狐は花の毒気にあてられた。
狼は共喰をしてくたばつた。
蝙蝠は荊棘(いばら)のなかにとびこんだ。
なめくぢは竹の葉のくされのなかにすべりおちた。
三角形の大きな鉈(なた)で
くびをたたつきられる牛だ。

(「近代風景」昭和2年=1927年8月)

 萩原朔太郎も奇想の詩人でしたが、同世代のライヴァルから影響を受けて自家薬籠中とするのが実に巧みで、『月に吠える』では室生犀星山村暮鳥、『青猫』では大手拓次の文体を上手く取り入れています。萩原と犀星は大成しましたが、山村暮鳥大手拓次知名度はぐっと落ちます。その一因には生前の理解者が少なかったこともありますが、大手拓次山村暮鳥の詩には萩原や室生のような完成度が欠けていたこともあるでしょう。しかし山村暮鳥に較べても大手拓次にはある種の資質的限界が目だつように思われます。それは詩が全人的な感覚の発露まで届かず、個人的なフェティッシュの域にとどまって満足してしまう性格として現れています。フェティシズムナルシシズムへの執着のあまり普遍性との対峙が欠如していたのです。そのため大手拓次の多くの詩は着想の地点から十分な展開を見せず、しばしばどこまでもつづけてもいいような反復的発想で終わってしまいます。大手拓次より2歳年少で同時期に同じ大学で学び、やはりフランス象徴詩に傾倒し、大手より小さな才能しか持たなかった三富朽葉(明治22年=1889年生~大正6年=1917年没)ですらもっと自覚的に開けた感受性を意識した詩作を20代のうちに残したので、現代詩の可能性は大手拓次よりも見かけはずっと未完成な、山村暮鳥三富朽葉の方にあったとも言えるのです。大手拓次の標準的な詩篇を読み返すと、そうした限界が目についてなりません。

水草の手」

 大手拓次

わたしのあしのうらをかいておくれ、
おしろい花のなかをくぐつてゆく花蜂のように、
わたしのあしのうらをそつとかいておくれ。
きんいろのこなをちらし、
ぶんぶんとはねをならす蜂のやうに、
おまへのまつしろいいたづらな手で
わたしのあしのうらをかいておくれ、
水草のやうにつめたくしなやかなおまへの手で、
思ひでにはにかむわたしのあしのうらを
しづかにしづかにかいておくれ。

(大正9年1920年作)

「恋人のにほひ」

 大手拓次

こひびとよ、
おまへのにほひは とほざかる むらさきぐさのにほひです、
おまへのにほひは 早瀬のなかにたはむれる 若鮎のといきのにほひです、
おまへのにほひは したたる影におどろく 閨鳥(むくどり)のゆめのにほひです。

こひびとよ、
おまへのにほひは うすれなりゆく朝やけの ひかりの靄(もや)のひとときです、
おまへのにほひは ふかれふかれてたかまりゆく 小草(をぐさ)のみだれです、
おまへのにほひは すみとほる かはせみの ぬれた羽音です。

こひびとよ、
おまへのにほひは きこえない秘密の部屋の こゑの美しさです、
おまへのにほひは ひとめひとめにむれてくる ゆきずりの姿です、
おまへのにほひは とらへがたない ほのあをの けむりのゆくへです。

こひびとよ、
おまへのにほひは ゆふもや色の 鳩の胸毛のさゆれです。

(「近代風景」昭和2年=1927年9月)

 ここまでご紹介してきた詩篇の数々でも痛感されますが、大手拓次の詩は作風が官能的でフェティシズムに傾いており特異すぎるという前に、せっかく語感の豊かさに優れた資質を備えていながら、十分に詩の世界が広がっていかないきらいがあるのです。萩原朔太郎室生犀星山村暮鳥の詩は神秘的幻想詩であれ生活心境詩であれ世界・外界と自分の内面への新たな発見に満ちた、感覚の開かれた詩でしたが、フェティシズム的な大手拓次の詩は対象が移るだけでいつもナルシシスティックな自己陶酔性にとどまってしまい、感覚は自己の内面だけに閉ざされてしまいます。こうした詩法は逆に着想単位で多作を重ねさせることになり、大手拓次が25年近い詩作歴を持ちながら生前に詩集単位に自作をまとめる機会を逃した(三富朽葉も没後全集しかありませんが、詩歴は明確に四期に区分していました)のも、暮鳥に較べてすら広い読者を持たないのも同じ原因にあるでしょう。その点でも大手拓次の詩作品の頂点は亡くなる前年に、入院中の病床で書かれ「中央公論」に掲載された次の一篇に実現したと思われます。大舞台の発表誌を意識したこともあるかもしれませんが、ここではようやく着想は着想にとどまらず世界に向かって感覚が開かれており、わずかにいくつかのキーワード(花、魚、生涯、死)に漢字を用いるだけのひらがな詩のなかに、十分に開けた想像力と感覚の展開を見せています。

「そよぐ幻影」

 大手拓次

あなたは ひかりのなかに さうらうとしてよろめく花、
あなたは はてしなくくもりゆく こゑのなかの ひとつの魚(うを)、
こころを したたらし、
ことばを おぼろに けはひして、
あをく かろがろと ゆめをかさねる。
あなたは みずのうへに うかび ながれつつ
ゆふぐれの とほいしづけさをよぶ。
あなたは すがたのない うみのともしび、
あなたは たえまなく うまれでる 生涯の花しべ、
あなたは みえ、
あなたは かくれ、
あなたは よろよろとして わたしの心のなかに 咲きにほふ。
みづいろの あおいまぼろしの あゆみくるとき、
わたしは そこともなく ただよひ、
ふかぶかとして ゆめにおぼれる。

ふりしきる さざめゆきのやうに
わたしのこころは ながれ ながれて、
ほのぼのと 死のくちびるのうへに たはむれる。

あなたは みちもなくゆきかふ むらむらとしたかげ、
かげは にほやかに もつれ、
かげは やさしく ふきみだれる。

(「中央公論昭和8年=1933年8月・絶筆)