西脇順三郎(明治27年=1894年生~昭和57年=1982年没)
「風のバラ」
帽子を浅くかむって
拉典人類の道路を歩く
樹木の葉の下と樹木の葉の上を
混沌として気が小さくなつてしまふ瞳孔の中に
激烈に繁殖するフユウシアの花を見よ
あの巴里の青年は
縞の帽子の中で指を変に屈折させる
郵便局と樹があるのみ
ラムネのビンは青い おれの面前で
クレベルの本屋の主人がステキに悲しんでゐる
それから中央欧羅巴にアルコールランプを置き
牧場の中で乞食の手風琴に傾聴しつゝ
牛乳の入ったコーヒをわかす
遠くのミカン色の屋根と青い樹木は
おれの心を鞭撻する
しかし海は死んだ葡萄酒である
人は岡に上り大なる緑の影をもつた
アカシアの樹のそばでジット
残りたいと思ふ
太陽
ゴムの樹
軽便鉄道
虎
金銭
が音楽的共和国を建てる
疑ひなくロンドンのデメテルの前で
おれの帽子をあげる
美しきタコよ
あなたの柔らかい魂は
不活潑な流れぬ午後の中で
鱈の光りを漁る
しかしあなたは職業としては神様であつた
コクリコの女神
麦の女神
梨の美爪師
けれども今は地方の女学生の脂肪と
埃を吸入する
遊園地の向方の
船舶の森に花が開く
株主がみんなよろこぶ
世界的午後
ホテルの方へ商売人が歩き出す
太陽の中で一人の男が
アツボッたいチョッキと杏子色の腹巻をきて
酢につけた葉巻煙草を食ふ
さうして非常に熱烈に
バラモンの神様と勲章と蛇のことを
考へて笑ふ
それから彼は彼の頭蓋骨ほどそれだけ大きい
椰子の果実に吸口をつけて一個の
クラリネットを製作して
それをシヤガンで吹く時
カゴの中からコブラの頭が踊り出る
なんと美麗なサボテン
一つの節時計(メトロノーム)のやうに振動する
けれども人々は日陰の方を歩く
彼の友人の一人は支店長になつて
ステキにいゝ帽子をかむつて
半嶋をズン\/歩いてゐる
ラヴナラスの樹の下でヴアイオリンをひき
雨が愛情より降つて来るのを待つてゐる
マホメット教の礼拝堂の窓から人は
微笑する顎をつき出してゐる
その下の方に静粛な湖水が
ドンブリの様な遠方の山々を写す
(このドンブリは実は諸君の背中であつた
要するにフンドシが実によく乾くのである
アカシアの花が非常に美しい
いやになつてしまふ)と旅人がいふ
スエズの運河の中で
クラゲが実によく走つてゐる
地平線が非常に砂だらけである
犬が遊んでゐるテントがある
ムーア人が夕日とビタ銭を追求する
それから星の夜がある
しかし工手学校なにかは無い
追放された人々は岸の上にシヤガンで
涼しい沈黙の中で焦げついた指を監視する
保証人なんぞゐない
気の強い労働者は密閉された夜の中で
しやべつてゐる
ここに一つの軟柔で無口な都会がある
店先で千鳥と宝石が会話することが出来る
警察署の庭にヒビスカスの花が諸君の充血した心臓の
やうに咲いてゐる
土地の人達は猫のやうにハダシで歩く
不明な葉つぱと石灰を嚙みながら心配さうに話してゐた
二人の男は何処かへ行つてしまつた
船舶が到着すると海の下で金銭を魚のやうにつかむ
その金銭を耳にはさんだり口に入れたりして
再び電車線路をつたはつて何処かへ行つてしまつた
クネンボの中に路が失はるゝまで運命を
みずに極端に崇高なることを思索する
おれは駱駝の様に砂の中にもぐつて
熱心をもつて代数をやつてみたい
それから四十歳になつたら
その辺の市場をさがし出し
ホコリだらけの葡萄をたべる
それからいま一ッぺん
おれの魂の方へ
駆け出したらね
カイロの市で知合になつた
一名のドクトル・メヂチネと共に
シカモーの並木をウロ\/として
昨夜噴水のあまりにやかましきため睡眠不足を
来たせしを悲しみ合つた
ピラミッドによりかゝり我等は
世界中で最も美しき黎明の中にねむり込む
その間ラクダ使ひは銀貨の音響に興奮する
なんと柔軟にして滑らかな現実であるよ
(大正15年=1926年7月「三田文学」)
*
この「風の薔薇」で西脇順三郎(明治27年=1894年1月20日生~昭和57年=1982年6月5日没)が初めて発表した日本語詩の連作(「世界開闢説」「内面的に深き日記」「林檎と蛇」と本作)は全4篇を終えますが、これらが同じ「三田文学」の前月6月号に発表されたフランス語長詩「Paradis Perdu(失楽園)」の西脇順三郎自身による日本語訳なのはこれまでに述べた通りです。西脇順三郎にはそれまでに英語詩の詩集、フランス語詩の詩集はありましたが、日本語による第1詩集『Ambarvalia』(椎の木社・昭和8年=1933年9月)に収められた作品でも上記4篇はもっとも早い発表のもので、やはりフランス語の長詩「Paradis Perdu(失楽園)」から日本語訳された他の詩篇とともに詩集でも「失楽園」の総題でまとめられています。しかしこれがフランス語詩の日本語訳という成立事情はあるとしても、「しかしあなたは職業としては神様であつた/コクリコの女神/麦の女神/梨の美爪師/けれども今は地方の女学生の脂肪と/埃を吸入する」のような突拍子もない冗談や、「遊園地の向方の/船舶の森に花が開く/株主がみんなよろこぶ/世界的午後/ホテルの方へ商売人が歩き出す」といった、別に現実的現象としては何でもない出来事をポーカーフェイスのユーモアとして描き出す感覚は確かに西脇順三郎ならではの独創で、西脇はこれを萩原朔太郎の『月に吠える』の文体を継いだものと自負していましたが、『月に吠える』の破格的文体は率直に神経質な感受性と奇想を反映したもので、仮に斎藤茂吉の歌集『赤光』と『月に吠える』『Ambarvalia』を並べてみると『赤光』と『月に吠える』の近さよりも『月に吠える』と『Ambarvalia』ははるかに隔たったものです。西脇順三郎の詩は天真爛漫なほどの快活さ、明るさで『月に吠える』の病的な感覚や抒情を意図的に排除したことで成りたっており、この徹底して健康な明朗さは詩形を問わず日本の詩の主流からはまったく外れた規格外のものでした。萩原朔太郎も詩集『Ambarvalia』の修辞の豊さ、発想の多彩さを賞賛しながらも西脇順三郎の詩を「感覚欠乏症」と批判し、萩原自身の詩の悲壮感を継ぐものではないと退けています。しかしそれこそが西脇の狙いでもあれば『Ambarvalia』で達成したものであって、それは大正時代にほとんど特権的なイギリス留学~ヨーロッパ遊学をしながらも西脇順三郎が西洋人に対してまったくコンプレックスを持たず、また留学経験者であることも誇らなかった態度からも一貫した姿勢でした。これは現在であっても多くの日本人の欧米留学者が何らかのコンプレックスを持ち、また海外在住経験を特別なもののように誇るのを思うと驚くべきことで、西脇の健康な詩は、一見無国籍な根無し草のように見える西脇順三郎がいかに留学経験をも日常ととらえていた人であったかを明かします。萩原のように「ふらんすへ行きたしと思へども/ふらんすはあまりに遠し」という人ではなかったので、もちろん西脇にとっても20代後半の留学は青春の喜びだったでしょうがそれを特別視はしていなかったのを示します。この「風のバラ」を含む詩集『Ambarvalia』の「失楽園」連作は西脇がそういう詩人だからこそ描きだすことができたのです。