人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

西脇順三郎「薔薇物語」(詩集『Ambarvalia』昭和8年=1933年より)

西脇順三郎第1詩集『Ambarvalia』(椎の木社・昭和8年=1933年9月)
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「薔薇物語」

 西脇順三郎

ヂオンと別れたのは十年前の昼であつた
十月僕は大学に行くことになつて
ヂオンは地獄へ行つた
霧のかゝつてゐる倫敦の中を二人が走つた
ブリテン博物館の屋根へのぼつてしかられた
ヂオンの写真はその後文学雑誌に出た
鉛筆の中で偉らさうに頬骨を出した
公園にクローカスの花が石から破裂する時
黄色い曲つた梨がなる時
毎日酒場とカフエと伊太利人の中で話した
ヂオンが寝る所はテムズ河の南の不潔な
町の屋根裏であつて、電気がないから
ビール瓶の五六本にローソクを花のやうに
つきさして、二人の顔を幾分あかるくした
ビール箱にダンの詩とルイスの絵を入れた
僕はその時分は南ケンジントンのブラムプトン
にある薔薇のついたカーペトのあるホテル
に住んでいた。我々はこのホテルを
ロマン・ド・ラ・ローズと呼んでゐた
時々、月影にやき栗をかつて、一緒に
ロマン・ド・ラ・ローズの中へはひつて
電気をつけて悲しんだ
その頃時々遊びに行つたところは
プロレタリアトの雑誌に小説をかいて
ゐた盲目の青年のところであつた。彼は
休戦条約の祝賀会に烟火をあげてヒゲと
眼をやいた勇敢な人であつた。その妻君は
非常に親切で我々を歓待してくれた
その夫婦のゐる室の下が路次の酒場
になつてゐた。十時すぎになると笛吹きが
現はれて流行唄をピユコ\/吹いてゐた
或る晩、その男を部屋へ呼んで話を
した(笛をふくつもりで遂話ばかりになり)
ビールとソーセヂをなめながら
戦後は時勢がヽはり商売にならないとこぼした

(昭和8年=1933年5月「椎の木」)


 この「薔薇物語」は西脇順三郎(明治27年=1894年1月20日生~昭和57年=1982年6月5日没)が「三田文学」大正15年(1926年)7月最初に発表した日本語詩「世界開闢説」「内面的に深き日記」「林檎と蛇」「風のバラ」同様に大正15年6月発表のフランス語長詩「Paradis Perdu(失楽園)」の西脇自身による日本語訳で、成立はもっと早いと思われますが発表は日本語による第1詩集『Ambarvalia』(椎の木社・昭和8年=1933年9月)刊行の直前に「椎の木」に詩集の予告的(実際は詩集書き下ろしと同然です)に掲載され、前記4篇に続いて連載詩「失楽園」の部に収められました。イギリス留学経験と帰国後の感慨が交錯する前記4篇に較べ、本作はイギリス留学時の回想詩で、学友「ヂヨン」と呼ばれているのは猿を妻にした青年を描いた長編小説『猿妻(モンキー・ワイフ)(His Monkey Wife: or Married to a Chimp)』1930、短編集『炎の中の絵(Pictures in the Fire)』1958などで知られる年少のイギリスの異色作家ジョン・コリア(1901-1980)です。語学に堪能だった西脇は18歳から英語で詩作を始め、イギリス留学時には古典的な19世紀ロマン派風の詩稿を仁義を切る時に携えていったそうですが、時はヨーロッパ文学ではモダニズム最盛期の1922年(ジェイムズ・ジョイスの大長編『ユリシーズ』、T・S・エリオットの長編詩『荒地』)の年で、西脇はすぐに最新の文芸思潮を学んでモダニスト詩人に転向しました。オックスフォード大学への入学が書類不備で間に合わず1年間先送りになってしまったので、その時に西脇と交換留学で日本で教鞭を取ることになった文学者シェラード・ヴァインズがイギリス生活のガイド兼学友として西脇に紹介し、もっとも親しくなったのがまだ20代初めの文学青年ジョン・コリアだったそうです。西脇はコリアを通して当時最新のヨーロッパの文芸思潮を学ぶことになりました。これはその友情の記録の詩なのですが、あまりに修辞にデフォルメーションが激しいので一読しても何が書いてあるのかわかりません。しかしこれが楽しみに満ちた青春の回想なのは行文から伝わってくるので、一見無内容なモダニズム詩の本作が西脇を師表した「詩と詩論」の若手詩人のような言葉のポップ・アート化ではなく、現実体験の定着に極端なデフォルメを施した、西脇自身が「超自然主義(シュルナチュラリズム)」、つまり現実体験が第一義にあり、それを詩的誇張によって成立させたものであるのを証します。フランス語長詩「Paradis Perdu(失楽園)」から部分訳して日本語詩に仕立てる発想では大正15年の連作「世界開闢説」「内面的に深き日記」「林檎と蛇」「風のバラ」4篇よりも詩集刊行直前の詩集予告発表詩である昭和8年の本作では現実体験による詩であることはより鮮明になっており(それに従ってジョン・コリアとの交流も5年前から「十年前」になり、コリアは貧乏文学青年から作家的地位を獲得した小説家になっていましたが)、西脇順三郎の詩が一見突拍子もない表現に満ちながらも健康で快活な感性に基づく、屈託した明治以降の日本の現代詩とは反対の明朗さを特徴とするものなのをよく示した佳作になっています。青春の文学とは本来このくらいの快活さを備えたものなのにも気づかされるので、西脇の文体は戦後の現代詩の基礎をなすものになりましたが戦後の詩人たちはもっと切迫した青春しか送れなかったことでも、西脇の詩はそれまでの現代詩とも戦後の詩とも切れた別格的明るさに花開いたとも言えるのです。