金子光晴(1895-1975)は愛知県生まれ、東京育ちの詩人。第一詩集「赤土の家」1919(25歳)は当時流行のヒューマニズム詩だったが、詩集刊行の直後から2年間ベルギー留学し、帰国後の第二詩集「こがね蟲」1923(29歳)では耽美派の象徴詩人になっていた。
奔放な性格の女性作家と結婚し、生活の行き詰まりから夫婦でマレー~インド~シンガポール~パリと8年間の放浪生活(夫人は人気作家で、戦前・戦中・戦後を通して金子はヒモ詩人だった。双方とも愛人を持っていた時期もあったが、結婚生活は安定していた)。今回の帰国は忘れられた詩人になっており、数年の沈黙を経て大傑作「鮫」1937(43歳)を刊行する。日本的ナショナリズムを象徴主義の手法で批判した極限的詩集だった。
以後、金子は敗戦後まで作品発表せず、ひそかに反戦詩を書き続ける。この時期だけでも詩集は5冊にのぼる。戦後は長老詩人の風格もそなえ、思想的テーマの長篇詩から日記的な小品、自伝、旅行記、エッセイ、詩論等なんでもござれ(しかも、圧倒的に面白い!)という健筆を最晩年までふるった。
金子を西脇順三郎(1894-1982)と萩原朔太郎への態度で比較すると、金子は萩原を敵視していた。西脇は萩原を師と慕った。萩原・西脇にあって金子にないのは、イメージの多義性と増殖力である。
だが金子にはささやかな現実をくっきりと、この上なく見事に描き出す職人技があった。今回紹介する詩はそうした資質が最良のかたちで発揮されている。
『洗面器』
(僕は長年のあいだ、洗面器といううつわは、僕たちが顔や手を洗うのに湯、水を入れるものとばかり思っていた。ところが、爪哇人たちは、それに羊や、魚や、鶏や果実などを煮込んだカレー汁をなみなみとたたえて、花咲く合歓木の木陰でお客を待っているし、その同じ洗面器にまたがって広東の女たちは、嫖客の目の前で不浄をきよめ、しゃぽりしゃぽりとさびしい音を立てて尿をする。)
洗面器のなかの
さびしい音よ。
くれてゆく岬の
雨の碇泊。
ゆれて、
傾いて、
疲れたこころに
いつまでもはなれぬひびきよ。
人の世のつづくかぎり
耳よ、おぬしは聴くべし。
洗面器のなかの
音のさびしさを。
(詩集「女たちへのエレジー」1949年刊。執筆1932年)