人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

(14)フランツ・カフカ小品集

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これも神話もの。芥川的なイロニーがある。
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『人魚の沈黙』

ユリセスは人魚の歌から身を守るために耳に蝋を詰め、船の机柱に自分を縛りつけた。もちろん誰でも同じことはできただろう。だがそんなことをしてもまるで役に立たないことは全世界の人々がしっていた。人魚の歌はあらゆるものに打ち克つ。しかしユリセスはそんな話を知っていたとしても悲観はしなかった。彼は一握りの蝋と数メートルの鎖を絶対的に信頼した。そして自分のささやかな計画に無邪気に満足しながら、人魚のいる海へ堂々と船出した。
ところが人魚には歌よりもさらに致命的な武器があった。それは沈黙だった。決してそんなことはなかったが、誰かが彼女らの歌声から逃れる可能性もあるだろう。だがそんな時でも、おそらく誰しも、彼女らの沈黙からは逃れ得ないだろう。自分一個の力で人魚を征服したという感情、続いて起る圧倒的に昂然した気分-これはいかなる英雄をも虜にする。
かくてユリセスが人魚らに近づいた時、歌姫たちは実際歌ってはいなかった。それは人魚らの策略か、あるいは蝋と鎖だけを頼りに思い詰めたユリセスの気迫に歌い忘れたか、だった。
しかしユリセスは、人魚の沈黙を聴いてはいなかった。彼は人魚は歌っており、聴こえないのは自分だけだと思っていたのだ。なるほど、彼は人魚らの喉が上下し、胸が膨らみ、眼に涙が溢れ、唇が開いているのを見た。しかし彼はそれらは自分の周囲で聞こえないまま消えていく、歌の伴奏みたいなものだと信じた。そしてそれらはやがて彼の視野から消えていった。文字通り、人魚は彼の決意の前に消え去ったのだ。
しかし人魚らは、日頃よりもいっそう艶やかに首を伸ばしてユリセスを振り返っていた。岩場に上って、もはや誘惑する気もなかった。人魚らの願いは、ユリセスの偉大な眼の輝きをできるだけ長くとどめたい、というだけだった。
そして人魚に自意識があったら…だが人魚らは海に残り、ユリセスが人魚から逃れた、という事実だけが残った。
以上の叙述に対する追い書きもまた伝えられる。すなわちユリセスは、すこぶる奸計に富む狡猾な男だった。そして、やや人智を越えたことであるが、人魚らの沈黙を予測し、人魚や神々に対してひと芝居打ったというのだ。
(遺稿集「ある戦いの描写」1936)