人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

(19)フランツ・カフカ小品集

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今回も解説なしでお送りする。
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『帰郷』

家に戻った私は、玄関を通り抜けて辺りを眺める。親父の家の古い中庭だ。これは親父の家だ。だがどんな物を見てもみんなよそよそしく、どれもが自分の役目で忙しいという様子だ。私がこの家に何の役に立とう。私が親父の息子、古い農園のせがれだからといって何になろう。そして台所のドアを叩く勇気もない。私は聞き耳を立てる。立ち聞きを咎められないように、遠くから。遠くて何も聞こえない。かすかに時計の音だけ。子供の頃の思い出かもしれない。それ以外に台所で行われていることは本人たちだけの秘密で、私にはわからない。ドアの前でためらうほどに、よそよそしい気持はつのるばかりだ。いま誰かがドアを開けて私に話しかけてきたらどうだろう。私自身も自分の秘密を守ろうとする男になりはしないだろうか?
(遺稿集「ある戦いの描写」1936)
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『共同体』

我々の仲間は五人だ。同じ家から前後して出てきたものばかりだ。初めに一番目の男が出てきて門のそばに立った。次に二番目の男が滑り出て、一番目の男の近くに立った。このようにして三番目、四番目、五番目が次々と出てきた。結局我々五人は一列に並んでしまった。人々はこれに気づき、我々を指して、あの五人はあの家から出てきた、と言った。それ以来我々は一緒に生活しているが、この平和な生活も、絶えず仲間入りの隙をうかがっているもう一人の男によって脅かされている。そいつは何もしないが感じの悪い男で、それだけで十分だ。我々はその男を知らないし、仲間に加える気もない。我々五人にせよ昔からの知り合いではなく、今なおよく知ってはいない。だが我々五人なら可能かつ耐えられることがその六番目の男には可能ではなく、耐えられもしないのだ。それに我々は五人の仲間であって、六人になりたくないのだ。そもそもこうした共同生活にどれほど意味があろう。我々五人にせよ何の意味もないが、これは単に惰性だ。だが新しい結びつきは欲しくない。これは
経験に鑑みて言うことだ。だがそれを六番目の男にどうやってわからせるか?丁寧に説明すれば我々の仲間に迎えたようなものだろう。我々はむしろ一言も説明せずに彼を拒否しよう。彼が唇を尖らせようと肘鉄を食らわそう。だが、いくら肘鉄を食っても性懲りもなくやってくる奴なのだ。
(同)