人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

(4')モンクとパウェルの陰に(p)

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Herbie Nichols(1919-1963,p)、Elmo Hope(1923-1967,p)、Richard Twardzik(1931-1955,p)。この3人はすべてビ・バップ二大ピアニスト、セロニアス・モンクとバド・パウェルから影響を受けて出発し、本家よりさらに過激な作曲・演奏でデビュー。同業者からは才能を刮目されたがアルバムは売れず、評価されたのはようやく1980年代になってからだった。この連載は後でレニー・トリスターノセシル・テイラーといった前衛ピアニストも登場するが、この3人もオリジナリティと実力では同格だった。ただし、彼らは十分な録音・ライヴの機会に恵まれなかった。

ハービー・ニコルズはジャズ雑誌に寄稿したモンク論がブルー・ノート・レーベルの目に留まり、鮮烈なミニ・アルバム2作の後「ハービー・ニコルズ・トリオ」1956(画像1)で決定的な傑作を残す。どれも全曲オリジナル。だが翌年ベツレヘム・レーベルに佳作「ラヴ、グルーム、キャッシュ、ラヴ」録音後は63年の死(43歳・白血病)までアルバムはなく、場末のクラブのディキシーランド・ジャズの仕事で生計を立てていた。再評価は目覚ましく、トリビュート・アルバムは20枚以上になる。これはモンク、バドに次ぐ。

エルモ・ホープはバドの幼な馴染みで43歳の病死までアルバム15枚、参加作10枚を数えるが、周りはみんな出世するのにエルモだけはいつまで経っても出世しなかった。アルバムは売れずクラブ出演の口もない。では何で生計を立てたかというと、ヘロインのバイヤーをやっていた。ジャズ界に顔が広いからだ。生涯に数回服役もしている。
ブルー・ノート録音の初期の「トリオ・アンド・クインテット」1953(画像2)は20曲中17曲がオリジナル。最高傑作は1961年の「ハイ・ホープ!」「ヒアズ・ホープ!」だろう。

リチャード・ツワージクはボストン出身でパーカーと21歳で共演、チェット・ベイカーに見出され、デビュー作(1954年)の翌年にはチェットのバンドでパリ巡業中ヘロインのODで客死した。24歳。未発表録音が1枚あり、デビュー作と共に「コンプリート・レコーディングス」1954(画像3)としてまとめられた。参加作は8作。早すぎる死だった。