人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

(6)マックス・ローチ(ds)

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Max Roach(1924-2007,drums)。ジャズでもやはりリズム・セクションのミュージシャンはリーダーかソロイストでもないかぎりアルバムでは目立たない(ピアニストはまだしも)が、ライヴではベースとドラムスほどかっこいいパートはない。マックス・ローチはバド・パウェルやマイルスとはパーカー・クインテットの同期生で、当時もっと吹けるトランペッターはいたからマイルスは新人賞どまりだったが、バドとローチは一躍トップ・ジャズマンになった。ジャズではドラマーがリーダーになるのはそれほど珍しくない。
ジャズ市場はやはり大都市で、ニュー・ヨークとロサンジェルス、次いでシカゴだから巡業はだいたいこの道筋をまわる。ローチがLAで親しくなったのがベーシストのチャールズ・ミンガスで、1952年には2人で初の黒人ジャズマン設立のインディー・レーベル「デビュー」を起こす。このレーベルは55年まで続いたが、ボックス・セットで聴くと失敗作の山でクラクラする。

ローチが初めて放った大傑作が、メジャーから出した「クリフォード・ブラウンマックス・ローチ」(1954・画像1)で、まだ24歳のブラウン(トランペット)はこの双頭クインテットで一躍トップ・ミュージシャンになり、ガレスピーやマイルスを顔色なさしめたほどだった。だがこの天才は2年後、ツアー中に自動車事故で急死してしまう。
ローチの人徳か、パーカー門下生の結束か、ブラウンの穴はパーカー・クインテットでマイルスの後任だったケニー・ドーハムや、マイルスの愛弟子でパーカーの孫弟子のソニー・ロリンズ(テナー・サックス)が埋めて、ローチは水準の高いアルバムを作り続けると共に、ロリンズ「サキソフォン・コロッサス」1956、モンク「ブリリアント・コーナーズ」1956などの名盤にも参加する。
ローチが民族運動に目覚めたのがロリンズ「自由組曲」1958への参加で、1960年にはミンガス「プレゼンツ・ミンガス」と同時に「ウィ・インシスト」(画像2)を出す。夫人のヴォーカルをフィーチャーした緊迫感溢れるアルバムで、歴史的傑作というべき重みがある。この後のローチのアルバムも人種意識を強く打ち出したもので、「限りなきドラム」1966(画像3)も代表作のひとつだ。