人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

(18c)エリック・ドルフィー(as)

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ドルフィーは年間10枚以上の録音に参加しても生活はやっと、だが作品は素晴しかったことは前2回でも書いた。それでも晩年にはダンサーの婚約者がいて、ドルフィーの伝記ヴィデオで取材を受けていたが、還暦近いのにバレエ教室を開いて若々しく、独身のままドルフィーの思い出を守り続けている、という人だった。
さて、ドルフィーのニュー・ヨーク進出はぎりぎり間に合ったが、61年からは新人のデビューが激減する。ヴェテラン勢の支持層は厚く、ミンガスの株も上ったが、59~60年に華々しかったオーネット・コールマンも61年には失速、62~65年は活動休止している。ドルフィーが61年秋に単身渡欧ツアーを行ったのもアメリカのジャズ不況からだった。帰国後はミンガスのバンドが不定期雇用してくれるだけで、仕事は極端に減ってしまった。

そんなドルフィーにアルバム録音を持ちかけたのが後にビートルズ末期のマネージャー(ストーンズの紹介らしい)、ジミ・ヘンドリックス晩年の著作管理者、アル中時代のジョン・レノンのマネージャーになる問題人物、アラン・ダグラスだった。ドルフィーは若手ジャズマン9人に声をかけ(不況だから)様々な編成で録音したのが63年の「アイアン・マン」で、もう1枚はドルフィー急死後「メモリアル・アルバム」(画像1)として発表後、別のレーベルから「カンヴァセーション」として出る始末だった。この実験が後に成果を生む。
翌64年6月29日にはミンガスのバンドで渡欧後単身ツアー中にベルリンで客死する(糖尿病)のだが、ブルー・ノートに2枚の傑作を残している。3月録音のアンドリュー・ヒル(ピアノ)「ポイント・オブ・デパーチャー」もいいが、2月録音のドルフィー自身の「アウト・トゥ・ランチ」(画像2)は参加メンバーすら「どうやって演奏したのかわからない」と回想する奇怪な全曲オリジナルのアルバム。これまでの実験がすべて花開いた、との感が深いが、決して親しみやすくはない。
親しみやすいのは、ミンガスのツアー(「グレート・コンサート」)後の単身の欧州ツアー中オランダの放送局で録音した「ラスト・デイト」(画像3)だろう。前日に顔合わせ、当日一発録りでOK。はっきり言ってアメリカなら絶対あり得ない不器用なピアノ・トリオ(特にドラムスがパンク!)に急死4週間前のドルフィーが絶品のプレイを聴かせる。