人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

(26b)ジャッキー・マクリーン(as)

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ジャッキー・マクリーンは1958年にブルー・ノートに移籍する。インディーズからインディーズに移籍したにすぎないが、丁寧な制作、誠実なギャラ、ミュージシャンの自発性を尊重した方針など、ブルー・ノートはリヴァーサイドと並んで最もジャズマンに信頼されたレーベルだった。
マクリーン自身がブルー・ノート時代からが本当の自分だ、と発言している。今でも人気の高いプレスティッジ時代のアルバムを「ただのシチュー」と切り捨てる。確かに56-57年の2年間でリーダー作9枚・参加作12枚も録音させられたのは粗製乱造、しかもミンガスのバンドでは有名な鉄拳制裁を受けながら名作「直立猿人」に参加、アート・ブレイキージャズ・メッセンジャーズでは音楽監督の重責に就き2年間で8枚、とプレスティッジ以外にも15枚の録音に参加しているのだ。2年間に36枚はコルトレーンの4年間で33枚を軽くしのぐ。ここまで来ると売れっ子どころではない。消耗品扱いだろう。

ブルー・ノートには1958年から1967年に在籍し、リーダー作21枚(うち6枚が70年代発表)、サイドマン参加作19枚がある。サイドマン参加作もソニー・クラーク「クール・ストラッティン」、ドナルド・バード「フュエゴ」、ウォルター・デイヴィスJr.「デイヴィス・カップ」、フレディ・レッド「コネクション」など名盤目白押しで、これもマクリーンの参加なしにはなかったことだろう。
発売は59年の「ニュー・ソイル」が先だが、59年と60年のセッションを抱き合わせた「ジャッキーズ・バッグ」(画像1)はB面のブルー・ミッチェル(トランペット)、ティナ・ブルックス(テナー・サックス)という激渋メンバーが素晴らしい。必殺オリジナル『アポイントメント・イン・ガーナ』は殺気立つ。
61年作品では「フィックル・ソーナンス」(画像2)が酒脱でいい。ソニー・クラークのオリジナルとなっている冒頭曲は、セロニアス・モンクが譲渡したという美談がある。

そしてマクリーンもフリー・ジャズへの回答をすべき時がやってきた。相性の良いピアニスト、ウォルター・デイヴィスJr.とオーネット・コールマンのバンド経験者ビリー・ヒギンズをドラムスに、ワン・ホーン・カルテットで全4曲の大作に挑む。それが62年の「レット・フリーダム・リングス」(画像3)で、マクリーンはさらに先鋭化することになる。