人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

(27a)チェット・ベイカー(tp)

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Chet Baker(1929-1988,tp,vo)。まず一番上のジャケットをご覧いただきたい。モダン・ジャズのアルバム・ジャケットにはかっこいいものが多いが、メンバー写真にバンド名(兼アルバム・タイトル)、レコード会社名をあしらっただけで「これなら絶対内容もいい」と思わせる。それが「ジェリー・マリガン・カルテット」1952(画像1)で、マリガン(バリトン・サックス、1927-1996)とチェット・ベイカーはこの斬新なピアノレス・カルテットで一躍西海岸のスターになった。元々マリガンはニュー・ヨークでマイルス「クールの誕生」のブレイン兼プレイヤーであり、チェットもパーカーの西海岸滞在時には相方のトランペットを勤めた、いわば原石のような二人が一気に才能を開花させた。今聴いてもまったく古びていない。

あっという間の人気にまずドラムスのチコ・ハミルトンが独立し、早くも翌年にはギャラの不満(通常リーダーが5割、他のメンバーで後の5割を頭割り)からチェットも独立する。たった2年だったが53-54年のチェットはあらゆるジャズ雑誌のトランペット部門1位になり、55年以降急速に過去の人扱いになっていく。
54年と56年のセッションを収めた「チェット・ベイカー・シングス」(画像2)はスタンダードで固めたヴォーカル・アルバムで、トランペットとヴォーカルが両方楽しめる。チェットの声は中性BL的で、男でもやられてしまう魅力がある。

55年にはボストン巡業で見初めたピアニスト、リチャード・ツワーディク(パーカーとの共演経験もあり)を迎えたワン・ホーン・カルテットで渡欧。パリでアルバムを吹き込み、一新したレパートリーでツアーを始めるが、あろうことかツワーディクがODで急死してしまい、ツアー後半は現地ジャズマンで乗りきる。
帰国したチェットは西海岸では人気どん底で、ニュー・ヨークでの活動に活路を見出だすべく奮闘するが、60年代後半にはポップスのアルバム録音しか仕事がなくなる。再び渡欧し、国から国へと渡り歩き、ジャズ界のボス、ディジー・ガレスピーが呼び戻すまで放浪生活が続く。「イン・ボローニャ」1985(画像3)がいい。チェットの最期は事故死というべきか、オランダのホテルの2階の部屋の窓に腰かけていて転落死した。まるで李白のようだった。