人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

乾直惠詩集「肋骨と蝶」1932(9)

偶然だが今回の並びは大正期の夭逝詩人・三富朽葉と北村初雄からの影響を感じさせる。意図的に古風なのだ。乾は夭逝はしなかったが、第一詩集にして夭逝詩人の面影があった。

18.『海』

窓の遠くに青い波。矢車草と海の煙と。空が雲を垂れている。雨に重たく垂れている。

-額に下がったエドワード、種痘の神のジェンナーよ。
-ビイカアの中のリトマス液よ。

私の胸に聴診器。この吸盤の冷たさが、象牙の縞目の冷たさが、胸廓(むね)の秘密をそっと開く。

-雲の向うの浮島よ。
-トランクの中の吸入器よ。

私は船に乗るだろう。私は甲板に佇つだろう。私は雨に濡れながら。そして私は叫ぶだろう。

--海鳥よ、おお鴎らよ。たったひと時、白いお前の翼に乗って、悲しい私の家を忘れに行こう………

19.『島』To my K.Maruyama

麦稈帽子は軽く、皮紐の胴乱は重い。波の音はひびかない。響はここまでとどかない。

その蛋白質の蜘蛛は、性急で、神経質な表情のように、草から草へ、枝から枝へと逃れて行った。

私はいつか、林をぬけて、絶壁に莅(のぞ)んでいた。紺碧の涛が、白い布を岩々に晒していた。千鳥が群れ翔んだ。海風が少女の手つきで、帽子を弄ぶる。
どこか空の亀裂から、寒冷な気流が流れていた。

その夜、私は漁師の家の瞬く洋燈の灯影で、血痰を咯いた。私は蚊帳に縺(もつ)れつきながら、高熱体の網膜の奥を飛翔する、蛋白石色の蜘蛛を追っかけて、いつまでもいつまでも、捕虫網を振り廻していた。

20.『検温器』

今宵ちかちかする洋燈の灯。洋燈の灯は赤いね。
私の手の--細かい静脈のような……私の手の中の検温器。
検温器は生きている。私と一しょに、水銀柱は呼吸する。

私は落葉をふんで、海に消えた道の辺の、龍膽花の紫水晶をふりこぼして、私は旅に出たいね。
ああ、海が鳴っている。鼓動の音をつたえている。

砂丘の上に陽が落ちて、秋の海が……胡弓のように……鳴っている。
私は旅に出たいね。
海気が胸を洗ったら、私の胸のクラリネットは、一そう悲しく冴えるだろう。

今宵ちかちかする洋燈の灯。瞳にしみて来る洋燈の灯は赤いね。
……ああ私の目の、私の目の、
ああ私の目にかかった虹の色、虹の色!

(隔日掲載)