Johnny Griffin(1924.4.24-2008.7.25,tenor sax)。ボ・ディドリーが2008年6月2日に亡くなり(心不全、79歳)、グリフィンが7月末に心臓発作で80歳の大往生を遂げたニュースを新聞で知った時、このふたりの偉大な黒人ミュージシャンが同年生まれ(ディドリーは1928.12.30生)なのに気づいて黒人音楽の拡がりに改めて驚嘆すると共に、真のオリジネイターがふたり前後して天に召されたことに寂しさがつのった。英雄だとか偉人だとか(業績は偉大だが)偶像視したことはない。だが憧れの人だった。ボ・ディドリーは四大黒人ロッカー(後の三人はチャック・ベリー、リトル・リチャード、ファッツ・ドミノ)でいちばん小粒だがそこが好きだ。そしてロリンズにもコルトレーンにもないグリフィンならではの味。グリフィンからジャズに入る人はいないと思うが、いつかきっと遭遇してあざやかな印象を残すジャズマン、そういう存在。
グリフィンの楽歴は当時のジャズマンとしてよくあるもので、大都市シカゴに生まれ育ち、学生時代に十分な実力を身につけ、高校卒業後は名門ビッグ・バンドに就職して20代でシカゴのNo.1テナーの評判を博した。第一作「ジョニー・グリフィン」1956はやや遅咲きの28歳のリーダー作でシカゴのアーゴ・レーベルからのリリース。同年にはN.Y.のブルー・ノート・レーベルと契約しワン・ホーンの快作「イントロデューシング」56(画像1)、リー・モーガン、コルトレーン、モブレーとの競演盤「ア・ブローウィング・セッション」57(画像2)、アンディ・ウォホールがジャケットのワン・ホーン作品「ザ・コングリゲーション」58(画像3)と、当時としては珍しく年1作ペースで充実したアルバムを残す。実際はこの間はビッグ・バンド→ジャズ・メッセンジャーズ→セロニアス・モンク・カルテットなどの年間契約で自作よりサイドマン活動の方が忙しかった。
グリフィンのテナーは当時としては「世界最速」と言われたもので、速いだけなら当時も現在もたくさんのサックス奏者がいるが、アーティキュレーションにもフレージングにも乱れがなく速い、というのは演奏力も音楽性も高度なので、バラードを吹いてもうまい。それはリヴァーサイド・レーベル移籍後により顕著になる。