人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

(36d)ジョニー・グリフィン(ts)

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ここから後はグリフィン円熟の境地に入る。まず59年は「ザ・ビッグ・ソウル・バンド」(画像1・日本盤未発売)で片をつけ、ライヴではエディ'ロックジョウ'・デイヴィスとの2テナー・クインテットで活動を始めた。自分のバンドを持たなかったグリフィンが双頭リーダー・バンドを率いた例外的な期間に当るが、60年代初頭からのジャズ不況がなければグリフィンにとってバトル・スタイルのバンドは本望だったろう、と思わせる。というのは、この時期のスタジオ盤の代表作「ザ・ケリー・ダンサーズ」1961(画像2)、「ドゥ・ナッシング・ティル・ユー・ヒア・フロム・ミー」1963(画像3)が前者はアメリカとイギリスの民謡、後者はリズム&ブルース曲をジャズ・バラード化したもので、60年~62年の足かけ3年で10枚のアルバムがあるロックジョウ(強そうなリングネーム!)とのバトル・チームのアルバムではやらないことをバラード作品の制作に向かわせたと思われる


実はグリフィンはストロング・スタイルだけではなくバラードも名人なのはこれまでのアルバムでも聴けた。だが民謡や歌謡曲のジャズ・バラード化というと下手をすると「ムード・テナー」というかなりヤバいジャンルに足を突っ込むことになる。ロックジョウとのバトルすら日本のリスナーにはトゥー・マッチなのに、ハード・バップのグリフィンのバラード企画盤など誰も注目しなかった。

ところが80年代後半の40~60年代ジャズの再評価のなかで、63年の渡欧から78年の「リターン・オブ・ザ・グリフィン」(カッコいい!)でアメリカのジャズ界に完全復帰したグリフィンはとりわけ注目を集めると共に(デクスター・ゴードンチェット・ベイカーアート・ペッパーらもそうだった。チェットとグリフィンは58年に共演作があるが、音色がまるで合っていない)、熱心な支持者から広まるようなかたちで「ザ・ケリー・ダンサーズ」と「ドゥ・ナッシング・ティル・ユー・ヒア・フロム・ミー」の評価が高まった。実際これらはレイ・チャールズニーナ・シモンらのソウル歌手とも白人フォークとも選曲が重なる点で意外なグリフィンの先見性を示す、と言える。同時期ロリンズはボサ・ノヴァ~フリーで迷い、コルトレーンは新しいカルテットの方向性で迷っていた。グリフィンは「ドゥ~」を置き土産に渡欧して仕事にも恵まれ、15年後帰国する。