人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

悲しみと後悔なら

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(「伯母からの年賀状」連作・その12)

…お気になさらずに。切りつめた(やわらげた)文面だったので、何が主語になっているのかわからなかったのです。ぼくはアスペルガー障害(自閉症の一種)の診断もされており、一般的に言語面では婉曲表現や比喩の理解に障害がある、とされております。
おっしゃっていらっしゃるようなことは、ぼくにもそのまま当てはまることでした。ですから病身になってからは、極力他人と関わらない療養生活を心がけてきました。ぼくの病気では、感情の激しい起伏は命取りなのです。
ぼくは、自分自身を癒さねばなりません。癒し、というメタフィジカルな次元どころか、はっきり「救助」-というべきかもしれません。

純粋な怒り-もちろんこれには、罪を憎んで人を憎まず、に近い意味あいも(自戒というべきか)もあります。ぼくは罪をも人間の宿命として憎むまいと思います。人も憎まず、罪も憎まず。難しいことですが、宿命に向けて純粋な怒りを集中させればある程度は可能かもしれない。
ぼくが何より自分を損ねると思うのは、過去であれ現在であれ、憎しみの感情です。それは自分を憎しみの対象以下に引き下げることになります。他者の真意を忖度してもそれをもって裁くことはできない。
「犯罪」は別として、ぼくはモラルで他人を見ることはしません。いわゆるモラルは人が作ったもので、そんなものを持っているのは人間だけ。馬にも猫にもモラルはないけれど正常な本能がある。人間は本能の壊れた、唯一の動物です。

また、「悲しみと後悔なら、おれは悲しみを選ぼう」と結ばれるウィリアム・フォークナー「野生の棕櫚」1939はアーネスト・ヘミングウェイ武器よさらば」1929への回答で(ラストなどそっくりです)、「武器よさらば」は処女長篇「春の奔流」1926の発展型であり、「春の奔流」はシャーウッド・アンダソン「暗い笑い」1925のパロディです。「悲しみか後悔か」を追求してきたのはこれらのアメリカ作家たちでした(他にも「いなごの日」のN・ウェスト、「心は孤独な狩人」のC・マッカラーズ、「賢い血」のF・オコナー、そして誰より「グレート・ギャツビー」「夜はやさし」のF・スコット・フィッツジェラルドが思い出されます)。-ただし、全力を尽した(または、尽せなかった)生き方、というのは「悲しみか後悔か」とは別の問題でしょう。