人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

働かざる者たち・前編(連作25)

(連作「ファミリー・アフェア」その25)

中学生の頃に読んだイギリスのカトリック作家の風刺小説の冒頭は、こんな警句で始まっていた。
「悪人でも人間には違いないのだから、へぼ詩人でも詩人には違うまい」
そして主人公のへぼ詩人が登場するのだが、この警句は後々までぼくの物の見方に強い作用を及ぼした。応用範囲が幅広いこともあるし、風刺としては意地が悪い-理屈としては寛容を説いているのだが、その根拠は人間の営為などなんであろうとその人間の価値ではない、という皮肉がある。これはG.K.チェスタートン(探偵小説「ブラウン神父」シリーズでも著名)の長編小説「新ナポレオン奇譚」が出典で、内容はすっかり忘れているのに冒頭だけ覚えているのはぼく自身がこの警句を求めていたのだろう。まさにぼくは、さまざまな局面でこの一文を体現することになった。

「ようやく気がついたんですが」
と、ぼくは二度目の退院後の通院で主治医のK先生に訊いた。「Tさん本人が言い出さなければ、ご家族が騒ぐわけがない。そういうことだったんですね?」
K先生は一瞬うんざりした表情になったが、ぼくも当事者なのだからこたえなければ、と思い直したようだった。ぼくは通ってまだ一か月にもならないクリニック併設のデイケアを突然「出入り禁止だ」と申し渡され(本当にそう言われた)、再び部屋にこもっているうちに爆発的な躁になって、躁が過ぎるとどん底の鬱になって、干物になって入院した。K先生はこの一件で初めてぼくが単極性の鬱ではなく双極性障害の1型(躁鬱病)、しかも障害等級1級相当の重いやつだと知ったのだった。

デイケアは、始めはよかった。「聞いてるよ。案外社交性あったんだね。滑舌も良くなった。効果が出ているね」とK先生も楽観的に見ていた。だがそのうち、ぼくに馬鹿にされている、と思い込み始めた青年と、ぼくに恋されている、と思い込み始めた女性(ぼくより二歳下の実家住まいの独身女性)のおかげで-幸い周囲の人たちはぼくが誤解されているのを意識して、その青年や女性とぼくが単独で接近しないように気を使ってくれたが、実はぼくにも思い当たる節はあったのだった。
ぼくは青年に自分の入獄経験を打ち明けていたが、彼が休んだ翌日「昨日、みんなの前で話したよ」「ええっ!」彼は本気でショックを受けていた。それがまずかった。