人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

心理学と精神医学

精神医学では百人の医師がいれば百通りの診断があると言われる。科学にはひとつの事象には客観的な真実はひとつしかないとすれば精神医学は医学ではあっても科学ではない、ということになる。家族を含めた当事者がしばしば精神科医不信からセカンド・オピニオンや転院に走るのも多くは主治医の診断や治療に納得できないからで、患者側には精神医学に客観的真実を求める願望がある。

当事者には切実な問題だけに責任をすべて医師に帰して他の治療者を求める場合も多いが(医学以外の治療方法で解決を図ることも多い)、一般的には科学的とされる身体疾患でさえも診断や治療法は必ずしも絶対的なものではない。医療全体で科学(化学)の占める割合自体は常に時代的な制約にあるので、脳生理学に基づいた薬物療法主流の現代の精神医学はその点では内科的に十分化学的な根拠を備えたものだろう。

科学的な精神医学の始まりは犯罪心理学という法医学的なもので、19世紀は解剖と統計学の地代だった(クリトリスの発見も1860年代に属する)。犯罪者とはなぜ発生するのか、それは一般市民とどう違うのか、解剖による脳の研究(性犯罪者は性器の解剖)と成育史と生活環境の統計的調査による性格形成の両面から犯罪者の研究がなされた。
やがてそれはロンブローゾの「天才論」のような特殊な天才の研究に応用され、さらにクレッチマークレペリンによる一般的な性格類型の研究に進み、この段階で分裂気質・循環気質という性格類型が提唱され、後に精神医学によって統合失調・躁鬱の二大別へ応用されることになる。

フロイトによる精神分析学は発達心理学発達障害、広汎性障害の研究の進展と並行したものだった。フェティシズム、エロスとタナトス等の本能の拡大を究明するとともに当時の西ヨーロッパ文化圏における性的抑圧を解明する役割も果たし論議を呼んだが、フロイトの研究は西ヨーロッパのブルジョワ階級を対象としたもので歴史的な制約にとどまる、という後世からの批判も受けた。労働者階級や異なる文化圏ではフロイトの分析は通用しない、という指摘だが、遅れてヨーロッパ文化が伝播した国々ではフロイト学派の有効性は減じない、とする見解もあり、少なくとも歴史的文献以上の価値は認められている。
フロイトの弟子ユングは…とちょうど字数がなくなった。話題は次回へ譲る。