人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

(補11g)ラリー・ヤング(org)

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Larry Young(1940-1978,organ)。
今回でラリー・ヤング編は完結するが、享年38歳にしては作品数がいかにも少ない。アルバート・アイラーやアンドリュー・ヒルですら、アルバム枚数やライヴ記録はヤングよりずっと多い。晩年までヤングは次第に奇行が目立っていったというが、アイラー同様音楽活動の不如意や経済的困窮が背景にあったことは想像に難くない。

ライフタイム解散後のヤングはほとんど手弁当で、
Lawrence Of Newark(画像1)72-73
-を制作。アルバムはマイナー・レーベルのパーセプションから発売された。内容は、マイルスの「ビッチズ・ブリュー」~「オン・ザ・コーナー」のジャズ・ファンク路線をさらに推し進めたもので、メンバーは匿名参加のファロア・サンダースはじめ19名に及ぶ。全5曲ヤング自作、うち'Khalid Of Space Part Two'はハチャトリアンの『剣の舞』のファンク編曲で、アルバム全体が当時のアメリカのジャズ・ファンクよりも同時代のドイツの実験的ロックに近い感覚がある。具体的にはカンやファウストといったバンドに近い覚醒した鋭さがある。

ヤングは当時のジャズ・ファンクフュージョン市場での成功を有望視され、大手アリスタとの2枚契約で、
Larry Young's Fuel(画像2)75
Spaceball(画像3)76
-を発表する。売れ行きはさっぱりで、批評家の評価も低かった。この二作はラリー・ヤングズ・フュエルというバンド名義で(メンバーは異なる)、ヴォーカル曲も多いが、「オブ・ラヴ・アンド・ピース」以来の変化からは自然な到達と見られる。商業的ジャズ・ファンクフュージョンとは一線を画するものになっている。この二作が評価されるようになったのはここ数年のことだ。

77年のヤングはソウル・テナーのヒューストン・パーソンのサイドマンやドラムスのジョー・チェンバースとの双頭リーダー・バンドで活動していた。
Joe Chambers:Double Exposure(77.11.16)
-は全編オルガンとドラムスのデュオで、本国ではヤング晩年の傑作と名高い。LPでもCDでも再発がないので残念ながら未聴。その4か月後に、ヤングは医療過誤で急逝した。最大手ワーナーと高額の契約を進めている最中だった。