人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

あぶらだことの出会い

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 80年代の終りには20代半ばで、ポップスやロックには飽き飽きしていた。高校生の頃熱中していたパンク=ニュー・ウェイヴ、オルタナティブ系ロックにもうんざりしてしまい、ドイツのCANくらいしか聴く気がしなかった。日本ではパンタ、Friction、P-Modelをずっと追っていたが、やはりこの頃には彼らも円熟の末に停滞期を迎えた印象があり、これまでのように毎月ライヴハウスに通い新作を心待ちにする、というほどではなくなった。

 そんな頃デビューからやや遅れてこれは、と気を惹く存在になったのがピチカートVの「ベリッシマ!」とあぶらだこの「亀盤」(画像3)で、ピチカートは田島貴男オリジナル・ラヴをライヴで見ていたし、あぶらだこはレコード会社から発売拒否されたという前作「青盤」(画像2)が自主制作元のディスク・ユニオンで大量に売れ残りバーゲン品扱いになっていた。ちょうどLPからCDへの全面的な移行期だったので、かえってピチカートVやあぶらだこはデビュー作まで遡って手に入った(さすがにCD化されるまでインディーズ時代のソノシート、ミニアルバムまでは手に入らなかったが)。

 その頃は僅かしかなかったピチカートやあぶらだこのアルバムは本当によく聴いた。ピチカートの「カップルズ」が実はロジャー・ニコルズ「スモール・サークル・オブ・ザ・フレンズ」の忠実なトレースなのに気づいても、さらに「ベリッシマ!」の各曲の出典の見当がついても魅力は減じなかった。ただし次のアルバムからピチカートはCD発売のみになる。90年代半ばまでCDプレイヤーは持っていなかったから、ピチカートVのその後は興味がない。

 さて、あぶらだこだが、83年のデビュー当時(画像4)はハードコア・パンクに分類されていた。ノイジーでストレートなポスト・パンクと見られていた。だがインディーズからのソノシートやミニアルバム(画像5)でも異形さでは既に際だっていた。
 あぶらだこが結成30周年の今日まで至るスタイルを確立したのが、85年のファースト・アルバム「あぶらだこ」(画像1)で、明朝体縦組みの無愛想な歌詞カード、アルバム・タイトルはすべて「あぶらだこ」(なので85年盤は「木盤」、86年盤は「青盤」、89年盤は「亀盤」と呼ばれる)という方針は「木盤」で定まった。音楽性については、また別の機会に譲ろう。