人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

60年代ロック(11)ビーチ・ボーイズ2

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まずは前回のまとめを兼ねて、リコメントから。

[ブライアン・ウィルソンの重圧]
レノン=マッカートニー、またはジャガー=リチャードらの強力なチームがいたビートルズストーンズ、全員が曲を持ち寄ったザ・バーズ、無理のないペースでアルバム制作できたディランと較べ、ビーチ・ボーイズは実質的にブライアンの独力で年間3~4枚のアルバム制作をしてきました。当時ロックは消耗品と見なされていたのでツアー活動も並行して行われ、他のメンバーがオフの時にブライアンひとりがアルバム制作していたのです。さすがに65年からはブライアンはライヴを引退してレコード制作に専念し、ライヴでは代りのメンバーを加入させます。この頃からブライアンは過労と重圧で薬物の濫用に陥り、奇行が目立ち始めます。続きは本文にゆずりましょう」

ブライアンにとって唯一のライヴァルは、ビートルズをおいて他になかった。ボブ・ディラン、バーズ、ストーンズは有力者とはいえビーチ・ボーイズと競合する関係にはなかった。明確にビートルズを意識して制作されたアルバムは「オール・サマー・ロング」64.7(No.1ヒット『アイ・ゲット・アラウンド』収録)、「ビーチ・ボーイズ・トゥデイ!」65.3(No.1ヒット『ヘルプ・ミー・ロンダ』収録)、「サマー・デイズ」65.6(No.3ヒット『カリフォルニア・ガールズ』収録)で、「トゥデイ!」や「サマー・デイズ」では「ヘルプ!~四人はアイドル」65.8までのビートルズを先んじていた、とすら言える。

だが65年12月の「ラバー・ソウル」はブライアンを打ちのめした。ブライアンはポールとは初対面から友人になったが、悲しみや孤独を飾り気なく甘美な音楽に昇華したビートルズの才能をブライアンは激しく羨望した。もう楽天的なマイクの作詞はいらない。このアルバムだけに専属作詞家を起用して、バンドの日本ツアー中に独断専行で制作したのが、「ペット・サウンズ」66.5だった。バンドはライヴ向けの曲がまったくない、と反発。そこで『スループ・ジョン・B』(全米3位)が追加される。
現在ではビートルズ「Sgt.ペパーズ」、ディラン「追憶のハイウェイ61」と並んでロック三大名盤とされる「ペット・サウンズ」は、そういうアルバムだった。そしてブライアンの精神は崩壊する。それもビートルズへの対抗意識による結果だった。