人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

〈ネタバレ注意〉「劇場版・魔法少女まどか〈新編〉」観賞翌日感

イメージ 1

イメージ 2

今回の「劇場版・魔法少女まどか☆マギカ〈新編〉叛逆の物語」は、宣伝展開はすごいが具体的な設定・プロット・ストーリーは厳重に伏せられており、Yahoo!映画にも、封切り後も「まどかが概念となった後の世界を描く」「諸事情によりストーリーは掲載できません」としか解説されていない。異例のことだろう。これだけの紹介ではいったいどんな内容か皆目見当がつかない。

この〈新編〉の観客は前作を既に観ているのが前提だろう。でなければ「まどかが概念になった後の」と言われてもわからない。
劇場版後編の末尾ではこの〈新編〉の予告編も既に公表されていた。その時点では当然誰もが前作の結末と予告編は連続したものと考えた。それが「まどかが概念になった後の世界」ということだ。

ところが前作の結末と予告編には断絶があったのだ。「エヴァンゲリオン」で毎回物議をかもすようなウソ予告ではなかったが、肝心な人物を意図的に(としか思えない)オミットしていた。つまり、前作で世界を改編した代償に消滅した魔法少女が冒頭から平然と登場してくるのだ。観終えてから気づくと、その段階でこれは前作の後日潭ではないことがわかる。また、物語として完結していないこともわかる。ではこの物語は作品のどこに位置づけられるのか。

これはおそらく、テレビ版でほむらが時間の無限ループに陥る第10話の中で起こりえたヴァリエーションを劇場版一作分まるまる使って描いたものなのではないか。つまりこの世界ではまだまどかによる救済は行われていないが、ほむらが遡行した世界はキュウべえによってそのように見せかけられていた。まどかとさやかは最後にマミさんと杏子の前から消滅する。それはほむらの「悪魔」化によってキュウべえの企みが破られ、本来の「まどかが救済した世界」が回復したことを意味する。

マミさんがほむらの時間操作の術にかからないのは一見矛盾だが、登場人物の動きを追うとマミさんと杏子だけが自由意志を持っているのも同じ理由からではないか。そして今回は、さやかとベベ(なぎさ)の仲介によってこの二人にもまどかこそ「円環の理」だったという記憶が残る。
だがエンドロール後に断崖から身を投げるほむらを見ると、物語は終ったようには見えない。ほむらはまだ第10話の中に閉じこめられているのだ。そう解釈するとようやく話の道筋が見えてくる。