詩人石原吉郎(1915-1977)の短歌と俳句については入隊生活(1941年)以前にすでに文学的嗜好を決定しており、戦後の新人では俳句なら金子兜太(1919-)、短歌なら塚本邦雄(1920-2005)に親近性が高い。前回までに石原の文学青年時代までの俳句の動向は見た。
現代俳句が俳句が子規~虚子を源流に虚子派と脱虚子派・反虚子派で割り切れるようには、現代短歌はすっきりしない。これを逐一解説するときりがないので、まず明治末~大正初期に新鮮な作風を確立した歌人を五人引こう。なお、俳句では句の下に俳号のみ署名するのが通例だが、短歌ではフルネームが記載される。
・われ男の子意気の子名の子つるぎの子詩の子恋の子あゝもだえの子(与謝野鉄幹)
・赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり(斎藤茂吉)
・白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ(若山牧水)
・春の鳥な鳴きそ鳴きそあかあかと外の面の草に日の入る夕(北原白秋)
・かにかくに祇園はこひし寝るときも枕の下を水のながるる(吉井勇)
これらは国語教科書で読んだ方も多いだろう。与謝野晶子、石川啄木らは鉄幹の「明星」系として白秋、勇を優先した(啄木は牧水の感化も強い)。また子規門下のアララギ一派ならずとも20世紀前半の大歌人は斎藤茂吉に尽きる。だが白秋らにも、
・ひいやりと剃刀ひとつ落ちてあり鶏頭の花黄なる初秋(北原白秋)
・白き手がつと現はれて蝋燭の芯を切るこそ艶めかしけれ(吉井勇)
・出づるな森を、出づるな森を、死せるごときその顔を保て、出づるな森を(若山牧水)
などの大胆な作品がある。だが大正年間はおおむね実験的な作品は陰を潜め、新興俳句に対応する新興短歌は、昭和五年の前川佐美雄「植物祭」から始まり、昭和15年の合同歌集「新風十人」で頂点に達する。
・たつた一人の母狂はせし夕ぐれをきらきら光る山から飛べり(前川佐美雄)
・死にゆくは醜悪を超えてきびしけれ百花を撒かん人の子われは(坪野哲久)
・路次ゆけば蒼ぶくれの児痩せし児の物見るときに眼に光なし(筏井嘉一)
・霧も灯も青くよごれてまた一人我より不運なやつが生れぬ(明石海人)
・濁流だ濁流だと叫び流れゆく末は泥土か夜明けかを知らぬ(斎藤史)
新興俳句より明らかに暗いのはなぜだろうか。