人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

短歌と俳句(2)石原吉郎1

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石原吉郎(1915-1977)は現代詩の世界で、著名詩人としては本物の狂気を感じさせる唯一の存在とも言える人だった。その作品の不吉さゆえか、生前の名声から一転して没後は急速に過去へ封じられた人でもある。真に「呪われた詩人」の風格を獲得するにはこの人ほどでなければならない。

『位置』
しずかな肩には
声だけがならぶのでない
声よりも近く
敵がならぶのだ
勇敢な男たちが目指す位置は
その右でも おそらく
そのひだりでもない
無防備の空がついに撓み
正午の弓となる位置で
君は呼吸し
かつ挨拶せよ
君の位置からの それが
最もすぐれた姿勢である
(第一詩集「サンチョ・パンサの帰郷」1963より)

石原は文学青年だったが、一歳上の立原道造(1914-1939)のような早熟なエリートではなく、石原も傾倒したレプラ病者の作家・北條民雄(1914-1937)のように若くして特殊な境遇に置かれもしなかった。24歳で召集され、30歳の敗戦時にはソヴィエトに派兵されていたのが石原の運命を決定した。敗残した日本軍兵士は収容所に抑留されて強制労働を強いられ、その多くが飢餓と過労から病死した。1953年の年末にスターリン死去に伴う特赦によってようやく帰国した時、石原は38歳になっていた。当時のアメリカのマッカーシズム(反共産主義)は日本にも及び、ソヴィエト抑留者への世間の目は懐疑的だった。実際には抑留者たちは共産主義国家の最悪の面を見てきたので、日本の共産主義者からも彼らの存在は疎まれた。
訓練兵時代に北條民雄を愛読していた石原が、帰国してまず購入した文学書が文庫版の堀辰雄風立ちぬ」と「立原道造詩集」だったというのも興味深い。帰国の翌年には早くも商業誌に作品が採用される。40歳近い遅咲きの詩人だった。
次に紹介するのは遺稿詩集からの一編になる。

『相対』
おのおのうなずきあった
それぞれのひだりへ
切先を押しあてた
おんなの胸は厚く
おとこは早く果てた
その手を取っておんなは
一と刻あとに刺したがえた
ひと刻の そのすれちがいが
そのままに
双つの世界へふたりを向かわせた
(詩集「足利」1977より)

そんな石原に句集と歌集が一冊ずつある。これが問題作の最たるものなのだ。
(次回へ)