立原道造(1914-1939)23歳頃(昭和13年=1938年)、数寄屋橋ミュンヘンにて。
以前に立原道造(大正3年=1914年7月30日生~昭和14年=1939年3月29日没)の第1詩集『萱草(わすれぐさ)に寄す』(昭和12年=1937年5月私家版)は全編を一度にご紹介しました。この詩集はソネット(14行詩)形式の短詩10篇を収めるのみで、総行数は140行しかないことになります。3段組の文学全集類では3ページで収まっています。詩集の構成は「SONATINE No.1」として5篇、「夏花の歌」として「その一」「その二」の2篇、「SONATINE No.2」として3篇が配され、ソナチネは小ソナタを指す音楽用語ですが、この限定111部の私家版詩集の装丁・判型も楽譜集を模したものです。詩は奇数ページに1篇ずつ印刷され、裏の偶数ページは空白です。立原は26歳で亡くなったのと早くから詩人として方法意識を持って系列的に詩作していたため、沒後刊行の立原道造詩集は実によくまとまっています(立原の生前刊行詩集は『萱草(わすれぐさ)に寄す』と同じ体裁で第2詩集『曉と夕の詩』が続刊されただけでした)。『萱草(わすれぐさ)に寄す』は小野十三郎の画期的な第3詩集『詩集大阪』(昭和14年=1939年刊)と同時期に成立した詩集でした。同時代の詩集ながら小野十三郎の詩集は立原道造の詩集と手法的にも言語意識においてもこれほどの懸隔はないほど対極にあるものです。
立原道造の入手しやすい文庫版詩集には、立原の3歳後輩で兄事した中村真一郎の編集による、1935年~1936年創作の詩篇を編んだ角川文庫版『立原道造詩集』昭和27年初版(1952年)が『萱草(わすれぐさ)に寄す』を起点とし晩年までの詩篇を収録して長く版を重ねており、立原の作風確立後の本格的な作品のみを収めたすっきりとした構成で統一感のある、見通しの良い編集です。昭和63年(1988年)には立原と同学年の同人誌仲間だった杉浦民平編の岩波文庫版『立原道造詩集』が刊行され、こちらは『萱草(わすれぐさ)に寄す』以前の習作時代や異稿、未定稿まで含んだ全詩集と言えるものになり、角川文庫版の倍の分量になっています。どちらも編者の見識がうかがわれ、立原自身の基準で水準に達したと思われるものを集めたのが角川文庫版ならば、岩波文庫版はより網羅的に最初期から最晩年の詩業を追ったものと言えます。岩波文庫版は一見角川文庫版を包括しているように見えますが、習作や異稿、未定稿に紛れて立原自身の自信作が埋もれてしまっている観もあり、角川文庫版になじんでから岩波文庫版に進む(または岩波文庫版までは進まない)のが立原の詩を理解しやすいと思います。
しかし立原道造の詩は理解ではなく感覚に訴えることを目指したもので、同時代の代表的な抒情詩人とされる伊東静雄や中原中也とは大きく異なっています。伊東静雄の認識的な形而上詩、中原中也の肉体的な物質感のある具象的な心境詩と較べると、立原の詩には詩自体の自律性や物質的質感が極端に稀薄です。それは立原の年譜と対照して立原の生活史に具体的な対応を求めなくてはしばしば理解できず、そのような参照を経なくては理解できない詩の問題があると言えますし、後世の読者はともかく同時代の読者には立原の詩は立原本人をよく知る特定の文学サークル内でのみ味読され、そうした文学エリートのサークルへの憧憬が若い詩人たちを立原崇拝に招いた、とも言えるでしょう。立原は堀辰雄の愛弟子でしたが、堀辰雄は芥川龍之介に寵愛されてデビューし室生犀星・萩原朔太郎の寵愛を受け、芥川は夏目漱石晩年の愛弟子であり、また芥川~堀は独自に用語集を作って遵守するほど森鴎外の用語と文体を日本語の模範としていました。立原道造は鴎外・漱石、芥川、萩原朔太郎と室生犀星、堀辰雄と三好達治の正統的な後継者たるサラブレッド詩人であることを大学在学中から自負しており、実際に犀星と堀、三好の寵愛を受けてデビューしたのです。立原は数え年24歳の晩年には全国の青年詩人の指導的存在として機関誌を企画し、立原自身の基準に達した詩人のみを会員とし立原が認めない詩人は入会を拒否されました。病弱だった立原はおそらく戦局の激化にも徴兵を免れたでしょうが、早逝しなければ戦後にもまだ30代で支配力をふるっていたかもしれない世代の詩人でした。
立原の第1詩集『萱草(わすれぐさ)に寄す』は東京大学建築課の卒業記念に刊行されましたが、建築事務所への就職は内定していましたので、建築士として社会人になるのと単行詩集を持った詩人となるのは立原にとってどちらも重要なことでした。在学中の昭和11年(1936年)11月に立原は同人だった詩誌「四季」(堀辰雄・三好達治主宰)の斡旋で19世紀のドイツ作家シュトルムの短編集『林檎みのる頃』(山本文庫)を訳出・刊行しています。昭和9年末に「四季」同人となった立原は、昭和10年・11年とたびたび軽井沢追分の堀辰雄の別荘に招かれ、三好達治や三好・堀の師に当たる室生犀星にも愛され、しばしば犀星の別荘にも招かれています。浅間山の小噴火で灰が降る光景を見学したり、避暑地で知りあった少女にシュトルムの短編小説「みずうみ」のヒロインを重ねてエリーザベトと呼んだり、また別の少女を鮎と名づけ惹かれていましたが、1年も経たずに彼女は結婚してしまいます。これら富裕層中産階級のサロンの情景が反映したのが立原の詩篇であり、軽井沢在住の観光業者や一般の地元民の姿は立原の詩にはまったく登場しません。
ではなぜ「浅間山の噴火は」ではなく「ささやかな地異は」(「はじめてのものに」)ではなければならないのか、場所を上げるのに「山の麓のさびしい村」「島々」「岬」「日光月光」と抽象化して浅間山の麓の追分、紀州半島諸島、潮の岬、日光月光菩薩(奈良興福寺)との現実的対応を避けるのか、不完全文が頻出し指示語は常に仮定形で流されてしまうのか。これはすべて立原の詩的嗜好によるものですが、通常このような抽象化によって完成した詩は未熟を免れません。にもかかわらず立原の詩が伊東静雄や中原中也の詩よりも形式の整った、完成度の高い作品のように見えるのは現代日本語の口語表現の弱点を利点に変えたからで、伊東の「わがひとに與ふる哀歌」や中原の「含羞(はぢらい)-在りし日の歌-」にあった身をよじるような苦痛を伴う言語感覚からはまったく異なるものです。その代わり立原の詩の獲得した均質性は、この詩集で言えば「SONATINE No.1」(5篇)、「夏花の歌」(2篇)、「SONATINE No.2」(3篇)をそれぞれ連作として3篇からなる統一感を与え、不完全であることによって連作性が成り立つ構成になっています。「SONATINE No.1」の5篇は1篇ごとの完結性に欠けるために逆に14行詩5篇からなる連作のように補完しあい、印象としてはどの詩も似たり寄ったりの堂々めぐりをしています。
ですがそれは欠点というよりは立原の魅力をなす独創で、今なお立原道造詩集に愛読者が絶えず、これを完全に過去の詩として葬れないのはその独創が現在でも効果を失わず、立原の詩を立原と同じ土俵で凌駕し、変質させてみせた詩人が現れなかったことによります。以上を『萱草(わすれぐさ)に寄す』前半5篇の「SONATINE No.1」再読の前置きとして、次回は詩集後半の5篇を再読してみたいと思います。
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『萱草(わすれぐさ)に寄す』昭和12年(1937年)5月12日・風信子叢書刊行会刊(私家版)
SONATINE
No.1
はじめてのものに
ささやかな地異は そのかたみに
灰を降らした この村に ひとしきり
灰はかなしい追憶のやうに 音立てて
樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた
その夜 月は明かつたが 私はひとと
窓に凭れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)
部屋の隅々に 峽谷のやうに 光と
よくひびく笑ひ聲が溢れてゐた
――人の心を知ることは……人の心とは……
私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を
把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた
いかな日にみねに灰の煙の立ち初めたか
火の山の物語と……また幾夜さかは 果して夢に
その夜習つたエリーザベトの物語を織つた
(「四季」昭和10年=1935年11月)
またある夜に
私らはたたずむであらう 霧のなかに
霧は山の沖にながれ 月のおもを
投箭のやうにかすめ 私らをつつむであらう
灰の帷のやうに
私らは別れるであらう 知ることもなしに
知られることもなく あの出會つた
雲のやうに 私らは忘れるであらう
水脈のやうに
その道は銀の道 私らは行くであらう
ひとりはなれ……(ひとりはひとりを
夕ぐれになぜ待つことをおぼえたか)
私らは二たび逢はぬであらう 昔おもふ
月のかがみはあのよるをうつしてゐると
私らはただそれをくりかへすであらう
(「四季」昭和10年=1935年11月)
晩(おそ)き日の夕べに
大きな大きなめぐりが用意されてゐるが
だれにもそれとは氣づかれない
空にも 雲にも うつろふ花らにも
もう心はひかれ誘はれなくなつた
夕やみの淡い色に身を沈めても
それがこころよさとはもう言はない
啼いてすぎる小鳥の一日も
とほい物語と唄を教へるばかり
しるべもなくて來た道に
道のほとりに なにをならつて
私らは立ちつくすのであらう
私らの夢はどこにめぐるのであらう
ひそかに しかしいたいたしく
その日も あの日も賢いしづかさに?
(「新潮」昭和11年=1936年9月)
わかれる晝に
ゆさぶれ 青い梢を
もぎとれ 青い木の實を
ひとよ 晝はとほく澄みわたるので
私のかへつて行く故里が どこかにとほくあるやうだ
何もみな うつとりと今は親切にしてくれる
追憶よりも淡く すこしもちがはない靜かさで
單調な 浮雲と風のもつれあひも
きのふの私のうたつてゐたままに
弱い心を 投げあげろ
噛みすてた青くさい核(たね)を放るやうに
ゆさぶれ ゆさぶれ
ひとよ
いろいろなものがやさしく見いるので
唇を噛んで 私は憤ることが出来ないやうだ
(「四季」昭和11年=1936年11月)
のちのおもひに
夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に
水引草に風が立ち
草ひばりのうたひやまない
しづまりかへつた午さがりの林道を
うららかに青い空には陽がてり 火山は眠つてゐた
――そして私は
見て來たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を
だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた……
夢は そのさきには もうゆかない
なにもかも 忘れ果てようとおもひ
忘れつくしたことさへ 忘れてしまつたときには
夢は 眞冬の追憶のうちに凍るであらう
そして それは戸をあけて 寂寥のなかに
星くづにてらされ道を過ぎ去るであらう
(「四季」昭和11年=1936年11月)
(以下次回)