詩人石原吉郎(1915-1977)は、俳句においてはいわゆる「新興俳句」の系譜を継ぐ。新興俳句とは保守本流の高浜虚子門下の精鋭だった水原秋桜子、山口誓子、中村草田男らの連作・無季俳句の実験が発展したもので、秋桜子らはやがて形式的には定型・有季俳句に回帰したが(内容的には新興俳句の実験性を通過したものになった)、新興俳句を出発点とした新人たちにより俳句における革新がようやくなしとげられ、戦後俳句へとつながる。
(反虚子の水脈は虚子と並ぶ正岡子規の二大弟子・河東碧梧桐の流派にもあり、また虚子は子規没後に引き継いだ「ホトトギス」で、虚子門下の五大有力新人と目された渡辺水巴、村上鬼城、飯田蛇笏、原石鼎、前田普羅を次々と独立を名目に事実上破門している。新興俳句においても秋桜子、誓子、草田男、加藤楸邨らは独立させ、杉田久女と日野草城、吉岡禅寺洞の三人はホトトギス会員から除名した。この百年の俳句史は虚子派と反虚子派のせめぎあいと言える)。
蛇笏や石鼎の反逆は反虚子への運動には広がらなかったが、新興俳句は昭和初期の歴史の転換期と重なって大きなムーヴメントとなった。新興俳句の五大作家と呼ばれるのは高屋窓秋、篠原鳳作、西東三鬼、渡辺白泉、富沢赤黄男で、先の虚子門下から追放された五大俳人と比較してみよう。
・冬蜂の死にどころなく歩きけり(鬼城)
・手を打たばくづれん花や夜の門(水巴)
・くろがねの秋の風鈴鳴りにけり(蛇笏)
・秋風に殺すと来たる人もがな(石鼎)
・人殺す我かも知らず飛ぶ蛍(普羅)
彼らが当初虚子に実力派新人と優遇され、やがて追放されていったのは、虚子自身が「ホトトギス」の組織の拡大化とともに俳句の本流は写生(客観的観察)にありとして主観性の強い彼らの作風を「ホトトギス」に合わないとした、という事情がある。大正初期のことだった。
新興俳句は昭和10年前後に全国の小同人俳句誌で盛んになる。
・頭の中で白い荒野となつてゐる(窓秋)
・しんしんと肺碧きまで海のたび(鳳作)
・水枕ガバリと寒い海がある(三鬼)
・戦争が廊下の奥に立つてゐた(白泉)
・爛々と虎の眼に降る落葉(赤黄男)
同時期に短歌のモダニズム(新興短歌)も前川佐美雄、坪野哲久、齋藤史らの有力新人によってなしとげられる。石原は当時20歳すぎの文学青年だった。