人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

頭の中の映画2/レネ、フェリーニ

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アラン・レネの『去年マリエンバートで』(61年・仏)とフェデリコ・フェリーニ『81/2』(63年・伊)は、現実と仮想が入り混じる映像表現で類似はよく指摘されますが、実際の印象はかなり異なります。それを技法的にプルーストジョイスの相違になぞらえて評したのは故・丸谷才一で、世界映画史上のベスト・スリーの一位に『81/2』、三位に『去年マリエンバートで』を推し、二位には映画の古典主義を代表するリアリズム作品としてエイゼンシュテイン戦艦ポチョムキン』(25年・ソ)を上げています。
だが『戦艦ポチョムキン』は果して古典主義的リアリズム作品なのか。素材やプロットからはそう見えるが現象を映像的に把握する大胆さでは、現実の虚構化はレネやフェリーニ作品以上に徹底されているのではないか、とも思えます。故人の評はあまりに文学に対応させて観賞している。観点としては明晰で有用だが、妥当とは言えません。

この二作の相違はルノワールゲームの規則』(39年・仏)とウェルズ『市民ケーン』(41年・米)に近いのではないか、というのは映像表現よりも、プロットの技法による印象からです。必ずしもどちらがどの作品に対応するのではありませんが、『ゲームの規則』と『市民ケーン』は明確に対立している。この二作は第二次大戦中に制作された悪魔的な傑作です。
誰が主人公で何が本筋かも判然とせず、玉突き的に事件が羅列され、唖然とするような終幕を迎える。前者はそんな社交界映画です。一方後者は主人公の臨終から始まり、レポーターが主人公の謎に満ちた生涯を多数の関係者への調査から解明しようとする。いわば推理映画の形式です。
何が起るかわからない、という現在形で進んでいく前者と、何が起きたかを探っていく、と過去に遡行して行く後者の対照は映画史でも面白い現象です。それが国籍を異にするのも暗示的と言えるでしょう。

去年マリエンバートで』は滞在型巨大ホテルを舞台に、一人の男が人妻に去年駆け落ちする約束をしただろう、と迫る。そして彼女の夫との駆け引きが描かれる。それだけの映画です。一方『81/2』は新作の撮影を控えて漠然としたアイディアしか浮かばない映画監督が決定的な構想を模索するさまを描いた、いわば映画制作の楽屋裏自体を映画にしたものです。どちらも本来なら面白い映画になりようがない。では、なぜ面白いのか。